第104話:火花腺の信管抜きと、胸肉の余熱低温熟成
黒曜石の断崖の陰、熱風の直撃を遮る岩棚の下に、仕留められた二頭の《火打ち石鳥》が並べられた。
気絶させた直後にバルツが喉元の頸動脈へと的確に包丁を滑らせ、完全に放血処理を終えている。
頸部から吹き出した黒ずんだ血が、灼熱の砂地にジュウジュウと音を立てて吸い込まれていく。
血抜きを疎かにすれば、火山性の魔物に特有の強い鉄分と硫黄臭が瞬時に筋肉組織へと浸透し、肉の味が台無しになってしまうからだ。
「……ふん、血抜きの手際だけは一丁前のようだが、無駄な足掻きだな」
岩陰で冷たいエールを一口呷った宮廷料理長ジャン・マルセルが、鼻で嘲笑するように腕を組んだ。
その視線には、辺境の狩人に対するあからさまな侮蔑の色が滲んでいる。
「火打ち石鳥など、王都の宮廷料理界では『下等な害獣』として一顧だにされんゴミ屑だ。肉質はゴムのように強靭で硬く、噛み切ることすらできん。その上、全身に硫黄と火薬の悪臭が染み付いており、家畜の豚ですら見向きもしない。そんなものを解体して食おうなど……やはり辺境の田舎者は、味覚の構造が野蛮な獣と同じなのだな」
ジャンの毒舌に、大剣の手入れをしていたティオが青筋を立てて立ち上がりかけたが、バルツが片手を軽く上げてそれを制した。
「おいおい、王都の料理長先生。お前らの言う『下等な食材』ってのは、単にお前ら中央の料理人が『正しい解体の順序』を知らねえ無能だって告白してるようなもんだぞ」
「な、何だと……!? この私が無能だと申すか!?」
ジャンの顔が怒りで真っ赤に染まった。
だが、バルツは相手にする様子もなく、腰の革袋から銀色に光る細長いピンセットと、極細の解体小刀を取り出した。
「鳥の肉がゴムのように硬くなり、硫黄臭くなるのには、明確な生体力学的・化学的理由がある。火打ち石鳥は、飛翔中や戦闘時に全身を時速で急旋回させるため、大胸筋の筋繊維密度が異常に高い。そこへ雑な刃物を力任せに入れて筋膜をズタズタに引き裂き、さらに加熱時にタンパク質の凝固温度を無視して強火で一気に焼き上げるから、水分が抜けてゴム長靴みてえな硬さになるんだ」
バルツはしゃがみ込み、怪鳥の鋭利な嘴を左手で固定した。
「そして臭みの原因はこれだ。火打ち石鳥の喉の奥、舌骨と気管の分岐点には、嘴で散らした火花を引火させるための『発火石(フリント腺)』と、火山から吸い込んだ硫黄粉末を濃縮して蓄える『硫黄貯留嚢』が二つ並んで埋まっている。中央の連中は、首を落とす時にここを雑に叩き割るんだ。すると、内部に凝縮された高純度の硫黄液と硝煙が肉全体に吹き出し、一瞬で肉の脂質に臭いが転移する」
「なっ……! 気管の分岐点に、そんな器官が存在するだと……!?」
ジャンの目が丸くなった。
王都に届く魔獣の肉は、冒険者が適当に切り刻んで塩漬けにしたものばかりだ。
生きた状態の魔獣の解剖学的構造など、厨房に籠もる宮廷料理人が知る由もなかった。
「ニーナ、ピンセットを持て。シェリル、極小の冷気で腺の周囲を冷やせ」
「了解ニャ!」
「かしこまりましたわ!」
二人がバルツの左右に素早く跪く。
シェリルが魔導杖を近づけ、氷晶宝玉から爪の先ほどの冷気を気管の奥へと注ぎ込んだ。
摂氏零度近くまで急冷されたことで、硫黄貯留嚢の表面を覆う薄い膜がキュッと収縮し、内部の揮発性ガスが安定する。
そこへ、ニーナのしなやかな指先が滑り込んだ。
猫人族特有の鋭利な聴覚と触覚を頼りに、気管の軟骨の隙間にピンセットの先端をミリ単位で差し込んでいく。
「見えたニャ……! 小豆粒大の黒いフリント腺と、黄色い袋ニャ!」
「焦るなよ。膜の厚さは鳥の卵の薄皮一枚分だ。周囲の結合組織を、小刀の切っ先で撫でるように剥がせ。刃を立てるな、刃の重みだけで滑らせろ」
「……ん……っ、刃の重みだけで……滑らせる……ニャッ!」
ニーナの額から、一筋の汗がツーと流れ落ちる。
息を詰めるような超精密な外科手術。
ジャンもルキウスも、あまりの緊張感に唾を飲み込むことすら忘れて見つめていた。
そして――。
ペリッ……と、かすかな剥離音。
ニーナのピンセットの先には、傷一つない親指大の黄色い半透明の嚢と、黒光りする硬質なフリント腺が、完璧な球形のまま摘出されていた。
硫黄の悪臭は、一欠片も漏れ出ていない。
「摘出完了ニャーーっ!」
「よし、上出来だ。これで肉に悪臭が回る元凶は完全に断たれた」
バルツがニーナの頭をポンと叩くと、ニーナは嬉しそうに喉を鳴らした。
信管を抜かれた怪鳥の体躯からは、もはや危険な気配は微塵も感じられなかった。
「さて、次は肉の採取と加熱の下ごしらえだ」
バルツは解体包丁を手に取ると、火打ち石鳥の胸元――鋼鉄のように硬い羽毛を、毛並みに逆らうことなく根元からペリペリと剥ぎ取っていった。
現れたのは、息を呑むほど美しい肉塊であった。
鶏肉のような淡い白身ではない。
まるで最高級の鴨肉か上質の仔牛のフィレ肉のように、瑞々しい深紅色に輝く極厚の大胸筋。
その表面には、細やかな霜降りの脂が絹糸のように均一に張り巡らされており、灼熱の熱気の中でも艶やかな光沢を放っている。
「な、何という肉色だ……! これが、あの悪臭漂う害獣の肉だというのか……!?」
ジャンが思わず身を乗り出し、震える手で眼鏡を直した。
その肉には、傷一つ、内出血の痕一つない。
ティオが大剣の面で衝撃をいなし、シェリルが水蒸気で視界を奪い、ニーナが腱だけを切断して無傷で仕留めたからこそ実現した、奇跡のような最高純度の魔境肉であった。
「だが……いくら肉色が美しかろうと、この灼熱の地でどうやって調理する気だ?」
ジャンがなおも食い下がった。
「火打ち石鳥の大胸筋は、異常な運動量によって筋繊維が極限まで引き締まっている。炭火で直火焼きなどにすれば、一瞬で肉汁が蒸発してパサパサの干し肉になるぞ! 王都の最高級オーブンでもなければ、均一に火を通すことなど不可能なはずだ!」
「オーブンなんざ、そこら中に転がってるじゃねえか」
バルツが足元の黒曜石の大地を指差して笑った。
「いいか、熱力学の基本だ。肉のタンパク質……特にアクチンとミオシンが熱変性を起こす温度は決まっている。ミオシンが凝固して旨味を閉じ込めるのは摂氏から。だが、筋繊維を硬く縮め、内部の水分を絞り出してしまうアクチンが変性するのは摂氏を超えてからだ。つまり――から六十五度の安定した温度帯で、じっくりと時間をかけて火を通せば、肉汁を一滴も逃さずに極限の柔らかさを引き出せる」
バルツは荷車から、湿らせた厚手の白樺樹皮を取り出した。
切り分けた大胸筋の塊に、雪山の天然岩塩と温感生姜の粉末、そして野生の柑橘類の皮を軽く擦り込み、白樺樹皮で幾重にも隙間なく包み込んでいく。
「黒曜石の割れ目から吹き出してるこの地熱蒸気……温度はちょうど摂氏前後だ。この樹皮で包んだ胸肉を地熱スチームの上に置き、上から平らな黒曜石の板を乗せて余熱を閉じ込める。『地熱スチーム低温熟成』だ」
ジュウウウウウ……。
黒曜石の裂け目に樹皮の包みが据えられると、心地よい蒸気音と共に、白樺の清々しい樹液の香りと、爽やかな柑橘の香りがふわりと立ち上った。
大自然の地熱そのものを巨大なスチームオーブンとして利用する、究極のブッシュクラフト調理法。
「じ、地熱の蒸気温度を計算して、樹皮で水分を保ちながら低温スチーム調理だと……!? 宮廷料理の最先端技法である『真空調理』の真理を……この男は、辺境の泥臭い知恵だけで完全に理解しているというのか……!?」
ジャンはその場にへたり込みそうになるほどの衝撃を受けていた。
かつて自分が「未開の田舎者」と見下していた中年狩人は、自分が一生をかけて宮廷で追い求めてきた料理の深奥を、遥かに高い次元で具現化していたのだ。
「ティオ、シェリル、ニーナ。あとで火が通るぞ。付け合わせの野生ハーブと、冷たい雪山岩清水の準備をしとけ!」
「「「了解っっっ!!!」」」
三人の威勢のいい返事が、灼熱の峡谷に響き渡った。
黒曜石の板の下で、大自然の熱と命の旨味が極限まで凝縮されていく。
至高の地熱フレンチが完成するその瞬間を、誰もが唾を飲み込んで待ち望んでいた!




