第123話:沸騰する地熱源泉! 摂氏80度の熱湯プールに潜む影
溶岩洞窟を抜けた一行の視界に飛び込んできたのは、まるで異界の神話に描かれる幻境のような光景であった。
黒曜石の鋭利な奇岩群にすり鉢状に囲まれた巨大な窪地。
その中央に満々と湛えられていたのは、エメラルドグリーンと乳白色が混ざり合い、神秘的なグラデーションを描く巨大な天然熱水源泉――『沸騰の湯神池』であった。
直径はおよそ30メートル。
池の底のあちこちにある熱水噴出孔から、ゴボッ……ゴボボボッ!と激しい気泡が絶え間なく湧き上がり、水面からはもうもうと立ち上る純白の硫黄蒸気が、周囲の空間を幻想的な霧で霞ませていた。
「……あ、熱いですわ。水面から立ち上る湯気だけで、お湯の温度が尋常ではないことが分かりますわ」
シェリルが魔導杖を構え、水面へ向けて微小な冷気探査魔法を飛ばした。
杖の先端の氷晶宝玉が、かすかに危険を告げる赤光を放つ。
「水温は……摂氏から八十五度……! 温泉というより、完全に熱湯風呂ですわ! 生身の人間なら、落ちた瞬間に皮膚のタンパク質が熱凝固を起こし、全身が茹で上がって大火傷を負ってしまいます!」
「うにゃ〜……! お湯がブクブク沸騰してるニャ! こんな熱いお湯の中に、お魚なんて絶対に泳げるわけないニャ!」
ニーナが熱気に当てられて目を細めながら、猫耳をピクピクと動かした。
監査官ルキウスもまた、高級なハンカチで額の脂汗を拭いながら、冷ややかな嘲笑を浮かべた。
「シェリル殿の言う通りだ。八十度を超える熱湯など、通常のタンパク質が一瞬で熱変性を起こして機能を失う死の極限環境。大腸菌などの細菌すら死滅する熱水プールに、魚類のような高度な多細胞生物が棲息しているはずがない。こんな不毛な場所に立ち寄るなど、時間の無駄以外の何物でもないな」
ルキウスが吐き捨てるように言い放ち、先を急ごうと踵を返そうとした、その時だった。
「おいおい、監査官先生。自分の狭い机の上の常識で、大自然の無限の可能性を決めつけるんじゃねえよ」
バルツがカンテラの火を弱め、湯神池の縁――熱せられた黒曜石の岩棚の上にしゃがみ込んだ。
その双眸は、白濁した熱湯の底を、鷹のように鋭利に見据えていた。
「水面だけを見てるから見落とすんだ。池の底、水深5メートルの熱水噴気孔の周囲をよく観察してみな」
バルツが指差した熱湯の底。
ティオとジャン、そしてニーナが目を凝らして水面を覗き込んだ。
すると――。
「……っ!? な、何だありゃあ……!?」
ティオが息を呑んだ。
摂氏を超える熱湯の底、岩の隙間から、ユラリ……と巨大な黒い影が姿を現したのだ。
その体長は優に2メートル半。胴体の太さは大人の大腿部ほどもある。
背中は漆黒の滑らかな皮膚で覆われ、腹部は目の覚めるような鮮やかな黄金色の輝きを放っていた。
胸鰭と尾鰭をしなやかに波打たせ、沸騰する熱湯の中を、まるで春の清流を戯れる鮎のように優雅に、悠然と泳ぎ回っていたのだ!
「ば、馬鹿な……!? 熱湯の中を……魚が……魚が平然と泳いでいるだと……!?」
ジャンが目を見開き、眼鏡を取り落としそうになりながら叫んだ。
宮廷料理人として世界中のあらゆる魚介類を知り尽くしていたジャンにとっても、熱湯の中で生きる魚など、天地がひっくり返るほどの衝撃であった。
「黒曜カルデラの熱湯源泉にのみ生息する幻の怪魚――《地熱源泉鰻》だ」
バルツが楽しげに口の端を吊り上げた。
「源泉鰻の体内には、熱変性を防ぐ特殊な生体防御タンパク質――高濃度ヒートショックプロテイン(HSP)が無数に発現してる。さらに皮膚表面は、多層の耐熱コラーゲンと、超高密度の不熱性ムコ多糖類粘液で完璧に断熱コーティングされてるんだ。外の八十度の熱湯が、体内の筋肉組織まで伝わらねえ断熱ジャケットを着てるようなもんだな。そして、この源泉の底に自生する好熱性硫黄細菌を喰って育つ、真っ赤な『地熱温泉エビ』や、ミネラル豊富な温泉藻だけを喰らって生きてる」
バルツの解説に、ジャンの料理人としての嗅覚が激しく反応した。
「泥やヘドロを一切喰わず、清澄な熱泉のミネラルと温泉藻、そして地熱エビだけで育つウナギ……!? ということは……!」
「ああ、その通りだ。通常の川ウナギや沼ウナギが持つ、あの独特の泥臭さや川魚特有の青臭さが……最初から一欠片も存在しねえ」
バルツは解体包丁の柄をトントンと叩いた。
「それどころか、八十度の熱湯の水圧と激しい対流水流に抗って泳ぎ続けてるから、全身の筋肉が驚異的な弾力で引き締まり、皮下にはオレイン酸を豊富に含んだサラサラの純白ラードが極厚に蓄えられてる。泥抜きの手間もいらねえ、裂いて炭火で焼くだけで極上の蒲焼きになる、天上の魚だぞ」
バルツの言葉に、シェリルも知的な瞳を輝かせた。
「なるほど……熱水環境に適応した筋肉組織は、通常の魚類よりもミオシンとアクチンの結合が強固で、加熱しても型崩れせず、極上のふっくらとした食感を生み出すはずですわね」
「泥臭さゼロの天然ウナギ……! 極厚の不飽和ラード……!」
ティオもニーナも、そしてジャンまでもが生唾をごくりと飲み込んだ。
ルキウスだけが「フン、魚一匹に大の大人が血道を上げて……」と忌々しそうに腕を組んでいたが、その視線は怪魚の黄金色の巨体から離れなくなっていた。
だが、問題はその捕獲方法であった。
「でもおっちゃん、池の水は八十度だぜ? 通常の麻網や投網を入れたって一瞬で茹で上がって破れちまうし、飛び込んで掴み取りするわけにもいかねえぞ」
「網なんざいらねえよ。狩人は一本釣りだ」
バルツが背嚢から取り出したのは、先ほど作ったあの《黒曜岩塩猪》の耐熱腱ロープを細く撚り合わせた特製の耐熱釣り糸と、火打ち石鳥の鋭利な嘴を削り出して作った巨大な黒曜石の釣り針であった。
針の先には、先ほど採取した火炎唐辛子の果肉で揉み込んだ、熱泥芋虫の濃厚な脂身が餌としてしっかりと掛けられている。
竿として使うのは、洞窟の入口に自生していた、しなりと剛性を併せ持つ黒曜竹の太枝。
「八十度の熱湯の中でも溶けねえ、耐荷重三百キロの耐熱仕掛けだ。熱湯の対流を見極めろ。源泉の底から吹き上がる上昇気流に乗せて、エビの匂いを漂わせるんだ」
バルツが手首のスナップを利かせ、ピュンッと仕掛けを湯神池の中央へと投じた。
ボチャンと熱湯の水しぶきが上がり、黒曜石の針と芋虫の脂身が、沸騰するエメラルドグリーンの深みへと吸い込まれていく。
熱湯の中で芋虫の濃厚な脂がわずかに溶け出し、甘美なアミノ酸の匂いが水流に乗って拡散する。
その瞬間――。
池の底を泳いでいた体長2メートル半の巨大な黄金の魚影が、ピタリと動きを止めた。
側線器官で水流の微細な乱れを捉え、鋭い嗅覚で極上の脂身を感知した怪魚が、ゆっくりと反転し、仕掛けへ向けて巨体を滑らせ始めたのだ!
「来たぞ……! 食いつく気配だ!」
「ティオ、ジャン、竿を支えるのを手伝え。あの怪魚を、源泉から一本釣りでぶっこ抜くぞ!」
「「おうっ/はいっ!!」」
熱湯の池の縁に、男たちの熱き闘志が燃え上がった。
沸騰する源泉の底に潜む黄金の怪魚を巡る、前代未聞の源泉一本釣りが、今まさに始まろうとしていた!
大自然の熱湯を制し、至高の美味を手にするための、命懸けの力比べが幕を開ける!
水煙立ち込める源泉に、男たちの豪快な鬨の声が轟く瞬間が迫っていた!




