第112話:黒曜岩塩猪の猛進! 基地を揺るがす白銀の重戦車
ズドォォォォォォンッッ!!
黒曜石の断崖を突き崩し、前線基地の盆地へと躍り出てきた巨獣――《黒曜岩塩猪》。
その体長は優に4メートル、隆起した背中の筋肉と装甲を合わせた全高は2メートル半、総重量は3トンを遥かに凌駕していた。
太く強靭な四肢で黒曜石の大地を激しく掻き毟るたびに、周囲の岩肌が火花を散らして粉々に砕け散り、耳を聾する重低音が盆地全体を震動させる。
何よりも恐ろしいのは、その巨躯を頭部から尾の先まで全方位から隙間なく覆い尽くしている、異形の天然外殻装甲であった。
死火山の地下深くに眠る超高濃度の天然岩塩層と、地熱によって溶け出した黒曜石のガラス質鉱物(二酸化ケイ素)が、何百年もの溶岩熱で幾重にも熱癒着して結晶化した『黒曜岩塩甲羅』。
直射日光を浴びてダイヤモンドのように白銀と漆黒にギラギラと怪しく輝くその甲羅の厚みは、最も薄い部位ですら30センチを超えており、王都の近衛兵が持ついかなる鋼鉄の槍や攻城用バリスタの太矢をも、一欠片も通さない絶対の防御硬度を誇っていた。
「ブモォォォォォォォォッッ!!」
血走った紅蓮の双眸が、前線基地に設営された白い天幕群を捉えた。
猪特有の攻撃本能として、自らの縄張りに突如として現れた巨大な異物――特に太陽光を反射して白く揺らめく大型の軍用天幕に対して、強烈な敵意を剥き出しにしているのだ。
鼻先から天に向けて獰猛に反り返る、長さ1メートル半を超える二本の白銀岩塩の牙。
鼻孔から高圧の硫黄ガスをプシューッと吹き出しながら、3トンの巨体が時速を超える猛スピードで突進を開始した!
「ひ、ひぃぃぃぃっ! 来るぞ! 山が走ってくるぞ!」
「た、盾を構えろ! いや、無理だ、あんな質量を正面から受け止められるわけがない! 逃げろぉぉっ!」
熱中症の処置を受けて息を吹き返したばかりの中央の護衛兵たちが、顔を引き攣らせて四散した。
もしあの突進が日除けシェルターを直撃すれば、中に横たわるの負傷兵たちごと、跡形もなく挽き肉のように圧殺されることは明白であった。
「逃げるな! 負傷者を守るのだ!」
宮廷料理長のジャンが細身のサーベルを抜いて前に立とうとしたが、3トンの岩塩装甲が巻き起こす凄まじい地鳴りと突風の前に、身体が金縛りに遭ったように竦み上がる。
だが――。
そんな絶体絶命の危機の中、バルツとカルテットの足並みには、微塵の乱れも存在しなかった。
「慌てるな。突進の運動エネルギーと、装甲の結晶構造を冷徹に見極めろ」
最後尾から、バルツの低く通る声が静かに響いた。
バルツは解体包丁を抜きもせず、突進してくる巨獣の頭部と首の接続部を冷徹に見据えていた。
「黒曜岩塩猪の甲羅は、一見すりゃ無敵の要塞に見える。だが、無機物と鉱物の結合には必ず『熱力学的な弱点』がある。黒曜石のガラス質シリカと、天然岩塩の塩化ナトリウム結晶では、温度変化による熱膨張係数が桁違いに違うんだ。今、あいつの甲羅は直射日光で摂氏近くまで熱せられて、内部の結晶格子が限界まで歪み、引き伸ばされている。……シェリル! 眉間の中心、黒曜石と岩塩の接合ラインへ、極小のピンポイント冷気粒子を撃ち込め!」
「かしこまりましたわ!」
シェリルが魔導杖を水平に構えた。
霊峰で古代精霊の波長と同調し、第3章の熱泥芋虫の耐熱アミノ酸で魔力回路を極限まで活性化させた彼女の集中力は、完全に研ぎ澄まされていた。
突進してくる巨獣の鼻先が、わずか5メートルにまで迫る。
時速の死の暴走。地響きが足裏を激しく打ち据える。
だが、シェリルの青い瞳には微塵の揺らぎも恐怖もなかった。
杖の先端の『氷晶宝玉』が、オーロラ色の閃光を放つ。
ピシュゥゥゥッ!
放たれたのは、針の先ほどの極小の絶対零度粒子。
それが、摂氏近くまで熱せられていた岩塩猪の眉間――黒曜石と岩塩が複雑に噛み合っていたわずか数ミリの境界線へと、寸分の狂いもなく着弾した。
ピキ……ピキピキピキピキッッ!!
急激な局所冷却による、熱衝撃。
熱膨張していた岩塩の結晶が瞬時に収縮し、ガラス質の黒曜石との間に、目に見えるほどの白い亀裂が一瞬で稲妻のように走り抜けた。
装甲の強固な結合エネルギーが、一瞬にして脆い緊張状態へと変換されたのだ。
「甲羅の結合が脆くなったぞ! ティオ、亀裂の起点へ大剣の峰を叩き込め! 刃で叩くな、峰の厚みで『楔』を打つんだ! 母指球から骨盤、肩の連動を意識しろ!」
「うおおおおおおっっ!! 任せろ、おっちゃん!!」
ティオが黒曜石の大地を踏み抜いた。
黒鉄の大剣を頭上高くに振り上げ、刃ではなく、分厚い鉄の背の部分――『峰』を正面に向ける。
足裏の母指球が黒曜石を捉え、足首、膝、股関節が沈み込み、骨盤の回転が強烈なトルクを生み出す。
背筋から肩、肘、そして巨角鹿の革が巻かれた柄へと、人体の運動連鎖が爆発的に伝達される。
突進してくる3トンの巨獣の鼻先、わずか30センチ。
ティオは自ら前へと踏み込み、亀裂の起点へと、全身全霊の楔打ちを振り下ろした!
ドゴォォォォォォォォォンッッッ!!!!
盆地全体が割れるかのような、凄まじい衝撃音が炸裂した。
大剣の峰から撃ち出された破壊の衝撃波が、熱衝撃で脆くなっていた亀裂の内部へと一気に浸透していく。
その瞬間――。
パカァァァァァァァンッッ!!
まるで完熟した胡桃の殻が綺麗に割れるかのような、硬質で小気味よい破砕音。
王都のいかなる攻城兵器をも跳ね返してきた3トンの巨獣の黒曜岩塩甲羅が、頭頂部から背骨に沿って、真っ二つに左右へと綺麗に剥離し、宙へと吹き飛んだのだ!
「ブ、ブモォォォッ!?」
絶対の装甲を瞬時に剥ぎ取られた黒曜岩塩猪は、推進力のバランスを完全に崩し、前脚をもつれさせて黒曜石の地面をズザザザザッと激しく滑り込んだ。
そこへ、影のように跳躍したニーナが両手の短剣を閃かせ、首筋の感覚神経をピンポイントで切断。
さらに、歩み寄ったバルツが腰の解体包丁を一閃させ、耳の後ろの急所へと刃の切っ先を滑らせて脳震盪を起こさせ、完全に動きを止めた。
わずか数十秒の電光石火の制圧劇。
砂煙が晴れたそこに現れたのは――。
甲羅を失い、丸々と太った無傷の巨大な猪の肉体であった。
3トンの巨獣が、基地の天幕からわずか数メートルの位置で、完全に沈黙していたのだ。
「し、信じられん……! あの3トンの重戦車が……手傷一つ負わずに無力化されただと……!?」
「攻城兵器でも傷一つつけられなかった黒曜岩塩の甲羅が……たった一撃の峰打ちで、真っ二つに割れた……!?」
天幕の陰から固唾を呑んで見守っていた兵士たちと下級官僚たちが、腰を抜かして震え上がっていた。
宮廷料理長のジャンもまた、手袋の手を額に当て、息を呑んで立ち尽くしていた。
力でねじ伏せるのではない。
鉱物の熱膨張率の違いを利用して熱衝撃で結合を脆くし、人体の骨格運動連鎖によるピンポイントの衝撃波を浸透させて外装だけを剥離させる。
それは、もはや戦闘の域を超越した、大自然に対する至高の外科手術そのものであった。
「ふう……危なかったぜ! でもおっちゃん、大剣の柄が全然滑らなくて、完璧に力が伝わったよ!」
「ああ。霊峰の鹿革のおかげだな。よく耐えたぞ、ティオ」
バルツは解体包丁の刃先を布で拭いながら、横たわる巨大な猪の背肉へと視線を落とした。
甲羅が剥がれた背中からは、立ち上る温かな湯気と共に、獣特有の嫌な臭みどころか、香ばしいナッツとミネラルのような芳醇な香りが漂っていた。
「さあて、野郎ども。獲物は仕留めた。だが、ここからが解体屋の腕の見せ所だぞ。この猪はただのデカい豚じゃねえ。生涯を通じて岩塩層を舐め続け、体内の細胞の隅々にまで塩分が浸透した、奇跡の『生きた天然塩漬け肉』だ。五十人の腹ペコどもを生き返らせるための、極上の骨付きロース肉を切り出すぞ!」
バルツの号令が、静まり返った前線基地に力強く響き渡った。
飢餓と絶望の淵に立たされていた調査隊の運命を劇的に覆す、至高の解体と地熱石窯調理の火蓋が、今まさに切って落とされようとしていた!




