第4章 岩種
王国歴1658年の刈入れの月、旅団の使節に同行して北方の開拓地を回ったとき、私は汎種の農家の村に泊まり、朝、霜の降りた堤の上で石を置いている老人を見た。堤は村と川のあいだに灰色の帯のように伸びていて、その端に、背丈は私の胸ほどしかないのに肩と腕の太さは私の倍ほどある人が、両腕で抱えた石を一度だけ持ち直して、音も立てずに置いた。話しかけると老人は手を止めずに、明日来い、と言い、明日行くと、堤の脇に石を一つ置いて、座れ、と言ったので、私の岩種についての書き付けはその石の上から始まっていて、石は尻の下で、霜の朝でも冷たくなかった。老人の名はハウグといい、山から下りてこの開拓地に居着いた家のいちばん年上の人で、堤の上で石を置く人たちは、老人が何も言わなくても、老人の手の向きを見て次の石を選んでいた。
ハドルという呼び名は古い言葉で硬いという意味だと聞いていて、町の人と商人と学院がこの名を使うのだが、岩種の人は自分の名としては使わず、私が訪ねた岩種の村ではどこでも、自分たちを山の者と言った。山から下りて開拓地の脇に住んでいる人たちも山の者と名乗り、住んでいる場所ではなく、出てきた場所の名を名乗るのだとハウグは言った。ハドルと呼ばれることを岩種の人は嫌がらないが、呼ばれても振り向かない。開拓地の汎種の長が堤のそばでハドルと呼んだとき、石を積んでいた人たちは誰も顔を上げず、長が山の者と言い直すと一人が手を止めたのであって、呼び名を拒んでいるのではなく、その名が自分に向けられたものだと思っていないように私には見えた。町ではハドルが通じ、山では山の者が通じて、二つの名はそれぞれの場所で別々に使われているので、ぶつかることが少ない。岩と書くのは私の当てた字で、学院の古い書き物に岩の民という言い方があり、それを採った。山の者をそのまま山種と書くことも考えたが、山は住む場所であって体の性質ではなく、岩の字を嫌うかどうかをハウグに聞くと、老人は少し考えて、岩は動かない、われわれは動く、と言い、それから、字は書く者が決めればよい、と付け足した。私はこれを許しと受け取ったが、老人がそのつもりで言ったかどうかは分からない。
ハウグの腕を、私は堤の脇の石に座って写生したのだが、肘から手首までが私の腿ほどの太さで、指は短く、爪は平たくて厚く、腕の皮膚には堤の石で擦った傷の跡が白い筋になって幾つも残っていて、その筋のあいだの肌は灰色がかった褐色をしている。触らせてもらうと、日に当たった石のように乾いていて温かく、押しても指が沈まない。町の人はこれを岩の肌と言うが岩ではなく、刃は通るし擦れば傷になるのであって、老人の腕の白い筋がそれを示している。肌の色はその土地の石の色に似ると村の人は言い、私が訪ねた岩種の村は二つでどちらも灰色の石の山にあったので、この言い方が正しいかどうかは確かめられなかった。背丈は諸書に汎種の半ばとあるが、北方の開拓地で見た限りではそれより幾らか高い人も珍しくなく、ただし私が見たのは石を積む仕事に就く人に限られるので、その分は割り引いて読んでほしい。肩と腕が太く、同じ背丈の汎種の子どもと並ぶと横幅で倍ほどあり、歩くと上体が揺れず、腰から下だけが動いているように見える。
寒さには強く、北方の開拓地で汎種の農家が毛皮を重ねる冬に、岩種の人は麻の上着一枚で堤に出ていた。寒くないのかと聞くと、寒い、と答えたので、寒いが動けなくなるほどではない、ということらしい。暑さには弱いと聞くが、私は岩種の人が暑い土地にいるのを見ていない。水はあまり飲まず、一日に汎種の半分ほどで足りる。
子は母の胎から一人ずつ生まれて数が少なく、一つの家に二人いれば多いほうで、育ちは遅く、北方の村では二十で一人前とし、王国の慣わしより五年遅い。寿命は村に帳面がないので老人たちの数え方に頼るしかなく、ハウグは自分が積み始めた堤の段を数えて年を言った。一年に一段積むので段の数が積み始めてからの年になり、老人の段は七十あって、積み始めたのは子どものころだというから百に近い年になる。ほかの老人の言う年も合わせると、八十から百のあいだにあると見てよいと思う。食べるものは汎種と変わらず、麦を食べ、干した肉を食べ、岩種が石を食べるという話を町で聞くが、私はそれを見たことがなく、村の人に聞くと笑われた。魔力については学院の講義で岩種の数字を聞いた覚えがなく、開拓地の岩種の村に術を使う人はいなかった。
岩種は山と荒野と開拓地に住み、山の村は岩種だけの村で、私は二つ訪ねた。一つはヴェイン寄りの山にあり、もう一つは、旅団の使節が黙坐の民の斜面を訪ねているあいだに私が下っていった、斜面から半日の谷にあって、どちらも二十戸から四十戸の村で、それより大きな岩種の村を私は知らない。開拓地では汎種の村の脇に岩種の家が並び、北方の開拓地では汎種が百二十人の村に岩種の家が二十戸あって、堤を積むために山から下りてきた家がそのまま居着いたのだという。町に下りた岩種の人がどこに住むかを私は聞いた話でしか知らず、ヴェレンの石切り場に岩種の職人がいると聞いたが、石切り場は町の外にあって私は行っていない。ミルヴァにもダレにも岩種の人が住んでいるのを見なかったので、町の近くにはいても町の中にはいないようで、町の中に岩種の家がある例を、私は一つも知らない。数の見積もりを書いておくと、山の村は岩種だけで数十人、開拓地では汎種の五人に一人ほどの土地からまったくいない土地まであって、どの開拓地に岩種がいるかは、その開拓地に堤や蔵が要るかどうかで決まっているように見えた。石が要る土地に岩種はいて、石の要らない土地には、岩種の来る理由がない。
岩種の村の暮らしは石を積むことでできていて、山の村では家を積み、開拓地では堤と蔵を積むのだが、北方の開拓地では、その一年がそのまま堤の仕事で区切られていた。春の水が引くと堤のどこが削られたかを老人たちが歩いて見て回り、夏のあいだに山から石を下ろして堤の脇に積み上げ、刈入れのころから白霜の月まで、その石を一段分、堤の上に並べていく。冬は石が凍って割れるので積まず、家の中で道具を直し、春の水を待つ。私が初めてハウグに会った刈入れの月はちょうど一段目を置き始める季節で、堤の脇には夏のうちに下ろした石が大きさの順に並べて置いてあり、朝は霜で白く、昼には日を吸って、手を当てると温かかった。石を置く音は、置くときにはほとんどせず、石と石が合うかどうかを老人が小さく揺らして確かめるときに、こつり、と一度だけ鳴る。開拓地の岩種は汎種の農家から麦を受け取り、代わりに堤を積んで蔵を建て、取引は家と家とのあいだで代々続いていて、値は四十年変わっていない。
石の積み方は村の中で継がれ、子どもは七つで石を運び始め、二十で並べることを許され、積むことを任されるのはそのあとである。図面はなく、老人が置いた石の脇に若い人が次の石を置き、老人がそれを見て、黙っているか、外すかする。外された石はその日のうちに別の場所に置かれ、同じ石を二度外された人を私は見なかった。私が堤の脇に座っていた幾日かのあいだ、ハウグは十に満たない数の石を外し、外すときは何も言わず、片手で石を持ち上げて、若い人の足元に置き直した。家の造りも石で、山の村の家は斜面に半ば埋まっていて戸口は低く、私は腰を折って入った。窓は風の来ない側に一つだけあり、中は暗く、暖かく、乾いていて、壁の石の継ぎ目に指を入れても紙一枚入らない。開拓地の岩種の家も同じ造りで、汎種の家の脇に、丈の低い石の家が並んでいる。
ヴェイン寄りの山の村で私は一夜を過ごしたのだが、戸口を入ると目が慣れるまで何も見えず、見えてくると、壁ぎわの石の台に乾いた草が敷いてあって、そこが寝床で、炉の火は低く、煙は天井の石のあいだを伝ってどこかへ抜けていた。村の人は夕方に一度だけ食べ、麦の粥と干した肉を、汎種の半分ほどの量で済ませ、食べたあとは火のそばで道具の柄を削り、話はほとんどせず、話すときは一人が言い終わるまで誰も口を挟まなかった。朝は日の出より先に起きて、村の上の斜面に行き、その日に切り出す石を見て回る。私はその歩みについていけず、村の人は私を待たなかったが、戻ってくると、私の寝床の脇に水の椀が置いてあった。
黙坐の民との関係についても書いておきたい。町では岩種は黙坐の民の親類だと言われていて、学院にもそう言う人がいるのだが、私は旅団の使節が黙坐の民の斜面にいたあいだ、谷を下った岩種の村にいて、そこで見たことはその言い方と合わない。村の人は斜面の方々を、座した方、と呼び、年に一度、石を一つ神殿に持っていくが、麓の汎種の鉱夫も同じことをする。岩種の人は麦を食べ、家を建て、歩き、汎種と同じ速さで話すのであって、座した方を親類だと言う村の人は一人もおらず、村の老人は、あれは神の傍らの方だ、われわれは石を積むだけだ、と言った。葬りは石で行い、遺体を村の外の斜面に置いて上に石を積み、積み終わると塚になって、村の外には塚が並ぶ。教会は村になく、開拓地の岩種も教会には行かず、祈るときは堤の上に石を一つ置く。誰に祈るのかと聞くと、石を握った方に、とハウグは答え、それ以上は言わず、置いた石のほうも見なかった。
岩種は頑固だ、という言い方があって、開拓地の汎種の長からもヴェレンの商人からも聞いたのだが、この言い方には当たっているところと外れているところがある。外れているところから書くと、北方の開拓地で私はハウグに堤の高さをどう決めるのかと聞いたが、老人は答えず、石を積み続けた。私はそれを拒まれたのだと思ってその日は引き下がり、次の日に堤へ行くと、老人は私を見て、水の高さの倍だ、と言った。一日かけて答えを用意していたのであって、岩種の人は聞かれてすぐに答えないが、答えないことと答える気がないこととは別のことである。当たっているところも書くと、一度決めたことを岩種の人は変えず、開拓地の麦の値が四十年変わっていないのはそのためで、汎種の長は幾度か値を下げようとして、そのたびに岩種の側は答えを持ち帰り、次の年に同じ値を言った。長はこれを頑固と呼んだのだが、四十年変わらない値で堤と蔵を手に入れてきたのは、長の村のほうである。
岩種の人と話すには時間がいる、と、頑固という言い方を私は書き直す。問いを置いて翌日に戻れば答えはあり、答えが気に入らないからといって翌日また問えば同じ答えが返るのであって、翌日に戻る人は、頑固という言い方をあまりしない。もう一つ、岩種は寒さを感じないという言い方があるが、感じているが言わないだけで、汎種の農家が寒いと口にするのと同じ数だけ岩種の人が寒いと口にしていれば、この言い方は生まれなかったと思う。
王国歴1664年の春に一人で開拓地を通ったとき、ハウグはまだ堤にいて、段は六年分増えていた。私が書き付けを見せると、老人は字が読めないので絵のところだけを見て、堤の絵のところで、ここは違う、と言い、聞くと石の重ね方が違うのだという。下の段の継ぎ目の真上に次の段の石を置いてはならず、継ぎ目を石の腹で押さえるように半分ずらして置くのであって、私の絵は継ぎ目が縦に揃っていた。私はその場で描き直し、老人は黙っていて、黙っているのは、外さないということである。
最後に会ったのは1667年の春で、老人は水の引いたばかりの堤を端から歩いて、冬に凍って割れた石を一つずつ手で揺すって確かめているところだった。冬のあいだに汎種の農家の蔵が一つ崩れたと聞いたのでそのことを話すと、老人は、あれは私が積んだのではない、と言い、それから、来年は私が積む、と言った。老人が亡くなったのはその年の冬で、私は1669年に、開拓地の長からの便りでそれを知った。便りには老人の年も、葬りのことも書いてなく、堤は春の水で崩れなかった、とだけあった。




