第119話:灼熱の溶岩洞窟と、自生する「火炎唐辛子」の群生地
50メートルの断崖絶壁を耐熱腱ロープで踏破した一行は、火口カルデラ『紅蓮の巨鉢』の外輪山に穿たれた、巨大な地下空洞へと足を踏み入れていた。
そこは、かつて太古の噴火の際に超高温の溶岩流が大地をくり抜いて形成された、天然のトンネル――『溶岩洞窟』であった。
天井の高さは10メートル以上、幅は20メートルを超え、内壁はドロドロに溶けた玄武岩が急冷されてガラスのようにツルリと黒光りしている。
直射日光は完全に遮られているものの、洞窟の底を流れる地下マグマ脈からの強烈な放射熱によって、洞内の気温は優に摂氏を超えていた。
湿度は極限まで低く、乾ききった熱風が肺の奥をチリチリと焦がす、天然の超高温ドライサウナ状態であった。
「……あ、暑いですわ……! 息を吸うたびに、気管の粘膜が張り付きそうです……!」
シェリルが額の汗を拭いながら、魔導杖の氷晶宝玉から微小な冷気ドームを展開し、一行の周囲の体感温度をかろうじて押し下げていた。
霊峰で体温調節魔法を極めたシェリルがいなければ、生身の人間であれば数分で脱水熱射病に倒れていてもおかしくない極限環境である。
だが、そんな過酷極まりない灼熱の洞窟の奥へと進むにつれて、バルツとニーナの足取りがふっと緩やかになった。
「くんくん……! ニャっ!? 風の匂いが劇的に変わったニャ!」
ニーナがピクピクと鼻をひくつかせ、前方の暗がりを指差した。
洞窟の奥から漂ってきたのは、硫黄の煙の鼻を刺す臭気ではなかった。
思わず鼻腔がツンと心地よく刺激されてくしゃみが出そうになるほどの、強烈なスパイシーアロマ。
だが、その鋭利な辛味成分の奥底には、まるで南国の太陽をいっぱいに浴びて完熟したマンゴーやパパイヤ、あるいは白桃のような、濃厚でフルーティーな甘酸っぱい果実の香気が濃密に混ざり合っていたのだ。
「……おいおい、見ろよ。黒曜峡谷の最高の宝が、こんなところに群生してやがる」
バルツがカンテラの灯りを前方の玄武岩の壁面へと向けた。
その瞬間、一行の視界を埋め尽くしたのは、息を呑むほど幻想的な光景であった。
「ま……まあ……! なんて鮮やかで美しいのかしら……!」
シェリルが思わず感嘆の声を上げた。
漆黒の溶岩壁一面に、蔦を這わせるようにして無数に実っていたのは――。
大人の手のひらほどの長さ、20センチを超える巨大な紡錘形の果実。
その果皮は、まるで真っ赤に熱した炭火や、磨き上げられたルビーのように、自らぼんやりと朱色の熱光を放ちながら艶やかに輝いていた。
死火山の地熱と火山灰のミネラルだけを吸い上げて実をつける、大陸屈指の幻の香辛植物――《火炎唐辛子》の巨大な群生地であった。
「火炎唐辛子だと……!?」
宮廷料理長のジャンが、料理人としての本能を激しく刺激されて身を乗り出した。
「王都の最高級貴族街で、乾燥させた粉末わずか一瓶が金貨数十枚で取引される伝説の香辛料だ! だが、市場に出回るのは乾燥させて風味が飛んだ粗悪品ばかり……! 生きたまま、これほど瑞々しく自ら生体発光する完熟果実の群生など、王立図書館の博物誌の中でしか見たことがないぞ……!」
ジャンは震える手で一本の火炎唐辛子に触れようとしたが、バルツが軽く手首を掴んで止めた。
「素手で触るなよ、料理長。果皮の表面には、高濃度のカプサイシンを含んだ揮発性オイルが滲み出てる。素肌についたら、火傷みてえな激痛が三日は消えねえぞ」
「お、おお……! 危ないところだった……!」
バルツは厚手の耐熱革手袋をはめると、蔓の根元から一本の火炎唐辛子をナイフでプチリと切り離した。
切り口から、黄金色の果汁がツーツーと滴り落ち、熱せられた岩肌に落ちた瞬間にジュッと蒸発して甘酸っぱい香りを放つ。
「この火炎唐辛子はな、ただ辛いだけの安物じゃねえ。極限の乾燥と摂氏の地熱の中で果実の水分を限界まで蒸発させ、果肉細胞の浸透圧を高めるためにアミノ酸と果糖を濃縮させた『超濃厚フルーティー・ペッパー』だ。辛味の奥に、完熟マンゴーの倍以上の天然果糖が詰まってる。……こいつの果汁を肉に塗って炭火で炙りゃ、唐辛子の糖分がカラメル化して、外はカリッと甘辛く、中は舌が痺れるほどジューシーな極上のスパイスダレになるんだ」
「完熟果糖とカプサイシンのカラメル化……! 何という至高の調味料だ……!」
ジャンの目が輝いた。
王都で貴族たちに振る舞ってきた宮廷料理にはない、野生の大自然だけが生み出せる爆発的な旨味の設計図が、次々と頭の中に組み上がっていく。
「ティオ、革袋を広げろ。完熟した大振りのやつを二十本採取するぞ。今夜の晩飯は、火炎唐辛子を使った極上のスペアリブBBQだ!」
「よっしゃーっ! 辛い肉、大好物だぜ!」
ティオとニーナが楽しそうに唐辛子の収穫を始めた、その時だった。
カサカサ……ペタペタペタッ……!
洞窟の天井――頭上10メートルの黒曜石の天井から、無数の吸盤が岩肌を這い回るような、不気味で湿った高速の足音が響き渡った。
ニーナの猫耳がピンと立ち、瞬時に頭上へと跳ね上がる。
「上ニャ!! 天井に何か張り付いてるニャ!!」
カンテラの光が天井を照らし出した瞬間、全員が息を呑んだ。
そこにいたのは――体長3メートルを超える、真っ赤なオオトカゲであった。
四肢の指先には、ファン・デル・ワールス力を利用してツルツルのガラス質岩壁を吸着疾走する無数の微細剛毛が生え揃っている。
その皮膚は火炎唐辛子とまったく同じ朱色の耐熱鱗で覆われ、口の端からはドロドロとした黄色い粘液をダラダラと垂らしながら、ぎょろりとした黄色い複眼で一行を見下ろしていた。
火炎唐辛子を主食とし、その猛毒のカプサイシンを体内で濃縮して胃酸と融合させた、洞窟の壁面捕食者――《火炎唐辛子蜥蜴》であった!
「シャァァァァァァッッ!!」
トカゲが顎を限界まで大きく広げた。
喉元にある巨大な酸液嚢がボコボコと脈動し、吸い込んだ大気を高圧で圧縮する不気味な吸引音が鳴り響く!
触れれば肉を溶かし、激痛で悶絶させる『激辛強酸液』の砲撃が、一行めがけて放たれようとしていた!
「ひ、ひぃぃっ! 酸だ! あんなものを浴びたら骨まで溶かされるぞ!」
ルキウスが悲鳴を上げて黒曜石の陰へと逃げ惑う。
だが、ティオは即座に黒鉄の大剣を背中から抜き放ち、両足の母指球を大地にしっかりと食い込ませた。
巨角鹿の革が巻かれた柄を両手で握り締め、大剣の広い刀身を斜めに傾けて構える。
「シェリル、ニーナ、下がるなよ! 酸の軌道はいなしてやる!」
「ええ! 酸中和の蒸気カーテンを展開いたしますわ!」
「ニーナが天井の足場を跳び回って、あいつの目を回してやるニャ!」
三人の頼もしい声が響く中、バルツは解体包丁の柄に手を当て、天井のトカゲの骨格の動きを冷徹に分析していた。
「慌てるな。トカゲの強酸液は、喉元の酸嚢から噴射される直前、肋骨の収縮によって一瞬だけタメが入る。……仕留めるのは簡単だが、あの酸嚢を破裂させるなよ。破裂させりゃ、極上のスペアリブ肉が台無しになるぞ」
絶体絶命の奇襲の中にあっても、バルツの頭にあるのは『食材の完全なる保護』だけであった。
天井を支配する赤い閃光との、命懸けの解体バトルが、今まさに火蓋を切ろうとしていた!
未知なる激辛食材の確保へ向け、カルテットの刃が熱き閃光を放つ!




