第105話:【実食】火打ち石鳥のパリパリ地熱蒸し焼き&野生柑橘ソース
二十分が経過した。
黒曜石の割れ目から立ち上る心地よい地熱スチームの奥から、白樺樹液の爽やかな清涼感と、温められた生姜の芳醇なスパイシーアロマが濃密に漂い始めていた。
バルツが厚手の革手袋をはめ、重しとして乗せていた黒曜石の平板を静かに持ち上げる。
現れたのは、蒸気をたっぷりと吸い込んでしっとりと濡れた白樺樹皮の包みであった。
「よし、低温スチームの余熱熟成は完了だ。だが、これだけじゃ終わらねえぞ」
「まだ何かするニャ!?」
ニーナが涎を垂らしそうになりながら身を乗り出す。
バルツは解体包丁の腹を使い、すぐ隣の溶岩棚――地下のマグマ脈に直結し、摂氏近くまでカンカンに熱せられた漆黒の黒曜石の鉄板の上へ、樹皮から取り出した胸肉を『皮目を下にして』一気に滑り込ませた。
ジュワァァァァァァァッッッ!!!!
鼓膜を心地よく刺激する、凄まじい焼き音が峡谷の岩肌に響き渡った。
同時に、立ち上る純白の煙と共に、爆発的な芳香が周囲一帯の大気を一瞬にして制圧した。
皮下に蓄えられていた上質の火山性脂質が、二百度の黒曜石によって瞬時にメイラード反応を起こし、黄金色の香ばしいアロマとなって吹き荒れる。
バルツはヘラで肉の表面を軽く押し当て、皮目の水分を一気に飛ばしながら、わずか三十秒で黒曜石の鉄板から引き上げた。
「完璧だ。外はパリッパリ、中は完璧なロゼ色だぞ」
まな板の上に置かれた火打ち石鳥の大胸筋。
その皮目は、まるで飴細工や最高級の北京ダックのように、均一な濃い琥珀色の輝きを放ち、見るからに軽やかなクリスピー感を主張していた。
バルツが研ぎ澄まされた解体包丁の刃先を、肉の筋繊維に対して直角に滑らせる。
サクッ……サクッ……ジュワァッ!
包丁が皮を破る瞬間の小気味よい破砕音。
そして、抵抗感ゼロで刃が吸い込まれた瞬間、断面から信じられないほどの透明な肉汁が、まるで泉のようにドッと溢れ出してきた。
内部の肉色は、外側の熱気からは想像もつかない、桜の花びらのような淡く透き通る完璧なロゼ色。
タンパク質が硬化する摂氏を決して超えない、の地熱スチームでじっくり火を通したからこそ実現した、奇跡の水分保持率であった。
「う、嘘だろう……!? あの強靭極まる大胸筋が……刃物の重みだけで切れている……!?」
ジャンが目を見開き、震える手で眼鏡を押し上げた。
宮廷の厨房で何千羽ものシャポン(去勢鶏)や雉を捌いてきたジャンの鑑識眼が、その肉の異次元の仕上がりを一瞬で看破していた。
「仕上げだ。黒曜峡谷の岩陰に自生してた『野生の鬼シトラス』の絞り汁に、雪山の岩塩、すりおろした温感生姜、そして皮から出た脂を乳化させた特製ソースだ。たっぷりかけて食え」
とろりとした黄金色のシトラスソースが、切り分けられた大胸筋のロゼ色の断面へ、惜しげもなく回しかけられた。
柑橘の爽やかな酸気と、生姜の温かな刺激、そして焼けた脂の香ばしさが三位一体となり、峡谷の灼熱の空気すら吹き飛ばすような至高のシズル感を放つ。
「い、いただきますニャーーーーっ!!」
我慢の限界を迎えたニーナが、木皿から一切れを鷲掴みにして口の中へ放り込んだ。
ティオもシェリルも、フォークで大振りの肉片をすくい、夢中で頬張る。
そして――。
サクッ、ジュワワワワワワワワッッッ!!!!
「「「うっっっっっっっっっまーーーーーーーーいっっっっっっ!!!!」」」
三人の絶叫が、黒曜峡谷の空へと突き抜けた。
「な、なんだこれぇぇぇっ!? 皮が信じられないくらいパリッパリなのに、中の肉がふわっふわで柔らかい!! 噛んだ瞬間に、肉汁が口の中で洪水みたいに溢れ出してくるぜ!!」
「まあ……! なんて上品で澄み切った旨味ですの……! 鶏肉のような軽やかさがありながら、鴨肉のような重厚なコクが奥底から押し寄せてきますわ! そしてこの野生シトラスのソース……! 爽やかな酸味が生姜の熱気と絡み合い、濃厚な脂の後味を完璧に洗い流して、いくらでも食べられますわ!」
「お肉が……お肉が舌の上でとろけるニャ〜! 噛まなくても喉を通っていくニャ! 幸せすぎて天国が見えるニャ〜〜!」
ニーナは目を潤ませ、尻尾を猛烈な勢いで左右に振りながら、二切れ、三切れと猛烈な勢いで皿を空にしていく。
ティオは大口で肉を頬張りながら、雪山から持参した冷たい岩清水をゴクゴクと喉を鳴らして流し込み、「ぷはぁっ! 最高だ!」と叫んだ。
そんなカルテットの至福の表情を見つめながら、ジャンは生唾をゴクリと飲み込んだ。
宮廷料理長のプライドが「食べるな」と叫んでいたが、絶対味覚を持つ料理人としての魂が、その未知なる至高の美味に抗うことを許さなかった。
「……ひ、一口だけだ。この私が、田舎料理の欠点を暴いてやるために……毒見をしてやるだけだからな!」
ジャンは震える手でフォークを伸ばし、大胸筋の一切れを口へと運んだ。
そして――。
サクッ。
ジャンの脳天に、文字通り雷鳴が直撃した。
「――っ!?!?!?!?」
ジャンの全身が硬直した。
歯が皮を突き破った瞬間の、極限まで澄み切った軽やかな破砕音。
そして次の瞬間、歯茎が肉繊維に触れたか触れないかの刹那に、爆発的な肉汁の津波が口腔内の粘膜全体を埋め尽くしたのだ。
「な……な、何だこれは……っ!? 柔らかい……あまりにも柔らかすぎる……!! 筋繊維の一本一本が、極限まで水分を抱え込んだまま、まるでシルクのように滑らかに解けていく……!! そしてこの脂の甘み……! 火打ち石鳥が火山で蓄えた純度の高いエネルギーが、嫌な臭みどころか、香木のような高貴なアロマとなって鼻腔を突き抜けていく……!!」
ジャンはフォークを取り落とし、黒曜石の地面にガクンと両膝をついた。
大粒の涙が、その両目からボロボロと零れ落ちていく。
「マリアージュだ……完璧なマリアージュ(調和)だ……! 野生シトラスの強烈なクエン酸が肉のアミノ酸を爆発的に活性化させ、生姜のジンゲロールが胃壁を優しく温めて消化を促す……! 灼熱の環境で脱水し、疲弊した旅人の身体を蘇生させるために、これ以上完璧な計算に基づいた一皿がこの世にあろうか……!?」
ジャンは震える両手で頭を抱え、慟哭するように叫んだ。
「私が……私が王都の厨房で弄んでいたのは、単なる高価な調味料と、机上の虚飾に過ぎなかった……! 自然の理を知らず、生きている命の構造を理解せず、ただマニュアル通りに火を入れることしかできなかった私こそが……真の無能だったのだ……!!」
プライドの完全な粉砕。
そして、命を尊び、環境のすべてを味方につけるバルツの解体術に対する、魂の底からの降伏であった。
隣で冷徹を装っていた監査官ルキウスもまた、一口食べた瞬間に銀縁眼鏡をずり落とし、無言のまま狂ったように皿に残ったソースまでパンで拭い取って平らげていた。
「ふん。美味いと思ったら、残さず綺麗に食え。それが命をくれた獲物に対する、唯一の礼儀だ」
バルツは解体包丁を布で拭い、鞘へと収めた。
その背中を見つめるジャンの瞳には、もはや侮蔑の色など微塵もなく、神を見るかのような絶対の畏怖と崇拝の光が宿っていた。
一頭の怪鳥の解体と実食を通じて、王都の宮廷料理長の傲慢な心を完全にへし折り、胃袋を根こそぎ掌握してみせたのだ。
「さて……腹も膨れたことだし、本番の危険地帯へ入るぞ」
バルツが南西の空を見据えた。
その視線の先――黒曜峡谷のさらに奥深くには、黄色い有毒ガスが立ち込める、死の噴気帯が口を開けて待ち構えていた。
大地の狂乱の元凶に迫る過酷な探索が、いよいよ本格的な牙を剥こうとしていた!




