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第118話:岩塩猪の耐熱腱ロープと、灼熱の溶岩登攀クライミング

翌朝、黒曜カルデラの盆地に、赤銅色の朝日が昇った。

 完全に体力を回復したの王都調査隊の兵士たちは、日除けシェルターを補強し、前線基地の防衛体制を整えていた。

 彼らの表情には、昨日の絶望の色は微塵もなく、バルツたちへの心からの敬意と感謝が満ち溢れていた。


「バルツ殿、カルテットの皆様! ここは我々が命を賭して守り抜きます!」

「どうか、ご無事で! 火山の主を仕留めて戻られるのを、信じて待っております!」


 兵士たちの力強い見送りの声を背に受けながら、バルツ、ティオ、シェリル、ニーナ、そして正式に一行への同行を志願した宮廷料理長ジャン、冷徹に後方を歩く監査官ルキウスの計6名は、死火山の火口へと続く禁断の深部へと足を踏み入れた。

 だが、歩き始めてわずか1時間後。

 一行の行く手を完全に阻むように、絶望的な垂直の障壁が立ち塞がった。


「……こ、これは……登れるはずがありませんわ……!」


 シェリルが魔導杖を抱え、息を呑んで見上げた。

 眼前に立ちはだかっていたのは、高さ50メートルを超える、垂直に切り立った漆黒の黒曜石の断崖絶壁であった。

 それだけではない。

 崖の裂け目のあちこちから、ドロドロとした赤熱のマグマが滝のように流れ落ち、岩肌全体が摂氏300度を超える強烈な熱気を放っていたのだ。

 岩肌からはシューシューと高圧の過熱蒸気が吹き出し、下から吹き上げる上昇気流は、肌をチリチリと焼き焦がすほどの熱風と化している。


「ふん、やはりここまでだな」


 ルキウスが嘲笑を浮かべ、眼鏡の奥から冷たい視線を投げかけた。


「王都製の最高級の麻ロープも、鉄の鎖も、この崖の熱と酸性の火山ガスに晒されれば、1分も持たずに炭化するか焼き切れて破断する。こんな垂直の断崖、飛行魔法も持たぬ田舎者どもに登り切れる道理がない。大人しく引き返すことだな」


 ルキウスの言葉は、一般的な登山常識からすれば極めて的確な指摘であった。

 実際、崖下には過去の登山隊が遺棄した鉄の鎖が、酸性ガスで赤茶けてボロボロに朽ち果てて転がっていた。

 だが、バルツは肩をすくめると、背嚢の中から白く艶やかな数本の太い紐の束を取り出した。


「誰が鉄や麻を使うって言ったよ、監査官先生」

「な……それは……!?」


 ルキウスが目を見張った。

 バルツの手元にあったのは、昨日解体したあの3トンの巨獣《黒曜岩塩猪(オブシディアン・ボア)》の強靭なアキレス腱と、背筋を支えていた極太の主腱であった。


「黒曜岩塩猪は、3トンを超える超重量の肉体と岩塩甲羅を背負い、摂氏200度の地熱の上を何十年も走り回ってきた魔物だ。その体重と衝撃を支え続けてきた腱の繊維構造は、三重らせん構造を成す高密度コラーゲンと、熱耐性の高いプロテオグリカン基質でガチガチに結合されている。通常の麻ロープの100倍の引張強度を持ち、さらに摂氏400度の高温に直接触れても分子架橋が破壊されねえ驚異的な耐熱性を持ってるんだ。……ニーナ、冷泉水で湿らせろ。ティオ、3本を合わせて三つ編みに編み込め」

「了解ニャ!」

「任せろ、おっちゃん!」


 ニーナが水筒の冷泉水を吹きかけると、乾燥していた猪の腱は、まるで生き物のようにしなやかな弾力を取り戻した。

 そこへ、ティオの怪力が加わる。

 3本の極太の腱を、隙間なく均一な力加減でキュッ、キュッと編み込んでいく。

 完成したのは――太さ3センチ、長さ60メートルに及ぶ、白銀の光沢を放つ『耐熱生体クライミングロープ』であった!


「信じられん……! 腱の繊維が互いに噛み合い、手で握ると掌に吸い付くような柔軟性がある……! 熱せられた黒曜石の上に置いても、焦げる気配すら微塵もないぞ……!」


 ジャンがロープに触れ、驚嘆の声を上げた。

 火傷で感覚の鈍いジャンの右手ですら、腱の表面の微細なコラーゲン繊維が皮膚にしっかりと引っかかり、滑ることなく完璧なグリップ力を発揮していたのだ。


「いいか、登攀(とうはん)の基本だ。腕の力で身体を引き上げようとするな。腕の筋肉は小さい、すぐに乳酸が溜まって動かなくなる。崖と身体の間に拳2つ分の空間を空け、腰を引いて足裏の母指球を岩に直角に押し当てろ。足の摩擦力(スメアリング)で立ち上がるんだ。腕は単にバランスを保つ添え木にすぎん。背中の大きな広背筋と大臀筋を連動させれば、崖登りはただの階段昇降と同じになる。ティオ、先陣を切ってアンカーを打ち込め」

「おうよっ!」


 ティオはロープの端を腰に結びつけると、黒鉄の大剣を背負い、身軽に黒曜石の断崖へと取り付いた。

 垂直の絶壁。

 だが、ティオの身体は、バルツの教え通りに下半身の骨格連動を極めていた。

 両足の母指球で岩の微小な突起を的確に捉え、三点支持を保ちながら、まるで平地を歩くかのような軽やかさでスルスルと登っていく。

 熱された岩の表面温度は100度近いが、白樺リネンを三重に巻いた手袋と登山靴が放射熱を完全に遮断していた。

 10メートル登るごとに、解体用の鉄の楔を岩の亀裂へ打ち込み、大剣の峰でガツンと叩き込んで固定する。

 手腕の無駄な力みを一切排除し、股関節と骨盤の重心移動だけで垂直の重力に抗う至高の生体力学。

 その背中を見上げるルキウスの眼鏡の奥で、戦慄が走っていた。

 (何という身体操作だ……! あの重たい大剣を背負いながら、呼吸一つ乱さずに垂直の絶壁を駆け登っていく……! ただの力任せではない、力学と骨格の理を完璧に理解した動きだ。やはり、レオンハートの血筋か……!)

 そしてわずか5分後――。

 50メートルの断崖の頂上へと到達したティオが、ロープを巨大な岩頭へしっかりと固定し、崖下へ向けて手を振った。


「ロープ固定完了だぜーっ! みんな、登ってこいよーっ!」

「よし、登るぞ。ジャン、お前が先に行け。シェリルとニーナが下からサポートする」

「は、はいっ!」


 ジャンは耐熱生体ロープを両手で握りしめた。

 火傷を負った右手が、しっかりとロープの編み目を捉えている。

 滑らない。熱くない。

 かつて絶望していた自分の手が、大自然の恵みによって、確かに力強く機能している。

 ジャンは胸を熱くしながら、一歩、また一歩と、垂直の岩壁を力強くよじ登っていった。

 シェリルが杖の氷晶宝玉から微小な冷気気流を放ち、登る者たちの周囲の熱気を和らげ、ニーナが軽やかに最後尾を登り切る。

 ルキウスもまた、顔を引き攣らせながらも、この驚異の生体ロープに縋り付いて登る以外に道はなかった。


 そして――全員が50メートルの断崖の頂上へと足を掛けた、その瞬間であった。


「……あ……あぁ……っ……!」


 シェリルの口から、息を呑むような感嘆と畏怖の声が漏れた。

 断崖の頂の先に広がっていたのは――。

 見渡す限りの赤黒い溶岩の海と、灼熱の熱気によって揺らめく巨大なすり鉢状のクレーター――『火口カルデラ・紅蓮の巨鉢』の壮大なる全貌であった。

 中央に鎮座する巨大な火口湖からは、摂氏1200度のマグマがゴボゴボと泡立ち、眩い真紅の光が天を焦がしている。

 そして、その煮えたぎるマグマの波間から――。

 巨岩のような黒曜鱗に覆われた、信じられないほど巨大な爬虫類の影が、ゆっくりと首をもたげようとしていた。


「……チリチリしやがるぜ」


 バルツが背中の古傷に手を当て、低く呻くように口元を歪めた。

 霊峰で吹雪を予知した背中の傷痕が、今や真っ赤に焼けた火箸を当てられたかのような熱気を放っている。

 大地の地脈を狂わせ、このカルデラを沸騰させている元凶――。

 大地の主との決戦の舞台が、今まさにその姿を現したのである!

 未知なる灼熱の食材と、命を懸けた大解体劇の幕が、今ここに切って落とされた!

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