第099話:エレナの涙の誓い「私は生涯、あなた方の背中を守る盾となります」
翌朝、スノウベール村の空は、信じられないほどの抜けるような蒼天に恵まれていた。
数ヶ月にわたって霊峰全体を覆い尽くしていた重苦しい鉛色の暗雲は跡形もなく消え去り、白銀の頂きを黄金色の朝日が神々しく照らし出している。
そして何よりも劇的だったのは、肌を刺す風の匂いだった。
骨の髄まで凍りつかせるような絶対零度の刃ではなく、ほんのりと湿り気を帯びた、柔らかな春の息吹が山肌を吹き抜けていたのだ。
カラン、ポタリ――。
民家の軒先に長く垂れ下がっていた氷柱が、朝の陽光を受けて眩しく煌めきながら、次々と柔らかな雫となって地面の残雪を穿っていく。
積雪で押し潰されかけていた屋根からは、どさり、どさりと重たい雪の塊が滑り落ち、何ヶ月ぶりかに現れた黒々とした土の匂いが、冷たい大気の中にふわりと立ち上っていた。
「……雪が、解けていく……」
「嘘みたいだ……本当に、春が戻ってきたんだ……!」
広場に集まった村人たちが、空を見上げて感涙にむせんでいた。
昨日振る舞われた『氷霜巨角鹿の雪洞ポトフ』と『桜色ロース肉のステーキ』の圧倒的な栄養と熱量は、一晩明けてもなお全員の体内を力強く巡り続けている。
寝たきりだった老人たちが自らの足でしっかりと立ち上がり、子供たちは頬を真っ赤に染めて広場を元気いっぱいに駆け回っていた。
死の淵に立たされていた寒村に、再び力強い生命の脈動が完全に蘇ったのだ。
そんな奇跡の朝、広場の中央には、旅立ちの身支度を整えたバルツたちの姿があった。
背嚢には、巨角鹿から採取された極上の不凍ラードや燻製干し肉、そしてシェリルが丁寧に調合した雪山温感生姜の粉末がぎっしりと詰め込まれている。
ティオは自慢の大剣の柄を確かめ、シェリルは杖の感触を確かめるように軽く魔力を通し、ニーナは満腹の腹をさすりながら満足げに喉を鳴らしていた。
「ふあぁ〜、ぐっすり眠れたニャ〜! ベッドがフカフカで、朝ご飯の鹿肉粥も最高だったニャ!」
「ええ、村の皆様が早朝から総出で用意してくださった温かいお粥……滋味が身体中に染み渡るようでしたわ」
「へへっ、村の子供たちから『強くなるお守り』って、手作りの木彫りの鹿をもらっちゃったぜ! 大事に胸ポケットに入れとかねえとな!」
「おう、お前ら、忘れ物はないか? 雪山を降りるまでは油断すんなよ。雪解けの時期はクレバスや小規模な雪崩が起きやすいからな」
バルツがいつものぶっきらぼうな口調でカルテットの装備を点検していると――。
ざっ、ざっ、ざっ、と凛とした金属鎧の足音が響き渡り、広場のざわめきが一瞬にして静まり返った。
歩み出てきたのは、白銀の霊峰近衛騎士団の正装鎧を身に纏ったエレナ・フォン・シルフィードだった。
昨日までのやつれと絶望の色は完全に消え去り、その透き通るような青い瞳には、揺るぎない覚悟と誇りの光が宿っている。
濡れ羽色の美しい髪が朝風に揺れ、背丈ほどもある大盾を従者に預けた彼女は、まっすぐにバルツの正面へと進み出た。
「エレナ……? どうしたんだ、そんな改まった格好をして」
ティオが不思議そうに首を傾げた、その次の瞬間だった。
エレナは腰に帯びていた白銀の騎士剣を鞘ごと抜き放つと、両手で捧げ持つようにして雪の上に突き立てた。
そして――。
バサリと純白のマントを翻し、バルツの眼前で、右膝を冷たい雪の大地に深々と折り曲げたのだ。
それは、騎士が自らの魂を捧げるべき主君に対してのみ行う、最上級の臣従と忠誠の礼であった。
「ちょ、ちょっとエレナさん!? な、何をなさっていますの!?」
「エレナちゃん、膝が冷たいニャ! 立って立って!」
慌てふためくシェリルとニーナを、エレナは静かに制した。
そして、顔を上げ、まっすぐにバルツの瞳を見据える。その青い双眸からは、一筋の清らかな涙が頬を伝ってこぼれ落ちていた。
「……バルツ殿。そして、ティオ殿、シェリル殿、ニーナ殿。私の無礼を、どうかお許しください」
エレナの声は、震えていた。だがそれは恐怖や寒さからではなく、魂の底から湧き上がる激動の感情によるものだった。
「私は……己の無力さを恥じておりました。王都の中央騎士団で学んだ剣技も、貴族としての矜持も、この極限の寒波と飢餓の前には何一つ役に立たなかった。それどころか、王都の巨大ギルド『黄金の天秤』は、鉱山利権を買い叩くために補給物資を意図的に滞留させ、この地に住まう何百人もの命を、帳簿の数字のように冷酷に見殺しにしようとした……!」
エレナの白い指先が、騎士剣の鍔をギリリと握り締める。
王都の腐敗。中央ギルドの強欲。
机の上で莫大な利益を計算し、現場の血の滲むような叫びを踏みにじる権力者たちへの、底知れぬ怒りと絶望。
それが、彼女の胸をどれほど苛み、苛酷に引き裂いてきたか。
「私は絶望のあまり、自らの命を投げ打って死に場所を探すことしかできなかった……無力で、愚かな小娘でした。しかし――」
エレナは深く息を吸い込み、涙に濡れた瞳を輝かせた。
「あなた方は、違いました。中央が見捨てたこの寒村へ自らの足で踏み入り、氷点下の吹雪の中で焚き火を熾し、命の解体を通じて、雪山の残酷なまでの恵みを私たちに分け与えてくださった。凍え死ぬ寸前だった村人たちに温かいスープを配り、自らの手で生き抜くための誇りと知恵を授けてくださった……! あなた方が救ってくださったのは、この村の肉体だけではありません。絶望に沈んでいた、私たち全員の『魂』そのものだったのです!」
広場を埋め尽くした村人たちから、すすり泣く声が漏れた。
村長も、猟師たちも、母親たちも、全員がエレナと同じように深々と頭を垂れ、祈るように両手を組んでいる。
「私は誓います。王都の腐敗した中央ギルドや、民を顧みぬ無能な貴族たちへの追従を、今この瞬間を以て完全に断ち切ります。私はこの北嶺の地において、山脈の恵みと民の尊厳を守り抜くための組織――『北嶺開拓義勇軍』を結成いたします!」
堂々たる宣言が、雪解けの青空へと響き渡る。
それは、ただの地方警備隊ではない。
大自然の厳しさと恵みを理解し、民の命を最優先に守る、真に自立した誇り高き武装開拓民の誕生の狼煙だった。
エレナは剣の柄に額を押し当て、全身全霊を込めて言の葉を紡ぐ。
「バルツ殿。そして若き英雄たちよ。あなた方がこの先、世界のどこへ赴き、いかなる過酷な試練や巨大な悪意と対峙しようとも……このエレナ・フォン・シルフィードと北嶺開拓義勇軍の全兵力は、生涯をかけてあなた方の背後を守る『絶対の盾』となることを、神祖の御名にかけて誓約いたします!」
その言葉は、未来への強大な布石だった。
いずれ訪れるであろう世界の動乱、中央の腐敗貴族や利権ギルドとの全面衝突において、この北嶺の屈強な義勇軍が、バルツたちの背中を支える最も強固な後方補給路となり、不落の砦となることを約束する至高の契り。
「あなた方が過酷な戦いに傷つき、飢えた時には、この北嶺がいつでも帰るべき温かな故郷となりましょう。あなた方が前へ進むための物資と武具を、私たちが命を賭して運び届けましょう。……どうか、この誓いをお受け取りください。私の命も、私の剣も、私の魂のすべては……今日この日より、永久にあなた方のものです!」
静寂が、広場を包み込んだ。
ティオは拳を強く握り締め、胸を熱くしてエレナの誓いを受け止めていた。
シェリルは目元をハンカチで押さえ、ニーナも尻尾をピンと立てて真剣な眼差しで見つめている。
命懸けで駆け抜けた極寒の雪山。
その果てに結ばれた絆の尊さに、全員の心が震えていた。
そんな厳粛極まりない空気の中――。
「……はぁ〜〜〜〜」
場違いなほど長いため息を吐きながら、ずいっと前に進み出てきた男がいた。
ボロボロの毛皮外套を羽織り、腰に無骨な解体包丁を下げた中年狩人――バルツである。
バルツは頭をガシガシと掻き毟りながら、膝をつくエレナの前まで歩み寄ると、呆れたような、だがどこか困ったような苦笑いを浮かべた。
「ったく……朝っぱらから、何を大層なこと言ってやがるんだ、この馬鹿娘は」
「えっ……? ば、馬鹿娘……!?」
厳粛な誓いを立てていたエレナが、予想外の言葉に目を白黒と瞬かせた。
その無防備な頭頂部に――。
ぽんっ、と。
無骨で、分厚いタコに覆われた、だが信じられないほど温かいバルツの大きな掌が、無造作に乗せられた。
「ひゃっ……!?///」
エレナの口から、およそ近衛騎士らしからぬ可愛らしい悲鳴が漏れた。
バルツはその豊かな濡れ羽色の黒髪を、まるで出来の悪い愛弟子をからかうように、クシャクシャと豪快に撫で回す。
「お前が守ったんだよ、エレナ」
「……え……?」
「お前が寒さに震えながら、雪山を必死に越えて辺境のギルドまで救援を求めに来たからだ。お前がどんなに飢えて手足が凍りついても、決して村の連中を見捨てずに最後まで踏ん張ったから……だから全員、生き残れたんだよ」
バルツの低く穏やかな声が、エレナの耳朶を優しく包み込む。
「俺たちがやったことなんざ、ただの解体屋の飯炊きだ。『命の使い道』を繋いだのは、お前のその頑固なまでの意地と、領民を想う心だ。胸を張れよ、エレナ。お前は立派に、自分の足で村を守り抜いたんだからな」
「あ……、あぁ……っ」
頭上に伝わる、圧倒的な父親のような包容力と温もり。
誰にも弱音を吐けず、名門貴族の長女として、騎士団の小隊長として、常に完璧であることを強いられ、孤独に凍えていたエレナの心の氷壁が、音を立てて完全に崩壊していった。
バルツは悪戯っぽく口の端を吊り上げ、ポンと軽く肩を叩いた。
「命を捧げるだの、盾になるだの、堅苦しい真似は金輪際なしだ。そんなことより……腹が減ったら、いつでも美味いもん食いに辺境ギルドへ顔を出しに来い。春になれば、雪解け水で育った極上の山菜や、脂の乗った大山女魚の塩焼きが食える。お前、肉ばっかりじゃなくて野菜もちゃんと食わねえと、肌が荒れるぞ?」
「ふ、ふぇ……!? や、野菜……大山女魚……っ!?///」
「おう。次来た時は、山菜の天ぷらと川魚の骨酒で、たらふくもてなしてやるよ。だから、そんな湿気た面してないで、笑って見送りな」
バルツがニッと歯を見せて笑う。
その瞬間――エレナの白い陶器のような頬が、耳の先、首筋に至るまで、一瞬にしてリンゴのように真っ赤に沸騰した。
「ば、ばばば、バルツ殿……っ!! な、ななな、何を仰って……っ!? あ、頭を撫でるなど……そ、それに、また私を手料理でもてなしてくださるなどと……っ!!///」
さっきまでの凛々しい神聖不可侵の美少女騎士はどこへやら。
エレナは両手で真っ赤になった顔を覆い、腰を抜かしたように雪の上にペタリと座り込んで、湯気を吹き出しそうな勢いでジタバタと取り乱していた。
完全に、ただの初心でポンコツ可愛い恋する乙女である。
「ぷっ……あははははっ! エレナさん、お顔が真っ赤ですわ!」
「エレナちゃん、タコみたいに茹で上がってるニャ〜! 可愛いニャ!」
「へへっ、おっちゃんの飯テロと頭ポンポンのコンボを喰らって、耐えられる奴なんてこの世にいねえよな!」
ティオ、シェリル、ニーナの爆笑が広場に響き渡り、それを見た村人たちもドッと温かな笑い声を上げた。
大笑いする大人たちと、無邪気にはしゃぐ子供たち。
かつて絶望と凍餓に支配されていた寒村は、今や春の光と人々の笑顔で満ちあふれていた。
「うぅ……っ、わ、笑わないでくださいませティオ殿! シェリル殿も! ニーナ殿まで……っ! も、もう……バルツ殿はずるいです……あんなの、惚れてしまうに決まっていますでしょう……っ!!///」
蚊の鳴くような声で雪の中に顔を埋めながら、エレナは消え入りそうな声で呟いた。
その言葉は誰の耳にも届いていなかったが、彼女の胸の奥底には、決して消えることのない恋情と、至高の忠誠心が永遠に刻み込まれていたのだった。
こうして、白銀の霊峰を巡る過酷な試練は、最高の絆と希望の光を結実させて、大団円の朝を迎えた。
だが――物語は、ここで終わるはずもなかった。
閉ざされていた幹線道路の雪解けと共に、彼らの次なる旅路の扉が、今まさに音を立てて開かれようとしていたのである。




