第113話:岩塩甲羅の楔割り! 自然浸透した塩分とロース肉の解体
3トンの巨躯を誇った《黒曜岩塩猪》が横たわる前線基地の広場。
ティオの大剣の峰打ちによって外された巨大な黒曜岩塩甲羅は、まるで白銀の防壁のように左右に転がっていた。
バルツは手際よく解体包丁の刃先を、猪の顎の下――太い頸動脈が走る胸肋関節のわずかな隙間へと吸い込ませた。
スッ……ジュワァァァッ。
刃先が血管を捉えた瞬間、ドクドクと温かい鮮血が黒曜石の砂地へと噴き出し、吸い込まれていく。
心臓が完全に停止する前のわずかな拍動を利用した、完璧な放血処理。
血液が抜けるにつれて、猪の体温が穏やかに下がり、筋繊維の中に嫌な鉄錆の臭気や乳酸が残るのを完全に防ぐのだ。
血液が体内に滞留すれば、わずか数分でバクテリアが繁殖し、肉の自己消化が進んで異臭を放つ原因となる。
迅速かつ正確な放血こそが、極上の肉質を永遠に保つための絶対の境界線であった。
「……何という手際の良さだ。刃を入れる位置、深さ、角度……すべてが一分の狂いもなく頸動脈を捉えている」
宮廷料理長のジャンが、息を呑んでバルツの手元を凝視していた。
かつて王都の厨房で数多くの高級豚やジビエを捌いてきたジャンの鑑識眼をもってしても、バルツの無駄のない包丁捌きは、もはや人体の限界を超越した芸術の領域に見えていた。
「おい、料理長先生。ただ見とれてる暇があったら、弟子どもに指示を出して、きれいな湧き水と大皿を並べさせな。ここからが時間との勝負だぞ」
「は、はいっ! ただちに準備させます!」
あの傲慢だった筆頭宮廷料理長が、まるで新米の見習い料理人のように素直に頷き、天幕の料理人たちへとテキパキと指示を飛ばし始めた。
基地の空気が、絶望とパニックから、生きるための活気へと劇的に塗り替えられていく。
「よし、放血は完了だ。ティオ、前脚の付け根を引っ張り上げて胸郭を広げろ。ニーナ、皮下脂肪のラインを小刀で撫でるように開け」
「了解だぜ、おっちゃん!」
「任せるニャ〜!」
ティオが両腕の筋肉を隆起させ、巨獣の前脚を軽々と持ち上げる。
そこへ、ニーナのしなやかな指先が滑り込んだ。
刃を肉に突き刺すのではなく、外皮と皮下脂肪の境界にある薄い結合組織――『筋膜の白線』に沿って、小刀の切っ先をスーッと撫でるように走らせていく。
ペリペリペリ……と、まるで熟れた果実の皮を剥くかのように、分厚い猪の皮が綺麗に左右へとめくれていった。
そして現れたのは――。
「な……何という肉色だ……!!」
天幕の陰から恐る恐る覗き込んでいた料理人たちから、感嘆の悲鳴が漏れた。
現れたのは、通常の豚肉のような白っぽい淡い桃色ではない。
まるで満開の桜の花びらのように艶やかで瑞々しい深紅色を帯びた、極上の赤身肉であった。
そしてその表面を覆うのは、純白の雪のように透き通った、極厚の不飽和ラードの層。
筋繊維の一本一本には、細やかなサシがまるで毛細血管のように均一に張り巡らされており、灼熱の熱気の中でも脂がダレることなく、引き締まった美しい光沢を放っている。
「バルツ殿……この肉は一体どうなっているのですか? 野生の猪の肉といえば、血生臭く、筋張って硬いのが通例のはず。だがこの肉には、獣特有の嫌な臭気が一切なく、むしろ……塩漬け熟成を施した最高級ハモン(生ハム)のような、高貴な熟成香が漂っています……!」
ジャンの問いかけに、バルツは解体包丁の腹で肉の弾力を確かめながらニヤリと笑った。
「それが、この《黒曜岩塩猪》の生態の秘密だ。この猪はな、生涯を通じて死火山の地下岩塩層の鉱物塩を舐め、さらに黒曜石の割れ目から湧き出すミネラル泥水を浴びて生きてきた。つまり――皮膚からも消化器官からも、生涯にわたって良質な塩分とマグネシウム、カルシウムを体内に取り込み続けてきたんだ」
バルツは背骨と肋骨の結合部へと包丁を当てた。
「その結果、細胞膜の浸透圧が全身で完璧に等張に保たれ、肉の内部の水分が抜け落ちることなく、天然の塩分が筋繊維の隅々まで均等に行き渡っている。さらに脂質はオレイン酸を主成分とする不飽和脂肪酸で満たされていて、融点が人間の体温よりも低い三十五度前後しかない。いわば『生きたまま全身が最高の塩漬け熟成を施された、天然の極上生ポーク』なんだよ。余計な塩を振る必要も、塩漬けの手間もいらねえ。大自然が何年もかけて仕込んだ、至高の保存食そのものだ」
「生きたまま、最高の塩漬け熟成……不飽和脂肪酸の極みだと……!?」
ジャンは震える両手で自らの顔を覆った。
王都の料理人たちが何週間もかけて塩分濃度を計算し、温度管理された熟成庫で作り出す最高級の塩漬け肉を、この魔獣は生まれながらにしてその肉体に宿していたのだ。
「骨を外すぞ。ティオ、背骨の隙間に指を入れろ。骨の関節に刃を滑らせるんだ。骨を断つな、関節の軟骨の隙間を見極めろ」
「おうっ! 『骨の隙間に刃を滑らせる』……だろ!」
ティオが大剣ではなく、バルツから手渡された大型の解体肉切り包丁を握り直した。
肋骨と胸椎の連結部――解剖学的に軟骨組織が集まるわずか数ミリの隙間。
ティオは第1章から学び続けてきた生体力学の極意に従い、前腕の力を抜き、包丁の自重と母指球の重心移動だけで刃先を滑り込ませた。
サクッ……サクッ……コトン。
信じられないほど軽やかな音と共に、一本、また一本と、巨大な肋骨が骨膜ごと綺麗に切り離されていく。
そして現れたのは――。
大人の手のひら分もの厚みを持つ、巨大な骨付きロース肉の塊であった!
一枚あたりの重量はおよそ。
それが、、、十枚と、次々と純白の大皿の上へと切り出されていく。
さらにバルツは、バラ肉の塊、濃厚な旨味を蓄えた肩ロース、そして大腿骨の太い骨を綺麗に割り、内部に詰まった純白のゼラチン質骨髄をも余すところなく採取していった。
「切り分け完了だぜ、おっちゃん!」
「よし、上出来だ。これで調査隊全員が、腹がはち切れるほど極上の肉を喰えるぞ」
バルツが満足そうに頷くと、広場を埋め尽くした兵士たちから、嵐のような歓声が湧き起こった。
だが、バルツは解体包丁を置こうとはしなかった。
「さて……肉は揃った。だが、この極厚の骨付きロース肉をどうやって最高の状態に焼き上げるかだ。肉の厚みが10センチを超えてる。炭火で直火焼きすりゃ、外が炭になって中が生焼けになる。料理長先生、お前ならどう焼く?」
「えっ……私ですか!?」
不意を突かれたジャンが、ハッと背筋を正した。
宮廷料理長としての知恵と、バルツから学んだ大自然の真理が、ジャンの頭の中で激しく火花を散らした。
そして、ジャンの瞳に、確信に満ちた輝きが灯った。
「地熱です……! この火山の噴気孔と、剥ぎ取ったばかりの黒曜岩塩の甲羅を利用して、天然の『石窯ドーム』を構築するのです!」
「……へえ、いい勘してるじゃねえか」
バルツがニヤリと笑った。
黒曜石の平板を組み上げ、剥離した岩塩の甲羅を天井の蓋として被せる。
内部を摂氏の均一な地熱オーブンへと仕立て上げる、究極のブッシュクラフト石窯。
大自然の熱と命の恵みが融合する、前代未聞の『地熱石窯ローストポーク』の火入れが、今まさに始まろうとしていた!
五十人の命を救うための奇跡の宴へ向け、熱気立ち上る盆地に、期待と歓喜の炎が激しく燃え盛っていた。
王都のエリートと辺境の狩人たちが手を取り合い、今まさに未知なる極上の調理が幕を開ける!




