第117話:バルツの一言「火傷なら竜の脂で治るぜ」と、誇り高き料理長の涙
「な……治る……だと……!?」
焚き火の傍らで、宮廷料理長ジャン・マルセルの口から、呆然とした掠れた声が漏れた。
あまりの衝撃に、ジャンの視線はバルツの飄々とした顔と、自らの引き攣れた右手のケロイド傷痕との間を何度も激しく往復していた。
「ば、バルツ殿……気休めならやめていただきたい! この傷は、王都筆頭の宮廷魔導医師や、神殿の最高位治癒術士たちが総出で診察し、高位治癒魔法や最高級の霊薬エリクサーを何本も注ぎ込んだ上で……『熱傷の深度が深すぎる。真皮と神経終末が完全に炭化・壊死しており、現代の魔法医学では二度と元には戻らない』と断じられた不治の傷痕なのだぞ……!? それを……治るなどと……!」
ジャンの声は、激しい感情の激流に震えていた。
一度は死を受け入れ、絶望の底に沈めた自らの料理人としての魂。
そこに安易な希望を抱かされ、再び裏切られて打ち砕かれることへの、激しい恐怖と葛藤が渦巻いていたのだ。
だが、バルツは煙管をくわえ直すと、フッと満足そうに笑って夜空へ紫煙を吹き出した。
「王都の医者や坊主どもが知らねえだけだ。奴らは机の上で調合された薬や、神頼みの呪文しか信じねえ。自分たちの知識の範疇を超えた現象を、全部『不治の病』で片付けてるだけだ。……だがな、大自然の生態系の中には、人間が何百年研究したところで足元にも及ばねえような、驚異の治癒物質が実在するんだよ」
バルツは解体包丁の鞘を軽く無骨な指先で叩いた。
「この先――黒曜カルデラの最深部、煮えたぎるマグマの火口湖に棲息する死火山の主、《火口竜》だ」
「ひ、火口竜……!?」
ティオとシェリルが息を呑んだ。
霊峰を支配していたあの《氷霜の巨角鹿》に匹敵する、あるいはそれをも凌駕するであろう、この死火山地帯の頂点捕食者。
「火口竜は、摂氏を超えるドロドロのマグマの中を、魚のように悠然と泳ぎ回る。なぜ生きたまま全身の細胞が焼け爛れねえと思う? 外皮の黒曜鱗が硬いからだけじゃねえ。火口竜の鱗と真皮の間――皮下組織の全域には、溶岩の高熱を瞬時に中和し、熱伝導を完全に遮断する特殊な不飽和脂質と多糖類の層が張り巡らされてるんだ。狩人の間じゃ『熱中和軟膏』って呼ばれてる極上の生体成分だ」
バルツの言葉に、ジャンの絶対味覚と料理人としての知性が、電撃を受けたように反応した。
「溶岩熱を遮断し、細胞を保護する特殊脂質……!?」
「ああ。それだけじゃねえ。その脂には、万が一超高温の熱によって細胞膜が損傷した際、一瞬でタンパク質を再合成して毛細血管と神経終末を急激に再生させる、驚異的な生体修復酵素――細胞成長ペプチドが天文学的な濃度で含まれてる。過酷なマグマの中で脱皮を繰り返し、全身の表皮を常に真新しく生まれ変わらせるための生命維持成分だ。……お前のその右手のケロイドなんてな、火口竜の軟膏を皮膚にすり込んで温めりゃ、固まった瘢痕組織がみるみるうちに分解されて、眠っていた触覚神経が蘇るぜ。半年もすりゃ、針の穴を通すようなミクロン単位の温度感覚まで完璧に戻る」
あまりにも理路整然とした、大自然の解剖学と生化学に基づいた説明。
それは、神頼みの奇跡などではなく、過酷な極限環境を生き抜く魔物の生体機能と熱中和機構を熟知した者だけが語れる、確固たる真理であった。
自然の命は、必ずその環境を生き抜くための鍵を自らの肉体に宿している。解体とは、その鍵を見つけ出す知恵なのだ。
「ほ、本当なのか……? 本当に……私のこの指先に、再び料理人としての感覚が……戻るというのか……!?」
ジャンの目から、熱い涙がポロポロと零れ落ちた。
バルツは立ち上がると、ジャンの大柄な肩を無造作にバンッと力強く叩いた。
「嘘ついて俺に何の得があるってんだ。お前がもう一度本気で包丁を握りてえなら……貴族の顔色を窺うためじゃなく、腹を空かせた奴らを笑顔にするための本物の料理を作りてえなら、俺たちについてこい。火口竜を完璧に解体して、その脂をたっぷりお前の右手に塗りたくってやるよ」
「バルツ殿……っ!」
ジャンはその場に崩れ落ちるように両膝を黒曜石の大地につき、バルツの無骨な手を両手で力いっぱいに握りしめた。
王都の権威も、筆頭宮廷料理長としてのプライドも、すべてをかなぐり捨てた。
そこにあるのは、自らの命を救い、失われた魂を再生へと導いてくれる偉大なる師に対する、絶対の感謝と崇拝の涙であった。
「頼む……! どうか、私を連れて行ってくれ! 荷物持ちでも、下働きでも、何でもする! あなた方の背中を追い、大自然の真理と、命を尊ぶ料理の真髄を……この私に教えてくれ……!! 私のこの命も、この右腕も、今日この瞬間から永久に、あなた方に捧げると誓おう!!」
ジャンの熱い誓約が、夜の盆地に木霊した。
ティオが「へへっ、頼もしい仲間が増えたぜ! ジャンのおっちゃん、明日から火口への道中で、王都の美味いソースの作り方とか教えてくれよな!」と破顔し、シェリルも「ふふっ、これからは一緒に美味しいご飯を作りましょうね。宮廷の伝統技法とバルツさんのサバイバル術が合わされば、きっと世界で誰も味わったことのない至高の一皿が生まれますわ」と優しく微笑み、ニーナが「ジャンのおっちゃん、お肉の焼き方教えてニャ〜! いっぱい食べるニャ!」と飛び跳ねる。
絶望の底にいた宮廷料理長が、真の狩人たちの最強の理解者として完全に覚醒した瞬間であった。
焚き火の温かな光に包まれながら、新旧の料理人たちが心を通わせる。それは過酷な魔境に咲いた、かけがえのない絆の花であった。
だが――そんな感動に包まれる広場の暗がりの中。
冷たい黒曜石の柱の陰から、その光景をヘビのような冷徹な瞳で見つめる男がいた。
王都中央ギルド『黄金の天秤』の特務監査官――ルキウスであった。
ルキウスは銀縁の眼鏡を指先で押し上げながら、胸ポケットから一冊の黒い革表紙の手帳――『黄金の天秤・極秘利権裏帳簿』を取り出し、冷たい笑みを浮かべた。
その帳簿には、王都の腐敗貴族たちと中央ギルドが結託し、各地の鉱山や霊脈を不正に買い叩いて私腹を肥やしてきた、血塗られた記録がびっしりと記されていた。
「……愚かな。宮廷料理長ともあろう者が、辺境の田舎者共に魂を売り渡すとはな。だが……好都合だ」
ルキウスの視線は、焚き火の光を浴びて笑うティオの背中――黒鉄の大剣の鍔に微かに刻まれた『獅子の紋章』へと、毒針のように突き刺さっていた。
「10年前、国家反逆の濡れ衣を着せられて処刑されたレオンハート将軍……。その幼き遺児が辺境へ逃げ延びていたとはな。もしあのガキが生きて中央へ戻れば、我が『黄金の天秤』が火山の鉱山利権を奪うために仕組んだ過去の謀略が、すべて白日の下に暴かれてしまう……! あの火口竜の討伐に乗じて、ティオ……貴様を確実に事故に見せかけて始末してやる。そうすれば、中央の利権は永久に我が掌中にあるのだからな……!」
ルキウスは冷酷に手帳を胸ポケットへ仕舞い込み、舌なめずりをした。
救われた兵士たちの歓喜の裏で、暗い陰謀の毒牙が、夜の死火山に静かに忍び寄っていた。
激動のカルデラ探索は、新たな仲間と、不穏な裏切りの火種を抱えながら、次なる灼熱の深部へと突き進もうとしていたのである!




