第110話:王都調査隊の足跡と、不穏な煙の立ち上る前線基地
熱泥芋虫の至高の天然クリームによって極限まで体力を充填された一行は、風穴の奥の小道を抜け、黒曜カルデラの内輪へと続く巨大な尾根道へと躍り出ていた。
風穴を出た瞬間、再び摂氏を超える凄まじい熱波と、大気を焦がすような乾いた風が吹き付けてくる。
だが、芋虫の耐熱アミノ酸とトレハロースが全身の細胞に行き渡ったカルテットの身体は、不思議なほど熱気による疲労を感じていなかった。
シェリルは肌の潤いを保ちながら優雅に歩き、ニーナは軽やかな足取りで岩場を跳び跳ね、ティオは大剣の重みを感じさせない力強い歩調で先頭を進んでいる。
「ふふっ、不思議ですわ。あんなに息苦しかった熱風が、まるで温かい毛布のように心地よく感じられますわ」
「うんニャ! お腹の中からポカポカとお日様みたいなエネルギーが湧いてきて、全然バテないニャ!」
「おう! これなら火山の火口まで走って行けそうだぜ!」
頼もしい三人の言葉に、バルツも「あそこまで大量のトレハロースを補給すりゃ、細胞膜が熱変性から完璧に保護されるからな」と笑みをこぼす。
その後ろを歩く宮廷料理長ジャンと監査官ルキウスもまた、信じられないほどの身軽さに驚嘆しながら、無言でバルツの背中を追っていた。
だが――。
カルデラの内輪を見下ろす小高い丘の頂に到達した瞬間、一行の視界に飛び込んできたのは、あまりにも凄惨で不穏極まりない光景であった。
「あ……あれは……!?」
ルキウスが息を呑み、銀縁の眼鏡を取り落としそうになりながら指差した。
眼下に広がる黒曜石の盆地の中央。
そこには、王都の巨大ギルド『黄金の天秤』の黄金の刺繍が施された、巨大な軍用天幕が十数張りも設営されていた。
王都から先行して派遣されていた、調査隊の本隊――を超える護衛重装歩兵、採掘技師、下級官僚、そして宮廷料理人たちの前線基地であった。
しかし、そこに整然とした基地の活気は微塵も存在しなかった。
天幕のあちこちから、何か生ゴミを焼き焦がしたかのような、鼻を衝く腐敗臭混じりの黒煙がモクモクと立ち上っている。
そして、基地の周囲の地面には、分厚い鉄の甲冑を着た無数の兵士たちが、まるで打ち捨てられた人形のように折り重なって倒れ伏していたのだ。
「じ、事件だ……! 魔物に襲撃されたのか!?」
ティオが大剣の柄に手をかけ、急斜面を一気に駆け下りた。
バルツたちもそれに続き、荒れ果てた前線基地の天幕へと突入する。
だが、倒れていた兵士たちの身体に、鋭利な爪や牙による外傷は一つも見当たらなかった。
血を流している者もいない。
その代わり、倒れていた兵士たちの顔面は土気色に染まり、唇は乾燥してひび割れ、虚ろな目で宙を見つめながら浅く荒い呼吸を繰り返していた。
「み、水……っ、水を……くれ……っ」
「熱い……身体の中が……燃えるように熱い……っ」
「誰か……助けてくれ……息が……できない……っ」
呻き声が、あちこちから漏れ聞こえてくる。
重装甲冑を着込んだ護衛兵たちは、自らが誇りとしていた鋼鉄の鎧が、直射日光と地面の放射熱でまるでフライパンのように熱せられ、内部で生きたまま蒸し焼き状態になって重度の熱中症を発症していたのだ。
体温調節中枢が完全に麻痺し、全身の汗腺が干からび、多臓器不全の寸前まで追い込まれている。
さらに悲惨だったのは、天幕の中央に設置された巨大な食料庫であった。
ジャンが青ざめた顔で食料庫の幕を跳ね上げると――。
「うっ……! な、何という悪臭だ……!!」
思わず鼻を押さえて後ずさるほどの、猛烈な腐敗臭が吹き荒れた。
木箱の中には、王都から莫大な輸送費をかけて運び込ませた最高級の熟成牛肉や豚肉、大量のフレッシュバター、牛乳、生野菜がぎっしりと詰め込まれていた。
だが、火山の摂氏を超える高温多湿と地熱によって、それらはすべてドロドロに腐敗し、緑色のカビとウジが湧き、無数のハエが狂ったように群がっていた。
さらには、水樽の蓋を開ければ、内部の水は生温かい濁った湯と化しており、細菌が異常繁殖して飲むことすらできない猛毒の腐り水へと変貌していたのだ。
「ば、馬鹿な……! 氷の魔導具で冷やしていたはずの食料が、すべて全滅しているだと……!?」
ジャンが頭を抱えて叫んだ。
火山の地熱マナと電磁的な乱気流によって、王都製の繊細な魔導具は早々に過負荷を起こして故障し、冷却機能を完全に停止させていたのだ。
現地の気候と生態系を完全に無視し、王都の贅沢な生活様式をそのまま持ち込もうとした机上の空論が生み出した、完全なる人災であった。
「ひ、ひぃぃっ! 全滅だ……! 余りの精鋭部隊が、魔物と一度も戦うことなく、飢餓と脱水と熱中症で全滅寸前だなんて……! こんな報告書を王都へ持ち帰ったら、私の首が飛んでしまう!!」
ルキウスが腰を抜かし、地面を這いずり回りながら狂乱の悲鳴を上げた。
王都のエリートたちが誇る莫大な資金力と最高級の装備。
だが、大自然の過酷な環境と生体力学を無視したその傲慢な遠征計画は、現場に足を踏み入れてわずか数日で、完全なる破綻を迎えていたのだ。
死の静寂と絶望が支配する前線基地の中。
そんな中、倒れ伏す兵士の首筋に指を当て、頸動脈の脈拍と瞳孔の対光反射を冷静に確認していた男がいた。
バルツである。
「……脈は弱いが、まだ間に合うな。重度の熱射病と脱水、それに腐敗しかけた水を口にしたことによる初期の細菌性腸炎だ」
バルツは立ち上がると、ボロボロの毛皮外套の裾を豪快に払い、首の骨をゴキリと鳴らした。
その双眸には、いつもの気の抜けた中年狩人の気配は微塵もなかった。
死線を潜り抜けてきた歴戦の狩人だけが放つ、絶対の指揮官のオーラが宿っていた。
「おいおい、中央の偉い先生方は、遠征をピクニックと勘違いしてやがったのか? 王都の腐った牛肉なんざ今すぐ谷底へ放り出せ。……ティオ、シェリル、ニーナ!」
「「「おうっ/はいっ/ニャッ!!」」」
三人が直立し、気迫に満ちた声を張り上げた。
バルツの指示が、矢のように次々と飛ぶ。
「ティオ、荷車の黒曜石の平板を使って、天幕の周囲に太陽光を遮断する『反射日除けシェルター』を即座に構築しろ! 甲冑を着た兵士どもを全員引っ張り出して、金具を外して鎧を脱がせ! 風通しのいい日陰へ運んで、濡れ布で首筋と脇の下を冷やせ!」
「了解だ、おっちゃん!!」
ティオは黒鉄の大剣を背負い直すと、重装兵士たちを軽々と両脇に抱え上げ、手際よく甲冑の革紐を小刀で切り離して脱がせていく。
「シェリル、氷晶宝玉の微小冷気で、シェルター内の気化熱冷却ラインを作れ! 決して氷を直接肌に当てるなよ、体表面の毛細血管が急激に収縮して熱が体内にこもる。ぬるま湯を霧状に散布して、風で気化熱を奪うんだ!」
「かしこまりましたわ! 気化熱冷却結界、直ちに展開いたします!」
シェリルが優雅に魔導杖を振るい、霧状の微小な水滴を大気中に散布しながら、穏やかな対流風を生み出していく。
「ニーナ、風穴から汲んできた冷泉水に、雪山の岩塩と温感生姜、野生シトラスの果汁を黄金比で調合しろ! 分のサバイバル電解質水だ! 気絶してる奴らの舌の下へ、スプーンでゆっくり流し込んでやれ!」
「任せるニャ! ニーナの特製ポーションで、全員生き返らせてやるニャー!」
ニーナが軽やかに木桶を並べ、電解質水を調合して兵士たちの口元へ運んでいく。
バルツの電光石火の指揮のもと、カルテットが疾風のごとく動き出した。
混乱と絶望に染まっていた前線基地に、真のサバイバルマスターたちの手による、前代未聞の『超大規模レスキュー作戦』の幕が上がった。
そして――。
その混乱の最中、基地の背後に広がる黒曜石の断崖から、大地を激震させる凄まじい地鳴りが轟き始めた。
ドズゥゥゥゥゥン……! ドズゥゥゥゥゥン……!!
火山の地熱を喰らい、全身に分厚い天然岩塩の鎧を纏った巨大な影が、赤熱した瞳を爛々と輝かせながら、基地へと突進を開始していたのである!




