第114話:黒曜石ドーム石窯と、耐熱香草の薫煙仕込み
前線基地の広場の一角、地下のマグマ脈に直結した高圧の地熱噴気孔の周囲に、異形の建造物が姿を現していた。
ティオと王都の護衛兵たちが力を合わせ、分厚い黒曜石の平板を円形に何層も積み上げた直径2メートルほどの石組み。
そしてその天頂部には、先ほどティオの大剣の峰打ちによって真っ二つに剥離された、あの《黒曜岩塩猪》の巨大な甲羅が、ドーム状の丸天井として覆い被せられていた。
外気は摂氏を超える灼熱の環境。
だが、密閉された石窯の内部は、底部の噴気孔から吹き上がる過熱蒸気と、周囲に敷き詰められた赤熱する黒曜石の熾火によって、均一な摂氏の高温状態へと完全に仕上がっていた。
「……信じられん。野外の荒野で、これほど完璧な対流熱オーブンが組み上がるなど……!」
宮廷料理長のジャンが、石窯の隙間から漏れ出る熱気の温度を手のひらで確かめながら、息を呑んで呟いた。
天井の岩塩甲羅が熱を蓄えて遠赤外線を全方位へ反射し、底部の黒曜石が安定した下火を提供する。
さらに、岩塩甲羅の内側に残された天然の結晶塩が、熱蒸気によって微細な塩分ミストとなり、窯の内部全体を循環する構造になっていた。
通常のオーブンであれば、加熱によって肉の表面から水分が蒸発し、パサつきや焼き縮みの原因となる。
だが、この天然の地熱スチーム石窯は、地熱噴気孔の微細水蒸気による湿度が90パーセント以上に保たれているため、肉の内部の水分を極限まで保ちながら、表面だけをカリカリに香ばしく焼き上げる「ハイパースチームロースト」を自然の力だけで成立させていたのだ。
「よし、窯の予熱は完璧だ。肉の仕込みに入るぞ」
バルツがまな板の上に置かれた十枚の極厚骨付きロース肉へと向き直った。
一枚の厚みは10センチ以上、重量は三キロを超える巨大な肉塊。
だが、バルツの手には、塩壺すら握られていなかった。
「バルツ殿、塩は振らないのですか? これほどの厚みのあるロース肉、表面に強めの塩を擦り込まねば、味がぼやけてしまうのでは……」
ジャンの問いかけに、バルツは首を横に振った。
「必要ねえよ。さっきも言った通り、この猪の肉細胞の内部には、最初から等張の天然岩塩が完璧に行き渡ってる。今ここで表面に塩を振れば、浸透圧のバランスが崩れて肉汁が外へ吸い出されちまう。……必要なのは、塩じゃなく『香り』と『脂のコントロール』だ」
バルツは荷車から、先ほど峡谷の岩陰でニーナが採取してきたばかりの青々とした野生植物の束を取り出した。
それは、溶岩の熱に耐えて黒曜石の亀裂に根を張る、針のような硬い葉を持つ野生ハーブ――『火焔香草』であった。
ローズマリーとタイムを足し、さらに火山性のスパイシーな刺激を加えたような、爽快で重厚な芳香を放っている。
「ニーナ、火焔香草の葉を刻め。シェリル、温感生姜をすりおろせ。ティオ、肉の表面の分厚い脂身に、格子状の切れ目を入れろ」
「「「了解っっっ!!!」」」
三人が阿吽の呼吸で動き出す。
ティオは解体小刀を手に取り、骨付きロース肉の表面を覆う純白のラードの層へと、刃先を滑らせた。
深さ5ミリ。赤身肉には決して刃を届かせず、脂身の層だけに斜めの美しい格子状の切り込みを入れていく。
こうすることで、加熱時に脂身が縮んで肉が反り返るのを防ぎ、さらに溶け出した上質の不飽和脂肪酸が格子を伝って赤身全体をコーティングする天然のオイルヴェールとなるのだ。
「刻みハーブ、できたニャ!」
「生姜のすりおろしも完了いたしましたわ!」
ニーナが刻んだ火焔香草と、シェリルがすりおろした温感生姜。
バルツはそれらを、野生柑橘の果皮の削り節と共に、ティオが格子状に切れ目を入れたロース肉の脂身へと、手際よく擦り込んでいった。
清々しいハーブの緑と、生姜の黄金色、そして桜色の赤身肉。
見る者の視覚を極限まで刺激する、至高のグラデーションが完成する。
「よし、窯へ放り込むぞ!」
バルツとティオが、長い鉄のヘラを使って、極厚の骨付きロース肉を次々と石窯の内部へと滑り込ませた。
ジュワァァァァァァァッッ!!
熱せられた黒曜石の床板に肉が触れた瞬間、激しい焼き音が響き渡り、純白の蒸気と共に、爆発的な芳香が窯の中から吹き荒れた。
「蓋を閉めろ! 煙を逃すな!」
ジャンの指示のもと、見習い料理人たちが石窯の入り口へ黒曜石の扉をぴったりと嵌め込み、隙間を湿らせた火山灰の泥で密閉した。
密閉されたドームの中で、大自然の調理マジックが猛烈な勢いで加速していく。
の遠赤外線が肉の全方位から均一に浸透し、表面の不飽和脂肪酸がカリカリにメイラード反応を起こしていく。
同時に、床に落とされた火焔香草の枝が燻され、濃厚なスモーキーアロマとなって肉の表面を幾重にも包み込んでいく。
そして何よりも、天井の岩塩甲羅から降り注ぐ微細な塩分ミストが、肉の表面のタンパク質を優しく凝固させ、内部の瑞々しい肉汁を一滴たりとも逃さない完璧なシールドを形成していたのだ。
ジュウウウウウウ……。
やがて、石窯の煙突から、一本の細く青みがかった薫煙が空へと立ち上った。
その瞬間――。
前線基地全体に、筆舌に尽くしがたいほど凶悪で甘美なアロマが充満した。
焼けた脂の香ばしさ、ハーブの清々しい刺激、燻製の深いコク、そして肉汁の甘み。
「う……うわぁぁぁ……! な、何て美味そうな匂いなんだ……!」
「腹が……腹の虫が千切れそうなほど暴れ出しそうだ……!」
「唾液が……口の中から溢れて止まらない……!」
日除けシェルターで横たわっていた30名以上の兵士たちが、匂いを嗅いだ瞬間に一斉に上半身を起こし、まるで獲物を前にした飢えた野獣のように石窯を見つめていた。
熱中症で瀕死だった者たちの生命力が、大自然の圧倒的なシズル感によって完全に呼び覚まされたのだ。
王都から持参した腐りかけた高級牛肉など、もはや誰も思い出しすらしていなかった。
「焼き上がりまで、あと30分だ。シェリル、ニーナ、付け合わせの準備をするぞ。黒曜峡谷の冷たい風穴の湧き水で育った『野生の山わさび』をすりおろし、王都の大豆醤油と合わせるんだ」
バルツが取り出したのは、白く太い根茎を持つ野生のホースラディッシュであった。
山わさびに豊富に含まれる辛味成分アリルイソチオシアネートは、強力な殺菌作用と抗酸化作用を持ち、さらに胃液の分泌を活発にして消化を劇的に促進する。
熱中症や脱水で弱り切った胃腸を優しく刺激し、濃厚なローストポークの脂をさっぱりと受け止めるための、これ以上ない最高の相棒であった。
「山わさび醤油……! 豚肉の濃厚な脂に、ツンとくる辛味と醤油のコク……考えただけで悶絶しそうですわ!」
「ニーナ、すりおろすの大得意ニャ! 涙が出ないように、目を細めてゴシゴシするニャ!」
ニーナが小さな手を懸命に動かし、陶器のおろし金の上で山わさびをすりおろしていく。
ツンとした清冽な辛味が風に乗って広がり、肉の香ばしい薫煙と混ざり合って、基地全体をさらに強烈な飢餓感で包み込んでいく。
倒れ伏していた兵士たちの命を救うための、奇跡の地熱ローストポーク。
黄金の焼き上がりを告げる瞬間が、刻一刻と近づいていた。
ティオは大剣を傍らに置き、石窯の表面温度を確かめながら、生唾をゴクリと飲み込んでバルツの横に並んだ。
耐熱手袋をはめたバルツが、ゆっくりと石窯の扉の前に立つ。
大自然の熱と命の知恵が結実した至高の蓋が、今まさに開かれようとしていた!
胃袋を掴む最高の香気が、灼熱の峡谷に満ち溢れていく――!




