第106話:有毒ガス地帯の罠と、ニーナの超嗅覚「風穴レーダー」
火打ち石鳥の至高の地熱スチーム焼きを平らげ、腹の底から湧き上がる力強い滋養に満たされた一行は、黒曜峡谷のさらに険しい深部へと歩みを進めていた。
だが、前進するにつれて、周囲の景観と大気の質は劇的な悪化を見せ始めていた。
先ほどまでの突き抜けるような青空は、いつの間にか重苦しい黄褐色の煙霧によって完全に遮られ、太陽の光はまるで血を滲ませたかのような不気味な赤銅色の円盤へと変わっている。
足元の黒曜石の割れ目からは、シュロロロロ……と無数の毒蛇が威嚇するような不気味な高圧噴気音が絶え間なく鳴り響いていた。
「……ゲホッ! ゴホッ、ゴホッ! な、何だこの異臭は……!? 鼻の奥と気管がツンと焼け付くように痛いぞ……!」
高級な絹のハンカチで口元を押さえた監査官ルキウスが、涙をボロボロと流して激しく咳き込んだ。
宮廷料理長のジャンもまた、顔を苦渋に歪めて手袋の手で鼻孔を覆い、喉をゼイゼイと鳴らして苦悶の息を漏らす。
周囲の岩肌を見渡せば、黒々とした黒曜石の表面に、まるで毒々しいカビのようにびっしりと、鮮やかなレモンイエローの結晶がこびりついていた。
硫黄である。
それも、大気中のわずかな水分と反応して希硫酸の微細なミストを撒き散らす、極めて純度の高い火山性有毒噴出物であった。
「立ち止まるな。鼻呼吸を意識して、できる限り肺の奥まで深く吸い込むな」
先頭を行くバルツが、低い声で鋭く注意を促した。
その口元には、水筒の清澄な湧き水でしっかりと湿らせ、雪山の温感生姜の繊維を細かく織り込んだ特製の布が三重に巻かれている。
ティオ、シェリル、ニーナも同様の即席防毒マスクを装着し、重心を低く保ちながら整然と足を進めていた。
水で濡らした布の水分は水溶性の高い二酸化硫黄ガスを効率よく吸着・溶解させ、さらに生姜に含まれる精油成分ジンゲロールとショウガオールが、気道の粘膜を刺激して繊毛運動を劇的に活性化させる。
万が一微量の酸性ガスを吸い込んだとしても、肺胞の自浄作用によって即座に体外へ喀出させるための、狩人たちの知恵が生み出した生化学ブッシュクラフトであった。
「バルツ殿……この先は一体どうなっているのですか……? 息をするだけで、喉の粘膜が焼け爛れそうだ……!」
「ここは死火山の外輪山が形成する、天然の『すり鉢底』だ。比重の重い硫化水素と二酸化硫黄が、空気の底に澱みて溜まりやすくなってる」
バルツが指差した谷底の窪地には、数体の白骨化した冒険者の死骸と、強酸のガスでボロボロに腐食した金属鎧の残骸が散乱していた。
王都中央ギルドが過去に多額の報奨金を懸けて派遣し、消息を絶った調査小隊の成れの果てである。
「硫化水素は卵の腐ったような強烈な悪臭がするが、濃度が一定値を超えると嗅覚神経を瞬時に麻痺させて『無臭』に感じるようになる。匂いが消えたと思った瞬間には、もう手遅れだ。そして二酸化硫黄は、肺胞の粘膜に触れた瞬間に猛毒の亜硫酸へと変化し、肺の組織を内側からドロドロに溶かして急性の呼吸不全を引き起こす。……つまり、目に見えない死のカーテンだ。足を踏み外して濃度の高い吹き溜まりに突っ込めば、十秒で意識を失い、二分で肺が溶けて死ぬぞ」
「ひ、ひぃぃっ……!? じ、十秒で意識を……!?」
ルキウスが引き攣った悲鳴を上げ、膝をガクガクと震わせた。
安全な王都の執務室で帳簿を弾き、他人の命を数字として弄んできた官僚にとって、自然界が容赦なく突きつけてくる理不尽な死の現実は、生理的な狂気そのものであった。
その時だった。
ゴォォォォ……と、峡谷の奥底から不気味な地鳴りと共に突風が吹き抜けた。
熱風が谷底の澱んでいた黄褐色の煙霧を巨大な渦として巻き上げ、まるで津波のような黄色い壁となって、一行が立つ細い岩棚へと一気に押し寄せてきたのだ!
「し、しまっ……! 風向きが完全に変わりましたわ!」
「逃げ場がねえぞ! 後ろの退路も煙の渦で塞がれてる!」
シェリルが魔導杖を構えて防御結界を展開しようとし、ティオが大剣を構えて周囲を見渡すが、四方八方を猛毒のガスに包囲されては、いかに強力な魔法や大剣の腕前であっても物理的に防ぎようがない。
刻一刻と迫る死の黄色い帳。
ルキウスが「助けてくれぇっ!」と頭を抱えて地面にうずくまり、ジャンもまた自らの無力さに唇を噛み締めた、その刹那――。
ピクッ、ピクピクッ――!
カルテットの先頭で、ニーナの頭上の尖った猫耳が、微細な空気の圧力差を捉えて激しく左右に動いた。
胸元の白銀熊ペンダントが、気圧の微細な傾斜を感知してチリチリと冷気を放つ。
猫人族特有の驚異的な嗅覚器官――鼻腔の奥に広がる無数の嗅細胞と、鋤鼻器(ヤコブソン器官)が、大気中に含まれる硫黄の分子濃度と、かすかな純粋酸素の比率を瞬時に演算していた。
ニーナは即席マスクの上から鼻を小さくひくつかせ、その琥珀色の瞳を爛々と輝かせた。
「……見つけたニャ!」
「ニーナ!?」
「こっちニャ! 有毒ガスは重いから下へ沈むけど、あの青黒い玄武岩の壁の隙間から、冷たくて新鮮な空気がものすごい勢いで吹き出してるニャ! 気流のトンネルができてるニャ!!」
ニーナは躊躇うことなく黒曜石の岩肌を四肢で蹴り、濃密なガスが立ち込める谷の急斜面を、まるで風そのものになったかのように疾走した。
「ついてこい! ニーナの鼻を信じろ!」
バルツの一喝に、ティオとシェリルが即座に反応した。
ジャンとルキウスも、もはや生き延びるためにはこの少女の背中を追う以外に道がないことを悟り、必死の形相で岩壁をよじ登る。
背後わずか数メートルのところまで、肺を焼き尽くす致死性の黄色いガスが迫っていた。
「ここニャ! この割れ目に飛び込むニャ!」
ニーナが指差したのは、巨大な二枚の玄武岩が寄り添うように重なり合った、大人が一人やっと通れるほどの狭い岩の亀裂であった。
ティオがルキウスの襟首を掴んで裂け目の中へ放り込み、ジャンを力任せに押し込み、シェリルとバルツが滑り込む。
全員が亀裂の奥へ倒れ込んだ直後――。
外の岩棚を、猛烈な轟音と共に黄色い有毒ガスの奔流が呑み込んでいった。
ジュウウウウウッ……!
岩肌に生えていた耐熱性の苔が一瞬で黒く炭化し、酸の雨が岩を溶かす凄まじい音が響く。
だが――。
「……はぁっ……はぁっ……! な、何だここは……!? 息が……息ができる……!?」
ルキウスが恐る恐る口元からハンカチを外した。
亀裂の内部を満たしていたのは、あの鼻を刺す硫黄臭ではなかった。
清冽で、ひんやりとしていて、どこか湿り気を帯びた、信じられないほど甘く新鮮な大気であった。
「風穴だ」
バルツが岩壁に手を当て、満足そうに頷いた。
「この火山の地下には、遥か北嶺の霊峰から染み込んだ地下水が流れる巨大な溶岩洞窟が網の目のように広がってる。その冷たい地下水脈の上を流れる空気が、地熱による上昇気流に吸い上げられて、この亀裂から外へ向けて絶え間なく噴き出してるんだ。外気圧よりも内部の気圧が高いから、外の有毒ガスは一粒たりとも中へ入ってこられねえ」
「な……天然の気圧差を利用した、換気回廊……!?」
ジャンが息を呑み、壁に手をついて驚嘆した。
王都のいかなる賢者であっても成し得ない判断。
視界ゼロの猛毒の煙の中で、大気の匂いと流れだけで安全な生還ルートを正確に嗅ぎ分けたのだ。
「す、すごいニャ……! ニーナちゃん、君の嗅覚は一体どうなっているんだ……!?」
「へへ〜んだ! 猫人族の鼻を甘く見ちゃダメニャ! それに、白銀熊のペンダントが気圧の変わり目を教えてくれたから、風の通り道が目に見えるように分かったニャ!」
ニーナが誇らしげに胸を張ると、ティオが「さすがだなニーナ!」と頭を撫で回し、シェリルも「本当に命拾いしましたわ」と胸を撫で下ろした。
王都の精鋭探索隊が全滅した死のトラップを、カルテットは誰一人傷つくことなく、完璧なチームワークと野生の知恵で踏破してみせたのだ。
「さて……安全な場所へ逃げ込んだのはいいが、この風穴の奥、ただの洞窟じゃなさそうだぞ」
バルツが風穴の奥の暗がりへと視線を向けた。
そこからは、ゴポッ……ゴポポッ……という、温かい泥が泡立つような不思議な湿った音が響いていた。
灼熱の死火山の中に隠された、未知なる天然の恵み。
命の危機を乗り越えた一行の前に、またしても驚異の魔境生態系がその姿を現そうとしていた!




