第107話:地熱泥の中に潜む白い俵! 《熱泥芋虫》の掘り出し術
有毒ガスの黄色い奔流を完全に遮断した、玄武岩の風穴の奥深く。
狭い岩の亀裂を10メートルほど進むと、視界がふわりと開け、漆黒の玄武岩で囲まれた直径20メートルほどの巨大な地下空洞が姿を現した。
天井の遥か高みに穿たれた岩の裂け目からは、山脈の頂から吹き降りてくる清冽で乾燥した涼風が絶え間なく注ぎ込んでおり、洞窟内は外界の猛毒地獄とは完全に隔絶された、驚くほど清らかな大気に満たされている。
そして、その地下空洞のほぼ中央部には――。
周囲の岩肌の割れ目から湧き出す熱泉と、微細な火山灰が何千何万年もの歳月をかけて溶け合い、ポコポコと柔らかな湯気を立てて泡立つ、広大な灰褐色の泥沼が広がっていた。
「……あ、温かいですわ。硫黄の嫌な臭いもしませんし、むしろ……何かしら、このどこか懐かしくて甘い香りは?」
シェリルが魔導杖を抱え直し、不思議そうに小さな鼻を鳴らした。
洞窟内に漂っていたのは、火山特有の鼻腔を刺すような亜硫酸の刺激臭ではなかった。
まるで王都の一流ベーカリーで早朝に焼き上げられる焼きたてのブリオッシュや、発酵したての極上の麦酒酵母、あるいは挽きたてのアーモンドのような、甘酸っぱく芳醇で香ばしいアロマであった。
「ミネラルを豊富に含んだ黒曜石の火山灰と、地下水脈から湧き出る弱アルカリ性の天然熱泉が混ざり合って、ここは天然の『発酵泥沼』を形成してるんだ。泥の内部には、地熱の高温環境を好む特殊な好熱性細菌と野生酵母が、天文学的な密度で共生・繁殖してる。……そして、その発酵泥が蓄えたアミノ酸と糖分だけを濾過して喰らい、何年もの歳月をかけて栄養を極限まで凝縮させた、黒曜峡谷の最高の隠し玉がこの泥の底に眠ってる」
バルツがニヤリと無骨な口の端を吊り上げ、白樺リネンの耐熱外套の袖を豪快に肘の上まで捲り上げた。
その言葉を聞いたティオが、パッと瞳を輝かせる。
「隠し玉……! おっちゃん、また何か信じられないくらい美味い獲物が潜んでるのか!?」
「ああ。足元の泥の表面をよく観察してみろ」
バルツが指差した泥沼の表面。
ポコッ……ポコポコッ……と、時折大きな気泡が弾け、粘り気のある灰褐色の泥の表面がモゾモゾとゆっくり波打つように盛り上がっていた。
バルツは泥沼の縁にしゃがみ込むと、手のひらを泥の表面から数センチの高さにかざし、伝わってくる熱気と粘度を確かめた。
「泥の温度はちょうど摂氏から。人間が温泉に浸かるのに最も心地よい適温だ。泥の層の深さは約30センチ、底にある冷えた玄武岩の砂地との境目に集まってる。いいか、泥を掘る時は決して爪を立てるな。泥の粘性抵抗は水の数10倍だ。指先に力を入れすぎれば泥の表面張力で獲物の薄皮を破いちまう。前腕の力を抜き、手のひらを熊手のように丸め、母指球で泥をすくい上げるように優しく手繰り寄せるんだ。……ほらよっ!」
バルツが両腕を泥沼の奥深くまでズブリと滑り込ませた。
泥の粘度を感じ取り、指先で獲物の丸みを捉えた瞬間、手首のスナップを利かせて一気に上方へと引き上げる。
ボフッという鈍い破裂音と共に、泥の中から宙へと躍り出たのは――。
体長およそ30センチ。太さは大人の手首を遥かに超える直径10センチ以上。
まるで上質な生絹のように艶やかな純白の薄皮に覆われ、ぷっくりと俵のように丸々と太った、巨大な甲虫の幼虫であった。
外骨格は驚くほど薄く半透明で、脚は泥中生活に適応して極小の突起へと退化しており、泥の中でコロコロと丸まりながら、無害そうにぷにぷにと身体をくねらせている。
黒曜石の死火山に生息する幻の甲虫幼虫――《熱泥芋虫》であった。
「きゃあああああああああっっっ!?!?!? いやぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
その瞬間、洞窟の岩壁を揺るがすほどのシェリルの絶叫が木霊した。
普段は冷静沈着で知的な名門貴族の令嬢が、顔面を紙のように真っ白にして魔導杖を振り回し、ティオの背後へ物凄い勢いで飛び込んで隠れたのだ。
「む、虫……っ! 巨大な幼虫ですの!? 白くてブニブニしていて、大きすぎますわ!! あんなものが泥の中から出てくるなんて、信じられませんわ!!」
「うわっ……! な、何だこのおぞましい怪物は!?」
宮廷料理長のジャンもまた、全身の毛穴を逆立てて5メートルも後ずさり、胸の前で必死に十字を切った。
「泥の中から芋虫を掘り出して、一体何を企んでいるんだ! そんな奇怪極まりない害虫など、王都では下水道の汚物にすら劣る忌むべき存在だぞ! まさかそれを……口に入れる気ではあるまいな!? 正気か!?」
「ぶはははっ! シェリルも料理長先生も、情けねえ声を張り上げるなよ!」
バルツが大笑いしながら、湧き水を満たした木桶の中で熱泥芋虫の泥を優しくすすいだ。
灰色の泥を洗い流された芋虫の体躯は、息を呑むほど神聖な輝きを放っていた。
薄皮は陶器のように滑らかで、光にかざすと、内部の体腔を満たす黄金色の濃厚な体液と脂質が、まるで蜂蜜のように美しく透けて見えた。
虫特有の青臭さや土臭さは微塵もない。
漂ってくるのは、最高級のバニラビーンズを煮詰めた生クリームと、煎りたてのヘーゼルナッツを合わせたかのような、甘く上品で重厚な芳香であった。
「見た目で判断するな、と何度も言ってるだろ。こいつの生化学的な構造を知れば、腰を抜かすぞ」
バルツは芋虫の柔らかな腹部を指で優しく弾きながら解説を始めた。
「熱泥芋虫は、腐肉や死骸、動物の排泄物なんざ一切口にしねえ。この風穴の無菌の発酵温泉泥と、天然酵母、そして岩肌から染み出す純度の高いアミノ酸だけを体内で濾過して成長する、完全なるクリーンな草食・発酵生物だ。体液には、地熱の熱変性に耐えるための特殊な耐熱タンパク質と、極めて純度の高いトレハロース(天然多糖類)が異常な濃度で蓄えられている。さらに、アミノ酸スコアは牛肉や豚肉の3倍以上。いわば『大自然が地熱と天然酵母で育て上げた、動く極上カスタードクリームの樽』だぞ」
「アミノ酸スコアが牛肉の3倍……トレハロースの結晶体だと……!?」
ジャンの料理人としての鋭敏な嗅覚と知性が、バルツの解説に激しく反応した。
恐怖と嫌悪感に塗り固められていた表情の奥に、プロの料理人としての抑えきれない好奇心の炎がチリチリと灯り始める。
「ええ〜、シェリルちゃん、全然怖くないニャ! 触るとフニフニしてて、あったかくて、プリンみたいに弾力があってすっごく気持ちいいニャ〜!」
ニーナは恐怖など微塵も感じていない様子で泥沼にズボリと両腕を突っ込み、二匹目の熱泥芋虫を「とったニャ!」と軽々とすくい上げた。
泥を落とした芋虫を両手で持ち、ほっぺたにすりすり寄せて目を細めている。
ティオも「へへっ、宝探しみたいで面白えじゃねえか! おっちゃん、指の力を抜くんだよな!」と泥だらけになりながら、次々と俵のような巨大芋虫を泥の底から掘り出していった。
「おっちゃん、大漁だぜ! あっという間に八匹……いや、十匹も獲れた!」
「よし、上出来だ。これだけあれば、全員の胃袋を極上の濃厚クリームでパンパンに満たせるな」
バルツが満足げに泥を拭いながら立ち上がると、ティオたちの手元には、まるで極上の純白の大福餅のように艶やかな芋虫がズラリと並んでいた。
いまだにティオの背中から恐る恐る顔を覗かせ、「で、でも……やっぱり形が芋虫ですわ……」と唇を尖らせるシェリル。
そして、その圧倒的な香気と生化学的ポテンシャルに息を呑み、固唾を飲んで見つめるジャン。
魔境が育んだ奇跡の珍味を至高の料理へと昇華させるための、超精密な下処理講義が始まろうとしていた!




