第100話:大雪解けと、火山地帯から漂う焦げた風!
スノウベール村を包み込んでいた数ヶ月間の絶対零度の呪縛は、まるで幻であったかのように、急速な雪解けの轟音と共に洗い流されていった。
霊峰の尾根から吹き下ろす風は、もはや肌を切り裂く氷の刃ではなく、春の兆しを孕んだ柔らかな息吹へと完全に変わっていた。
村を取り囲んでいた何メートルもの豪雪は、陽光を浴びて激しい雪解け水となり、幾筋もの清冽な小川となって斜面を勢いよく駆け下りていく。
閉ざされていた幹線道路の雪塊が音を立てて崩れ落ち、王都や近隣の都市へと続く街道の黒々とした地面が、何ヶ月ぶりかにその姿を現した。
「道が開いたぞーっ! 幹線道路が開通したぞーっ!!」
見張りの猟師が上げた歓喜の叫び声が、澄み渡る春空へと高らかにこだました。
それは、スノウベール村が完全に外界との繋がりを取り戻し、飢餓と孤立の死線から完全に生還したことを告げる、高らかなファンファーレであった。
村の出入り口には、旅立ちの時を迎えたバルツたちを見送るため、数百人もの村人たちが総出で集まっていた。
誰もが温かい冬着に身を包み、その顔には血色が満ち、瞳には希望の光が爛々と輝いている。
荷車には、村人たちが感謝の印にと持ち寄った特産の乾物や保存食、そして丁寧に鞣された毛皮が山積みにされていた。
「バルツさん、カルテットの皆さん! 本当に、本当にありがとうございました!」
「皆さんから教わった解体の技と燻製の作り方、村の宝として代々受け継いでいきます!」
「お兄ちゃん、お姉ちゃん! また絶対に遊びに来てね! 待ってるからねーっ!」
子供たちが手をちぎれんばかりに振り、大人たちが深々と頭を下げる。
その最前列には、新しく結成された『北嶺開拓義勇軍』の腕章を腕に巻いたエレナが立っていた。
背筋をピンと伸ばし、白銀の大盾を大地に構えた彼女は、まだどこか頬をほんのりと赤らめながらも、凛とした誇り高き笑顔を浮かべていた。
「バルツ殿……いえ、我が師、そして命の恩人よ。道中の安全を、心よりお祈り申し上げます」
エレナは胸元に手を当て、まっすぐにバルツの瞳を見つめた。
その瞳には、かつての迷いや絶望の色は微塵もない。
「この地は、私たちが必ず守り抜きます。大自然の恵みに感謝し、民の命を守り、そしていつか……あなた方が中央の巨大な闇と対峙するその日のために、盤石の補給線と不抜の砦を築き上げてみせます。ですから……どうかお元気で」
「ああ。無理はすんなよ、エレナ。困ったことがあったら、いつでも辺境ギルドに早馬を飛ばせ。肉の焼き方から骨の割り方まで、いくらでも教えてやるからな」
「はいっ……! ふふっ、そのお言葉、決して忘れませんわ!」
バルツが片手をひらりと振ると、エレナは満面の笑みを咲かせた。
その美しい笑顔を背に受けながら、バルツ、ティオ、シェリル、ニーナの四人は、雪解けの幹線道路へと一歩を踏み出した。
街道を歩く三人の新米冒険者たちの姿は、数週間前にこの雪山へ踏み入った時とは、まるで別人のように精悍なものへと変貌を遂げていた。
それは単に厳しい寒さを乗り越えたという精神的な成長だけではない。
彼らが身に纏う装備の隅々にまで、雪山の極限環境を生き抜いた『本物の狩人』の証が刻み込まれていたのだ。
「へへっ……どうだシェリル、ニーナ! この大剣の新しい柄巻き! めちゃくちゃ手に吸い付くようだぜ!」
ティオは背負った黒鉄の大剣を愛おしそうに撫でた。
かつて擦り切れて滑りやすくなっていた柄には、バルツの指導のもと、あの大角鹿《氷霜の巨角鹿》の内側の極上鹿革が丁寧に幾重にも巻き付けられていた。
鹿革の驚異的な柔軟性と摩擦力は、どれほどの手汗や返り血を浴びても決して滑らず、振るうたびに手首や肘へかかる強烈な衝撃を完璧に吸収・分散する。
重厚な重心制御を可能にしたその大剣は、もはやただの鉄塊ではなく、ティオの腕の延長として神域の切れ味を発揮する究極の得物へと進化していた。
「私の杖も、信じられないほどの変貌を遂げましたわ」
シェリルが手にする白樺の魔導杖。その先端には、巨角鹿の角の最も純度の高い芯から削り出された、親指大の青白い『氷晶宝玉』が嵌め込まれていた。
シェリルが指先から微小な魔力を流し込むと、宝玉は淡いオーロラ色の光を放ち、周囲の空気の熱量を一切乱すことなく、完璧な気流の制御を可能にしていた。
雪山での『氷晶岩魚』や温感生姜の食事によって長年の冷え性と魔力欠乏体質を完全に克服した彼女の魔力回路は、今や古代精霊の波長と完璧に同調し、暴走することなく無限の精密制御を可能にする「極上の器」へと覚醒していたのだ。
「ニーナも見て見てニャ! これ、すっごくお気に入りニャ!」
ニーナが胸元から誇らしげに取り出して見せたのは、白銀の毛皮と《白銀の剛毛熊》の鋭利な爪、そして胸骨から採取した不凍結晶を編み込んだ特製のペンダントだった。
そのペンダントは、周囲の気配や大気の微細な振動を捉えてかすかに共鳴し、猫人族特有の研ぎ澄まされた野生の直感をさらに何倍にも増幅させていた。
三人はもはや、ギルドの片隅で「落ちこぼれ」と蔑まれていた新米たちではない。
生体力学に基づいた身体の動かし方を叩き込まれ、命の恵みを余すところなく喰らい、霊峰の過酷な生態系を肌で理解した、大陸屈指の実力を持つ一人前の狩人カルテットへと羽化を遂げていたのである。
「なあおっちゃん、俺たち、本当に強くなったよな! 中央ギルドの連中が逃げ出すような雪山の主を、俺たち四人で解体して、村のみんなを救えたんだぜ!」
「調子に乗るんじゃねえよ、バカ野郎」
得意げに胸を張るティオの頭に、バルツの拳骨がコツンと落とされた。
「お前らが動けたのは、道具の手入れを怠らず、食い物の栄養をきっちり身体に回して、仲間の死角を埋め合ったからだ。慢心した瞬間、狩人は自然の牙に喉笛を掻っ切られる。基本を忘れるな」
「いってて……! へへっ、分かってるよおっちゃん! 『骨の隙間に刃を滑らせる』だろ!」
「ふふっ、本当にティオはお調子者ですわね。でも、バルツさんのおっしゃる通りですわ。私たちはまだ、魔物解体の奥深さの入り口に立ったばかりなのですから」
「そうニャ! もっともっと珍しくて美味しい魔物をいっぱい解体して、いっぱい食べるニャ!」
春の陽光が降り注ぐ街道に、三人の明るい笑い声が弾けた。
雪解けの山道を下り、辺境の豊かな森が近づいてくるにつれて、空気は次第に暖かさを増していく。
だが――。
幹線道路が大きく二股に分かれる、小高い峠の頂に差し掛かった時のことだった。
「……ん?」
先頭を歩いていたバルツが、ピタリと足を止めた。
その無骨な顔からいつもの気の抜けた笑みが消え失せ、野獣のような鋭利な眼光が、南西の彼方――遥かなる地平線の先へと向けられた。
「おっちゃん……? どうしたんだ?」
ティオが足を止め、不思議そうにバルツの背中を見つめた。
その瞬間、シェリルとニーナも息を呑んだ。
バルツの着古した毛皮外套の背中――30年前の古傷が刻まれている肩甲骨のあたりから、ジワリと、陽炎のような微小な熱気が立ち上っていたのだ。
「……チリチリしやがる」
バルツが背中に手を当て、低く呻くように呟いた。
その古傷は、雪山では「氷点下の冷気」や「大雪崩の兆候」を告げる気圧センサーとして機能していた。
だが今、背中の傷口が発しているのは、凍えるような痛みではない。
まるで真っ赤に熱した鉄板を押し当てられたかのような、チリチリとした「焦げるような熱」だった。
「おっちゃんの背中の傷が……熱くなってる……!?」
「ええ……! 大気中のマナが、尋常ではない熱量で振動していますわ!」
「くんくん……! ニャっ!? 風の匂いが……急に変ニャ! 雪解けの匂いの中に、ツンとする黄色い煙と……何かが焦げたような匂いが混ざってるニャ!」
ニーナがピクピクと鼻をひくつかせ、南西の空を指差した。
三人が視線を向けると、遥か南西の空の果て――春の青空の彼方に、禍々しい紫がかった噴煙の筋が、何本も立ち上っているのが見えた。
そこにあるのは、白銀の霊峰とは対極に位置する、大陸で最も過酷な灼熱の魔境。
かつて古代の超巨大噴火によって大地が引き裂かれ、現在もなお地下深くから煮えたぎるマグマと有毒ガスを吐き出し続けている黒曜石の地帯――『黒曜カルデラ死火山群』であった。
「……地脈の血栓は、雪山だけじゃねえってことだな」
バルツの瞳が、深く険しい光を宿した。
あの雪山で暴走していた白熊や巨角鹿の体内から摘出された、禍々しき『黒い結晶』。
中央ギルド『黄金の天秤』が魔導削岩機で地脈を乱掘し、世界各地の霊脈を狂わせていたその歪みが、今度は南西の火山地帯において、未曾有の災厄を引き起こそうとしていたのだ。
地下のマグマ脈が狂乱し、火山性の凶悪な魔物たちが暴走を始めている――その大地の悲鳴を、バルツの古傷が正確に捉えていた。
「風が運んできやがったな。硫黄の匂いと……大地が焼け焦げる乾いた熱風だ」
「南西の火山……! あそこには、どんな魔物がいるんだ、おっちゃん!?」
ティオが目を輝かせながら大剣の柄を握り直した。恐怖の色はどこにもない。そこにあるのは、未知なる強敵と新たな大地への尽きせぬ探求心だった。
シェリルも杖を握り締め、知的な光を瞳に宿して微笑む。
「火山地帯……高熱と有毒ガスに耐える魔物たちですわね。表皮は溶岩のように硬く、内部には極上の熱エネルギーを蓄えているはず……」
「溶岩の魔物……! それって、お肉が最初からアツアツに焼けてるってことニャ!? 分厚いステーキを炭火でジューシーに焼いて、かぶりつきたいニャー!」
「ぶはっ、最初から焼けてる魔物なんかいねえよ!」
ニーナの食い気丸出しの台詞に、ティオが吹き出した。
緊迫した空気が一瞬で和らぎ、四人の間にいつもの温かな空気が戻ってくる。
バルツは背中の古傷の熱さを確かめながら、不敵な笑みを口元に浮かべた。
「高熱で鍛え上げられた魔物の肉は、繊維が引き締まってて脂の旨味が桁違いだ。だが、甲殻や皮膚は岩石よりも硬い。関節の隙間を的確に見極めなけりゃ、刃が一瞬でボロボロになるぞ」
「望むところだぜ! 俺の新しい大剣の柄巻きと、おっちゃんから教わった解体の技があれば、どんな硬い甲殻だろうが骨の隙間に刃を滑らせてみせる!」
「私の氷晶魔法で、熱暴走した魔物たちの急所を的確に冷却・収縮させてみせますわ!」
「ニーナが一番柔らかくて美味しいお肉の部位を、匂いでぜーんぶ見つけ出すニャ!」
三人の頼もしい言葉に、バルツは満足げに頷いた。
「よし。行くぞお前ら! 次の獲物は、灼熱のマグマを喰らう黒曜石の魔物どもだ! 極上の串焼きと、火山香草の特製スパイシーダレを食わせてやるからな! 解体包丁を研いで、しっかりついてこい!」
「「「おーーーっっ!!!」」」
春の青空の下、力強い三人の鬨の声が轟いた。
白銀の雪山を踏破した四人の足取りは力強く、新たな冒険と未知なる美味が待つ灼熱のカルデラ地帯へと、迷うことなく前進を始めた。
極寒の霊峰を救い、深き絆を結んだ狩人たちを待ち受けるのは――。
煮えたぎる溶岩の海、甲殻に覆われた灼熱の巨獣、そして王都中央ギルドが企むさらなる巨大な陰謀!
おっさんの解体包丁と落ちこぼれカルテットの冒険は、さらなる熱狂と美味の嵐を巻き起こしながら、激動の次なる舞台へと突き進む!




