第116話:料理長の手袋に隠された傷痕! 火傷による感覚麻痺と絶望の過去
黒曜石の盆地に築かれた前線基地に、穏やかで涼やかな夜の帳が降りていた。
死火山特有の肌を刺すような過酷な熱波は、夜の山風によってわずかに和らぎ、澄み渡る夜空には紫がかった不気味な噴煙の彼方に、満天の星々が神々しく瞬いている。
日除けシェルターの中では、熱中症の死線から生還し、極上の『黒曜岩塩猪の地熱石窯ローストポーク』で胃袋を満たされたの兵士たちが、安らかで力強い寝息を立てて熟睡していた。
脱水で干からびかけていた細胞に、天然岩塩の電解質と上質な不飽和ラード、そして山わさびの血流促進作用が染み渡り、彼らの肉体は驚異的な速度で自然治癒の眠りについていたのだ。
そんな静まり返った広場の片隅。
黒曜石の熾火がチリチリと赤く爆ぜる焚き火の傍らに、一人、膝を抱えて座り込む大柄な男の影があった。
王都筆頭宮廷料理長――ジャン・マルセルであった。
ジャンは自らの右手を膝の上に置き、焚き火の淡い光にかざしながら、虚ろな瞳でじっと見つめ続けていた。
その右手からは、昼間から常に身につけていた純白の最高級革手袋が、力なく外されていた。
「……手袋は、もう嵌めねえのか?」
低く穏やかな声が、夜の静寂を破った。
振り返れば、ボロボロの毛皮外套を羽織り、煙管から細い紫煙を燻らせた中年狩人――バルツが、無造作な足取りで歩み寄ってくるところだった。
バルツはジャンの隣の平らな黒曜石の上にどっかりと腰を下ろすと、酒袋から冷たい雪山岩清水を一口含み、ゴクリと喉を鳴らした。
「バルツ殿……」
ジャンは自嘲気味に口元を歪め、右手を隠すようにわずかに後ろへと引いた。
だが、バルツの歴戦の双眸は、ジャンの右手に刻まれた異様な痕跡を、とっくに見抜いていた。
「隠すこたぁねえよ。昼間、お前が火打ち石鳥や岩塩猪を前にして包丁を握った瞬間に気づいてたさ。左手は神業のように滑らかに動くのに、右手の母指球と人差し指の先だけが、まるで木刀を握るみたいにわずかに強張ってた。……重度の火傷痕だな」
「……やはり、貴方の鑑識眼は誤魔化せませんでしたか」
ジャンは深く、重いため息を吐き出し、隠すのを諦めたように右手を焚き火の光の中へと晒した。
その光景に、焚き火の薪を運んできたティオとシェリル、ニーナも思わず息を呑み、足を止めた。
指先から掌、手首、そして前腕の中ほどに至るまで――。
ジャンの右手の皮膚は、赤黒くケロイド状に激しく引き攣れ、まるで溶けた蝋燭の蝋が固まったかのように痛々しい瘢痕組織に覆い尽くされていたのだ。
「三年ほど前のことです」
ジャンは遠い目で、赤熱する炭火を見つめながら静かに語り始めた。
「王都の王宮大厨房で、新開発された高出力の火炎魔導コンロが暴走事故を起こしました。圧縮された高密度の火炎マナが炉の中で爆発し、厨房全体が一瞬にして紅蓮の劫火に包まれたのです。その場には、まだ包丁の握り方すら覚えたての見習いの少年たちが数名取り残されていました。彼らを救い出すため、私は自らの身を省みず、燃え盛る魔導炉の緊急遮断バルブを手掴みで締めに行ったのです。……結果として、少年たちの命は助かりました。王室からは英雄として勲章を授与され、筆頭宮廷料理長の座を不動のものにしました。ですが――」
ジャンの太い肩が、悔恨と悲哀に激しく震えた。
「その代償として、私の右手の皮膚組織と神経は……完全に焼き切れてしまったのです。表皮と真皮だけでなく、皮下組織まで達した重度の第度熱傷。マイスナー小体やパチニ小体といった、指先の微細な触覚受容器はすべて死滅し、再生することはありませんでした」
ジャンは震える右手で、黒曜石の小さな破片を拾い上げようとした。
だが、指先が滑り、石はポロリと虚しく砂地へと転がり落ちた。
「温度感覚受容体――温点と冷点が完全に壊死しました。フライパンの微細な表面温度も、オーブンの対流熱の微妙な湿度も、この右手では何一つ感じ取ることができません。それどころか、触覚の神経線維が瘢痕組織と癒着し、食材の繊維の弾力も、包丁の刃先にかかるミクロン単位の抵抗感も……まるで厚手の分厚い革手袋越しに触れているかのように、鈍く霞んでしまっているのです」
ジャンの瞳から、大粒の涙が零れ落ち、焚き火の灰に吸い込まれてジュッと小さな音を立てた。
「料理人にとって、指先の触覚と温度感覚は、己の生命そのものです。王都の貴族たちは、私の過去の栄光とレシピの知識だけをもてはやし、『さすがジャン筆頭料理長だ、どんな料理も完璧だ』と称賛の言葉を並べ立てました。ですが、彼らが賞賛していたのは、私が過去に作り出した遺産の影に過ぎない……! 今の私は、指先の感覚を失い、温度計の数字とマニュアル通りに部下へ指示を出すことしかできない、ただの無力な抜け殻だったのです!」
ジャンの慟哭。
料理の深奥を極め、絶対味覚を持ちながらも、それを具現化するための「指先の感覚」を永遠に奪われてしまった男の、底知れぬ絶望と孤独。
「私は自暴自棄になっていました。指先の感覚が戻らないのなら、せめて誰も口にしたことのない未知なる魔境の極上食材を見つけ出し、知識の力だけで至高の一皿を作り上げようと……。そうすれば、料理人としての己の死を、ほんの少しでも誤魔化せるのではないかと……! 王都の温室を飛び出し、こんな死火山への無謀な視察に同行したのも、要するに……自らの無力さから逃げ出したいだけの、惨めな逃避行に過ぎなかったのです……!」
ジャンは両手で顔を覆い、大柄な身体を丸めて子供のように嗚咽した。
あの傲慢だった宮廷料理長の鎧の奥底にあったのは、料理への純粋すぎる愛と、職人としての命を奪われたことへの、果てしない苦悶であった。
静寂が、焚き火の周囲を包み込んだ。
ティオは拳を痛いほど強く握り締め、シェリルは痛ましげに胸に手を当てて涙を浮かべ、ニーナも猫耳を伏せてジャンの傷ついた手をそっと両手で包み込んだ。
「料理長さん、弟子たちを助けるために火の中に飛び込んだニャ……。すっごく立派で、優しい手ニャ!」
「ええ……。己の命を顧みず他者を救ったその傷痕を、恥じることなど決してありませんわ」
「そうだぜ! おっちゃん、何とかしてやれねえのか!? あんたの解体の知恵なら、何とかできるんだろ!?」
ティオが縋るようにバルツを見つめた。
シェリルもニーナも、固唾を呑んでバルツの次の言葉を待っている。
そんな弟子たちの熱い眼差しを受け止めながら、バルツはパイプの紫煙を夜空へとふわりと吐き出した。
そして――煙管の吸い口をトントンと無骨な膝で叩き、まるで明日の天気が晴れると言い当てるかのような、あまりにもあっけらかんとした調子で言ったのだ。
「火傷でケロイドになって神経が麻痺してるだけだろ? ……治るぜ、そんなもん」
夜の盆地に、信じられない奇跡の言の葉が、静かに、だが力強く落ちた。
ジャンが弾かれたように顔を上げ、濡れた瞳を大きく見開いた。
王都の最高峰の宮廷魔導医師や治癒術士たちが「手遅れだ、二度と元には戻らない」と匙を投げた不治の熱傷。
それを、辺境の中年狩人は、こともなげに「治る」と言い切ったのだ。
失意の底に沈んでいた料理人の魂に、眩い希望の光が差し込もうとしていた。
大自然の奇跡と、命の理を司る解体の技が、再び奇跡を起こそうとしていたのである!




