第115話:【実食】黒曜岩塩猪の丸ごと地熱石窯ローストポーク&山わさび醤油
三十分が経過した。
黒曜石のドーム石窯の隙間から立ち上っていた薫煙が、青みがかった色から、澄み切った黄金色の芳醇な蒸気へと変わっていた。
耐熱革手袋をはめたバルツが、窯の入り口を塞いでいた黒曜石の扉に手をかける。
「よし、焼き上がりだぞ。目を開けて、よく見とけ」
ガコッ……!
扉が開かれた、その瞬間であった。
ボォォォォォォォッッッ!!!!
石窯の内部から、猛烈な熱気と共に、爆発的な芳香を孕んだ純白の蒸気が盆地全体へと解き放たれた。
火焔香草の燻されたスモーキーアロマ、岩塩甲羅から降り注いだミネラルの薫り、そして熱せられた極上ラードが放つ甘く香ばしいナッツの香気。
煙の帳を切り裂いて、バルツとティオが鉄のヘラで引き出したのは――。
「う……うわあぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ……!!」
広場を取り囲んでいたの兵士たちから、地鳴りのような感嘆と狂乱の叫びが上がった。
まな板の上に鎮座したのは、もはや神話の宝玉と見紛うばかりの輝きを放つ、巨大な骨付きロース肉の塊であった。
ティオが格子状に切れ目を入れた表面の脂身は、飴細工のようにカリッカリの濃いキツネ色に焼き上がり、溶け出した不飽和脂肪酸が肉全体を艶やかな黄金の光沢で包み込んでいる。
バルツが研ぎ澄まされた大型の肉切り包丁を構え、その10センチを超える極厚の肉塊へと刃先を当てた。
サクッ……サクッ……ジュワワワワワワワワッッッ!!!!
包丁が皮目を破る瞬間の、極限まで軽やかなクリスピーな破砕音。
そして次の瞬間、包丁の自重だけで刃が滑り込んだ刹那、断面から信じられないほどの透明な肉汁の奔流が、まるでダムが決壊したかのようにドッと溢れ出してきたのだ。
現れた断面の色は――。
満開の桜の花びらのような、淡く瑞々しい完璧なピンク色。
の地熱スチームと遠赤外線によって、肉のタンパク質を破壊することなく、中心部まで完璧に火が通された奇跡のグラデーションであった。
「切り分けたぞ! 好きなだけ食え!」
厚さ2センチ、重さ三百グラムを超える大振りのローストポークが、次々と木皿の上へと盛り付けられていく。
その艶やかな肉の上へ、シェリルとニーナがすりおろしたばかりの『野生の山わさび』をこんもりと乗せ、王都の大豆醤油をタラリと垂らす。
山わさびのツンとした清冽な辛気と、醤油の焦がしたようなアロマが、熱々の肉汁と混ざり合い、もはや暴力としか言いようのないシズル感を放つ。
「い、いただきまああああっっす!!」
ティオが我慢できずに、骨ごとローストポークを両手で掴み、大口を開けてかぶりついた。
ニーナもフォークを放り出し、手掴みで分厚い肉塊にかぶりつく。
そして――。
サクッ、ジュワァァァァァァァァッッッ!!!!
「「「うっっっっっっっっっっっっまーーーーーーーーーーーーーいっっっっっっっっっっっっっ!!!!!」」」
二人の絶叫が、黒曜峡谷の空へと突き抜けた。
「な、なんだこの肉はぁぁぁっ!? 皮がパリッとしてて、脂身が口に入れた瞬間に体温でフワァッと溶けて消えちまう!! なのに、中の赤身は信じられないくらい柔らかくてジューシーだ!! 噛むたびに、塩漬けの旨味と甘い肉汁が溢れて止まらねえ!!」
「ニャあああああああっっ!! 山わさびとお醤油が、神様みたいに合うニャーー!! ツンと鼻を抜ける辛味が脂のしつこさを綺麗サッパリ消し去って、豚肉の甘みを100倍に引き立ててるニャ!! 噛んでも噛んでも、美味しいエキスが泉みたいに湧き出てくるニャ〜〜〜!!」
二人は獣のように夢中で骨にかじりつき、口の周りを黄金色の肉汁まみれにして肉を貪り食っていく。
シェリルも上品にフォークで一口大に切り分け、山わさびを乗せて口へと運んだ。
その瞬間――。
「んんっ……! あぁぁ……っ、なんて贅沢な味わいなのかしら……!」
シェリルの青い瞳がトロンと潤み、両手を頬に当てて恍惚の吐息を漏らした。
「火焔香草の爽やかな香りと薫煙のスモーキーさが、野生の猪の力強い旨味を完璧に気品あるものへと昇華させていますわ……! そしてこの天然の塩加減……! 細胞の隅々まで染み渡った岩塩のミネラルが、肉の甘みを極限まで押し広げています……! こんなに美味しくて力強いローストポーク、王都のいかなる名店でも絶対に味わえませんわ!」
そんなカルテットの悶絶する姿を見て、もはや誰も我慢できるはずがなかった。
日除けシェルターから這い出してきたの兵士たち、下級官僚たち、料理人たち全員に、湯気を立てるローストポークの皿が配られた。
「う……うまい……! 何だこれ……美味すぎる……!」
「肉汁が……身体の中に染み渡っていく……!」
「手足の力が戻ってくるぞ……! 指先の痺れが消えた! 生き返る……本当に生き返るんだ……!」
広場中のあちこちから、むせび泣く声と歓喜の叫びが湧き上がった。
熱中症で瀕死だった重装兵士たちが、涙をボロボロと零しながら骨にかじりつき、骨の髄のゼラチン質まで綺麗に吸い尽くして、夢中で極上の肉を喰らい尽くしていく。
天然の岩塩とオレイン酸、そして山わさびの血流促進作用が、飢餓と脱水で麻痺していた五十人の肉体と魂を一瞬にして蘇生させたのだ。
そんな中――。
宮廷料理長ジャン・マルセルは、震える手で自らの皿のローストポークを一口頬張った瞬間、ガクンと両膝を大地に打ちつけていた。
「あ……あぁ……っ……!!」
ジャンの両目から、とめどなく涙が溢れ出していた。
ジャンは自らの手袋をゆっくりと引き抜いた。
露わになったのは、過去の調理事故で負った、火傷によって皮膚が引き攣れた自らの右手であった。
「私が……私が追い求めていたのは、貴族たちの機嫌を取るための、うわべだけの技巧に過ぎなかった……。高価なワイン、希少なスパイス、銀の食器……そんなものは、命の前には何の意味も持たなかったのだ……!」
ジャンは震える右手で、温かい骨付き肉を握り締めた。
「命を喰らい、命を繋ぐ……飢えに苦しむ者の身体を真に癒し、生きる力を与えることこそが……料理の、料理人の唯一の存在理由ではないか……! バルツ殿……私は、私は今まで……何と愚かな道を生きてきたのだ……!!」
ジャンの慟哭が、夕暮れの峡谷に木霊した。
王都筆頭宮廷料理長の魂は、この瞬間、完全にバルツの前に平伏し、真の料理人として生まれ変わったのだ。
だが――五十人の兵士たちが奇跡の生還を遂げ、歓喜の宴に沸くその広場の片隅で。
監査官ルキウスだけが、ローストポークの皿を握り締めながら、銀縁の眼鏡の奥で冷徹に目を光らせていた。
ルキウスの視線は、大剣を背負って笑うティオの横顔――そして、その大剣の鍔元に微かに刻まれた『獅子の紋章』へと、射抜くように注がれていた。
(……間違いない。あの大剣の重心バランス、そして鍔に刻まれた獅子の陰刻……。かつて王都中央ギルド『黄金の天秤』が、火山の鉱山利権を独占するために国家反逆の濡れ衣を着せて失脚させた、あのレオンハート将軍の愛剣だ……! まさか、あの生き残りの遺児が、辺境で生き延びていたというのか……!?)
ルキウスの唇が、冷酷な嘲笑の形に歪んだ。
救われた兵士たちの歓喜の裏で、中央の巨大な利権と陰謀の牙が、静かに、だが確実にカルテットへと向けられようとしていた。
死火山に渦巻く黒き因縁が、新たな試練の訪れを静かに告げていたのである!




