第111話:倒れ伏す中央調査隊と、宮廷料理長ジャンの改心一喝
黒曜石の盆地に設営された王都中央調査隊の前線基地は、まさに地獄絵図の様相を呈していた。
天幕の周囲には、熱された鉄の甲冑によって重度の熱中症と脱水症状に陥った兵士たちが、折り重なるように倒れ伏している。
食料庫の中では、王都から莫大な予算を投じて運び込ませた最高級の熟成肉やフレッシュバターがドロドロに腐敗して鼻を衝く猛烈な異臭を放ち、水樽の中の水は細菌の異常繁殖によって濁った毒水へと変貌していた。
魔物との激しい戦闘による被害ではない。
大自然の過酷な猛威と生体力学の基本原則を完全に無視した、机上の空論が招いた完全なる自滅であった。
「おい、しっかりしろ! 息を吸え!」
ティオが黒鉄の大剣を背中に背負い直し、倒れていた重装兵士の胸当ての留め金へと手を伸ばした。
霊峰で学んだ重心移動と脱力の技術を活かし、怪力と小刀の刃先を使って金具のピンを一瞬で外していく。
焼けた鉄板のように熱せられた鋼鉄の甲冑を剥ぎ取ると、兵士の下着は汗と蒸気でびっしょりと皮膚に張り付き、全身の毛細血管が鬱血して真っ赤に変色していた。
体温調節中枢が機能不全に陥り、皮膚からの放熱が完全にストップして深部体温が摂氏を突破しかけている危険な状態。
ティオは手早く兵士を抱え上げ、日除けのシェルターの中へと運び込む。
「シェリル、こいつを頼む!」
「ええ、任せてくださいませ!」
シェルターの中では、シェリルが魔導杖を優雅に振るっていた。
先端の氷晶宝玉から放たれる微小な冷気粒子が、運ばれてきた兵士たちの周囲の大気中の水分を優しく過熱凝縮させ、穏やかな気化熱冷却の微風を生み出している。
決して氷を直接皮膚に当ててはならない。
急激なアイシングを行えば、体表面の毛細血管が反射的に強く収縮してしまい、体内の熱放射が完全に遮断されて深部体温がさらに急上昇してしまうからだ。
ぬるま湯で湿らせた布で首筋の頸動脈、両脇の腋窩動脈、そして大腿部の付け根など、太い動脈が体表面近くを走る急所を的確に冷却し、循環する血液そのものの熱を穏やかに奪っていく。
まさに、第2章の雪山でシェリルが身につけた、熱力学と解剖学の融合結界であった。
「お薬のお水、持ってきたニャ! 口を開けて、ゆっくり飲むニャ!」
ニーナが木桶からすくい上げた黄金比のサバイバル電解質水。
冷泉水に溶かした氷晶岩塩のナトリウム、温感生姜のカリウム、そして野生シトラスのクエン酸と微量のトレハロース。
意識を失いかけていた兵士たちの口元へスプーンで注ぎ込むと、干からびた細胞が水分を貪るように、ゴクン……ゴクンと喉が自然と動き出した。
浸透圧が細胞内液と等張に設計されているため、胃腸に負担をかけることなく、瞬時に血液へと吸収されて電解質バランスを正常値へと引き戻していく。
「う……あ……冷たい……生き返る……っ」
「手足の……痺れが……消えていく……っ」
青白かった兵士たちの頬に、みるみるうちに赤みが差し、荒れていた呼吸が整っていく。
だが――そんな奇跡のような救護活動が行われている現場へ、天幕の奥からよろめきながら飛び出してきた数名の男たちがいた。
王都から同行していた下級貴族の補佐官たちと、宮廷料理人見習いたちである。
彼らは顔を蒼白にし、ティオたちの手元を指差してヒステリックな叫び声を上げた。
「な、何をしている貴様ら! 我が『黄金の天秤』の兵士たちに、どこの馬の骨とも知れん田舎の泥水を飲ませおって!」
「触るな! 平民の分際で、王都直属の近衛兵の甲冑を勝手に脱がすなど、軍規違反で極刑に値するぞ!」
「そうだ! 食料が腐ったのなら、王都本部へ緊急の補給要請を出すのが先決だ! 辺境の落ちこぼれ冒険者風情に、我が調査隊の指揮権を奪われてたまるか!」
無能な官僚特有の、自らの保身と権威にしがみつく浅ましい喚き声。
仲間が死にかけている現場で、なおも中央のプライドを振りかざすその醜悪さに、ティオがギリリと奥歯を噛み締めた、その時だった。
「――黙れ、無礼者どもがぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!」
鼓膜を破らんばかりの怒声が、盆地に轟き渡った。
割って入ってきたのは、他ならぬ王都筆頭宮廷料理長――ジャン・マルセルであった。
ジャンは目を血走らせ、白樺リネンの外套を翻して補佐官たちの胸倉を掴み上げると、凄まじい眼光で睨みつけた。
「じ、ジャン筆頭料理長殿……!? な、何をなさるのですか!?」
「貴様らのその節穴の目は何のためにあるのだ! 見ろ! この方々が調合した電解質水の一滴が、どれほど完璧な浸透圧で兵士たちの命を繋ぎ止めているかを! この方々が構築した日除け結界が、どれほど高度な熱力学の真理に基づいているかを!」
ジャンの口から放たれたのは、自らがかつて抱いていた傲慢を、自らの手で完全に打ち砕く魂の叫びであった。
王都の厨房で部下たちを怒鳴り散らし、自らの技術を誇示することだけに執着していた過去の自分が、どれほど愚かで小さかったか。
命を育み、命を救うための真の職人魂を、バルツたちから学んだジャンの魂は、すでに完全に生まれ変わっていたのだ。
「道中、この私自身が己の未熟さと傲慢によって熱射病に倒れ、このバルツ殿のサバイバル術と至高の解体料理によって命を救われたのだ! 火山の理を知らず、厨房の虚飾に溺れていた私こそが無能であったと、己の不明を恥じたばかりなのだぞ! それを……現場の現実も見ずに机上の権威を振りかざす貴様らごときに、この偉大なる狩人たちを侮辱することなど、私が絶対に許さん!!」
あの傲慢の塊であった宮廷料理長が、自らの非を衆人環視の中で堂々と認め、辺境の狩人たちを「偉大なる師」として命懸けで庇い立てしたのだ。
補佐官たちも料理人見習いたちも、信じられないものを見るかのように絶句し、その場にペタリとへたり込んだ。
「……ふん、言ってくれるじゃねえか、料理長先生」
バルツが煙管を軽く叩いて苦笑いを浮かべた。
ジャンはバルツの前に向き直ると、深々と頭を下げた。
「バルツ殿。部下の無礼を、心よりお詫び申し上げます。……どうか、この者たちを、我が調査隊の兵士たちを救ってはいただけないでしょうか。食料は全滅し、水も尽きかけております。このままでは、仮に熱中症から回復したとしても、全員が飢えで倒れてしまいます……!」
プライドを完全に捨て去り、部下の命のために頭を下げるジャンの姿に、バルツは静かに頷いた。
「言われるまでもねえよ。解体屋は命の使い道を繋ぐのが仕事だ。……だがな、ちょうどいい獲物が、向こうから挨拶に来てくれたようだぞ」
バルツが南西の断崖へと鋭い視線を向けた。
その瞬間――。
ズズズズズズズズズッ……!! ドガァァァァァンッ!!
盆地全体が激震した。
黒曜石の断崖の岩肌が粉々に砕け散り、巨大な黒い影が、灼熱の砂煙を巻き上げながら前線基地へと姿を現したのだ。
体長およそ4メートル。体重は優に3トンを超える。
全身を覆っているのは、黒曜石と天然岩塩が溶岩の熱で融合し、まるで分厚い装甲列車のように結晶化した、白銀と漆黒の巨大な甲羅。
鼻先からは二本の巨大な岩塩の牙が天を突き、血走った赤い瞳が、基地に倒れる兵士たちを威嚇していた。
火山の地熱鉱物と岩塩層を喰らって生きる、カルデラの暴走重戦車――《黒曜岩塩猪》であった。
「あ、あれは……黒曜カルデラの暴れ重戦車、《黒曜岩塩猪》だぁぁぁっっ!!」
ルキウスが悲鳴を上げた。
食料が尽き果てた前線基地に突如として現れた、動く天然の巨大保存食――。
カルテットとバルツによる、規格外の解体狩猟劇が、今まさに幕を開けようとしていた!




