第5章:生贄の部屋
天井から降り注ぐ赤黒い血の雨が、美羽の髪や服を無残に汚していく。
生温かく、鉄錆とヘドロが混ざったような強烈な悪臭が鼻腔を塞ぎ、呼吸をすることすら困難だった。
『……わたしの……こどもを……かえして……』
ズルッ、ズルッ。
三つの目を爛々と輝かせた狂気の母親が、フローリングに広がる血の沼を這い、じりじりと距離を詰めてくる。右手首に突き刺さった裁ちばさみの刃先が、床を削りながら甲高い金属音を立てていた。
「来ないでっ! この子は私の娘よ、あなたなんかに絶対に渡さない!」
美羽は絶叫し、高熱でうなされる華の上に覆い被さるようにして身を挺した。
女の体が、美羽の目の前まで迫る。死臭が直接顔に吹き付けられた。
女がゆっくりと、あの白く浮腫んだ左腕を振り上げる。指先からはドロドロとした黒い泥が滴り落ちていた。それが華に触れれば、娘の命は間違いなくあの世へ引きずり込まれる。
(……殺される!)
美羽が固く目を閉じた、その瞬間だった。
「うおおおおおっ!!」
背後から獣のような雄叫びが上がり、裕人が飛び出してきた。
彼は壁に激突して砕け散ったダイニングチェアの残骸——鋭く尖った木製の脚を両手で固く握りしめ、這いずる女の顔面に向かって、全体重を乗せて突き立てた。
「美羽から離れろ、化け物ォォッ!!」
グチャッ!!
物理的な攻撃はすり抜けるはずだった。しかし、極限の恐怖と家族を守るという狂気にも似た意志が込められたその一撃は、女の顔の真ん中——縦に並んだ三つの眼球の中央に、確かな手応えをもって深々と突き刺さった。
『ギィィィィィィッ!!』
耳をつんざくような、この世のものとは思えない絶叫が部屋中に響き渡った。
女は顔に木の杭を突き立てられたまま、巨大なムカデのように体を大きく反らせ、苦悶に身をよじった。
「裕人!」
「美羽、立て! ここから逃げるんだ!」
裕人は美羽の腕を掴み、力任せに引き起こした。彼のワイシャツは破れ、背中の黒い手形からは未だに冷気が立ち昇っているはずなのに、その顔には先ほどの怯えきった姿は微塵もなかった。現実主義という鎧を捨て去り、ただ愛する妻と娘の命を守るためだけの、父親の顔だった。
「逃げるって、どこへ!? 玄関も窓も……」
「どこでもいい、とにかくこいつから離れるんだ! 華を抱えろ!」
美羽は弾かれたように華を抱き上げた。華の体は火の玉のように熱く、呼吸は浅く早い。一刻の猶予もなかった。
狂乱して床をのたうち回る女の横をすり抜け、二人は廊下へと飛び出した。
しかし、玄関のドアは相変わらず溶接されたように固く閉ざされている。外の景色を失った窓からは逃げられない。完全な密室だ。
(どうすれば……どうすればこの呪いを終わらせられるの!?)
美羽の脳裏で、図書館で調べたあの記事の言葉が猛烈な勢いでフラッシュバックした。
『あのマンションの401号室は、昔の間宮家の「離れ」があった位置に建てられている』
『彼女は裁ちばさみで自らの腹を切り裂き、死んだ』
『奇形の子供……。彼女は、まだ自分の「子供」を探している——』
狂った母親の霊は、自分から奪われた「子供」を探して彷徨っている。
ならば、その「子供」はどこに消えたのか?
事件が起きた当時、離れに幽閉されていた彼女が腹を裂いて死んだ後、その悍ましい「奇形の赤ん坊」は、誰が、どう処理したというのか。
美羽の視線が、廊下の奥——ぽっかりと口を開けている【北側の洋室】に向いた。
この部屋の中で、華は「ここ、寒いね」と言った。
この部屋のクローゼットの前で、華は空虚な壁に向かって赤いクレヨンで無数の目を描き、「お友達がお手伝いしてって言ったの」と笑った。
すべての怪異は、あの部屋から漏れ出していた。
(……あの部屋だわ。あの部屋のどこかに、呪いの『核』がある!)
「裕人! 北側の洋室よ!」
美羽は叫んだ。
「はあ!? バカ言うな、あそこは一番ヤバい場所じゃないか!」
「違うの、あいつは『自分の子供』を探してる! 401号室は、昔あいつが閉じ込められていた離れの跡地に建ってるのよ。多分、あの部屋のどこかに、あいつの『子供』……呪いの元凶が隠されているんだわ! それをどうにかしない限り、私たちは絶対にここから出られない!」
美羽の狂気じみた、しかし確信に満ちた叫びに、裕人は一瞬だけ目を見開いた。そして、廊下の奥から再び聞こえ始めた、あの執拗な這いずる音に顔を向けた。
『……ゆるさない……ゆるさない……』
顔に杭が刺さったまま、ドス黒い血を撒き散らしながら、女がリビングから廊下へと這い出してこようとしていた。
「……クソッ、やるしかないのか!」
裕人は覚悟を決め、廊下の物入れを開け放たれた。引っ越しの時に使った工具箱を引っ張り出し、中から鉄製の重いバールを掴み出す。
「美羽、俺から離れるなよ!」
バールを構えた裕人を先頭に、美羽は華を抱き抱えたまま、北側の洋室へと飛び込んだ。
部屋に入った瞬間、冷凍庫の底に突き落としたような、殺人的な冷気が二人を襲った。
吐く息が瞬時に白く凍り、まつ毛に霜が降りるほどの異常な低温。
部屋の中は真昼のように明るいはずなのに、なぜか光が届かないような、濃密な暗闇に包まれている錯覚に陥った。
「どこだ、美羽! どこを探せばいい!」
裕人が震える声で叫ぶ。
美羽は部屋の中を見渡した。
壁には、華が描いたあの無数の赤いクレヨンの線が、まるで生き物の血管のようにドクドクと脈打っているように見えた。
その線は、壁一面を覆い尽くし、やがて床の一点——クローゼットの前のフローリングへと集中するように伸びていた。
「あそこよ! クローゼットの前の床!」
美羽が指差す。
「床下か……退いてろ!」
裕人はバールを高く振り上げ、真新しいオーク調のフローリングに向かって、力任せに振り下ろした。
ガンッ!!
凄まじい音が響き、木片が飛び散る。
リノベーションされたばかりの美しい床が、無残にひび割れた。裕人は何度も何度も、狂ったようにバールを振り下ろした。
「開け、開けろっ、この野郎ッ!!」
バキッ、メシャッ!
数回目の打撃で、分厚いフローリング材と下地のベニヤ板が大きく陥没した。
その瞬間、裕人の手がピタリと止まった。
下地の下には、通常あるべきコンクリートのスラブ(床板)が存在しなかったのだ。
そこには、ぽっかりと黒い「空洞」が口を開けていた。
ゴワァァァァァッ!!
床に開いた穴から、これまでとは比べ物にならないほどの、濃縮された凄まじい腐臭と、ヘドロのような泥水が噴き出してきた。
「うわっ!」
裕人が思わず後ずさる。
空洞の中は、暗く、ジメジメとしていた。それはマンションの構造上あり得ない、古い土と木材で囲まれた、昔の日本家屋の「床下」のような空間だった。
四十年前の離れが解体された後も、この空間だけが土の中に蓋をされるようにして、そのままマンションの床下に閉じ込められていたのだ。
「裕人、見て……あれ……!」
美羽は震える指で、穴の奥を指差した。
暗闇の底、泥とカビにまみれた土の上に、古びた木箱が置かれていた。
箱の表面には、赤黒く変色した古いお札が何重にも、それこそ何十枚も隙間なく貼り付けられ、太い注連縄でぐるぐるに縛り上げられている。
その木箱自体から、ドクン、ドクンと、まるで巨大な心臓の鼓動のような低い音が鳴り響いていた。
『……あ……あぁぁぁ……!』
廊下から、悲痛な女の絶叫が聞こえた。
女の這いずる速度が、異常な速さに変わった。ズザザザザッ!と床を滑るようにして、女の姿が洋室の入り口に現れる。
その三つの目は、床下の木箱を見て、狂喜と底知れぬ憎悪に燃え上がっていた。
「これが……あれの子供……!」
美羽は背筋が凍りつくのを感じた。
呪いの元凶。
四十年間、このマンションの床下で怨念を増幅させ続け、次々と住人を狂わせてきた「生贄の部屋」の中心が、今、完全に暴かれたのだ。
『……わたしの……わたしの、あかちゃんッ!!』
顔面に木の杭を突き立てられたままの狂気の母親が、凄まじい速度で廊下を滑り、北側の洋室へと雪崩れ込んできた。
ゴキブリや巨大な蜘蛛を思わせる、人間には到底不可能な関節の動きだった。ドス黒い血と泥をまき散らしながら、一直線に床下の穴——古びた木箱へと殺到してくる。
「裕人、早く! それを壊して!!」
美羽の悲鳴に近い叫び声が響く。
裕人は穴の縁に立ち、太い注連縄で封印された呪わしい木箱に向かって、鉄のバールを高く振り上げた。
「このっ……化け物がぁっ!」
ガンッ!!
渾身の力で振り下ろされたバールの先端が、何重にも貼られたお札を引き裂き、木箱の蓋に激突した。
しかし、箱は割れなかった。まるで鉄の塊を叩いたかのように、火花と鈍い反発音が裕人の両腕を痺れさせる。
同時に、箱に貼られていたお札の破れ目から、ブクブクと赤黒い血のようなものが泡立って溢れ出し、バールを伝って裕人の手に絡みつこうとした。
「おっ!?」
裕人が反射的にバールを引き抜こうとしたが、箱そのものがまるで生き物のようにバールの先端を「噛んで」離さない。
『……さわるな……わたしのこに……さわるなぁぁぁッ!!』
背後から、女の絶叫が迫る。
振り返る間もなかった。女の長く白い腕が鞭のようにしなり、裕人の足を薙ぎ払った。
「ぐあっ!」
裕人は体勢を崩し、床に激しく叩きつけられた。
女は裕人を踏み越え、穴中の木箱に向かって、そのおぞましい体をダイブさせようとする。
「させないっ!!」
美羽が動いた。
気を失っている華を部屋の隅に寝かせると、近くに落ちていた砕けたフローリングの木片を拾い上げ、女の背中に向かって力任せに突き刺した。
しかし、木片は硬いゴムに弾かれたように弾け飛び、女の動きを止めることはできない。
女が床下の穴に覆い被さり、木箱にその青白い手を伸ばした瞬間。
ドクンッ……!!
部屋全体が、いや、空間そのものが大きく脈打った。
木箱を縛っていた太い注連縄が、内側からの異常な圧力に耐えかねたように、ブチブチと音を立ててちぎれ飛んだ。
そして、箱の蓋が、内側から爆発するように吹き飛んだのだ。
「……っ!」
美羽と裕人は、その光景に息を呑み、完全に硬直した。
箱の中から現れたのは、白骨死体などではなかった。
それは、黒い髪の毛と、ドロドロの肉片、そして無数の「目玉」と「歯」が、無秩序に融合してできた、ソフトボールほどの大きさの『肉の塊』だった。
四十年前、この女が自らの腹を割いて引きずり出したという奇形の赤ん坊。それが、数十年の時を経て、純粋な怨念と呪いだけを吸い上げ、悍ましい呪物として成長しきった姿だった。
ギチ……ギチギチギチッ……。
肉の塊が、不快な音を立てて蠢き始めた。
塊から、黒いヘドロのような触手が何本も飛び出し、周囲の空気を探るようにうねる。その先端には、小さな人間の手のひらのようなものがついていた。
『……あぁ……わたしの、かわいい……』
女は顔に刺さった杭の痛みも忘れたかのように、愛おしげにその肉の塊に頬擦りしようとした。
だが、呪物と化した「それ」には、もはや母親への愛情など微塵も残っていなかった。ただ、生者の魂を喰らうだけのバケモノだった。
ビュッ!!
肉の塊から伸びた黒い触手の一本が、母親であるはずの女の顔面を容赦無く弾き飛ばし、そのまま部屋の隅で倒れている華へと一直線に伸びたのだ。
「華ッ!!」
美羽は思考を介さず、体が勝手に動いていた。
床を蹴り、華の小さな体の上に覆い被さるようにして、自分の背中を盾にする。
ドスゥッ!!
「あ……がっ……!」
背中に、焼け火箸を突き立てられたような激痛が走った。
黒い触手の先端が、美羽の背中の肉を抉り、ギリギリと骨を軋ませている。触手から放たれる絶対零度の冷気が、傷口から血管を通って全身に回っていく。
意識が遠のき、口から赤い血がこぼれ落ちた。
「美羽!!」
倒れていた裕人が、血を吐く妻の姿を見て絶叫した。
「……こ、わして……裕人……華を……」
美羽は薄れゆく意識の中で、華を抱きしめながら必死に叫んだ。
背中の激痛が、今にも彼女の命の灯火を吹き消そうとしている。それでも、美羽は絶対に華を離さなかった。
裕人の目から、恐怖が完全に消え去った。
残ったのは、家族を奪おうとする理不尽な悪意に対する、煮えたぎるような激しい怒りだけだった。
「おおおおおおおっ!!」
裕人は立ち上がり、木箱に突き刺さったままになっていた鉄のバールを、両手で渾身の力を込めて引き抜いた。
バリバリバリッ!という音とともに、バールが箱の底板ごと剥がれる。
裕人はそのままバールを高く掲げ、穴の中で蠢き、美羽の背中に触手を突き立てている「肉の塊」の中心——無数の眼球が密集している最も悍ましい部分に向かって、全体重を乗せて飛び降りた。
「消え失せろォォォッ!!」
グチャァッ!!!!
鉄のバールの鋭い先端が、呪物の中心を正確に貫いた。
眼球が潰れ、黒い泥のような血が爆発的に飛び散る。裕人はさらに力を込め、バールを床下の土の底まで深く深く突き刺し、肉の塊を完全に粉砕した。
『ギギャァァァァァァァァッ!!』
『アァァァァァァァァァァッ!!』
肉の塊と、それを見ていた狂気の女の口から、同時に、鼓膜が破れるほどの凄まじい断末魔の絶叫が上がった。
部屋中の空気がビリビリと震え、窓ガラスに細かいヒビが入る。
美羽の背中に突き刺さっていた黒い触手が、ボロボロと崩れ落ち、灰のように消滅した。
床下に釘付けにされた肉の塊は、断末魔の叫びとともに急速に干からび、プスプスと黒い煙を上げて炭のように黒焦げになっていく。
『……あ……あぁ……』
女は崩れゆく肉の塊に手を伸ばそうとした。
しかし、呪いの核を破壊された彼女の体もまた、足元からボロボロと砂のように崩れ始めていた。
女は最後に、三つの目で裕人と美羽を虚ろに見つめ——そのまま、どす黒い泥の雨となって床に溶け落ち、完全に消滅した。
——静寂。
耳鳴りだけが残る空間で、裕人は肩で大きく息をしながらバールから手を離した。
穴の中にあった肉の塊は、もはやただの黒い炭の粉に変わり果て、完全に沈黙していた。
部屋を満たしていた、あの息もできないほどの悪臭が、嘘のように消え去っている。
冷凍庫のようだった空気は急速に温かみを取り戻し、美羽の白い呼気も見えなくなっていた。
なにかを確かめるように、裕人はゆっくりと振り返った。
「……裕……人……」
「美羽! 美羽、しっかりしろ!」
裕人は慌てて穴から這い上がり、美羽の元へ駆け寄った。
美羽の背中の服は大きく破れていたが、不思議なことに、先ほどまで確実に肉を抉っていたはずの傷口は消え失せ、赤い血の跡すら残っていなかった。ただ、打撲のような鈍い痛みだけが残っている。
霊的な攻撃は、呪いの消滅とともにその物理的な痕跡を消し去ったのだ。
「華は!?」
美羽が弾かれたように身を起こし、腕の中の華を確認する。
「……ん……お母さん……?」
華が、ゆっくりと目を開けた。
先ほどまでの異常な高熱は下がり、焦点の合っていなかった瞳には、いつもの天真爛漫な光が戻っていた。
「華……っ! よかった、よかったぁ……!」
美羽は華をきつく抱きしめ、ついに声を上げて泣き崩れた。
裕人もまた、妻と娘を両腕で包み込み、男泣きに泣いた。
パチン、という音がして、部屋の照明が点灯した。
見上げれば、天井や壁から降り注いでいた赤黒い血の雨は完全に消え去り、元の純白のクロスと、真新しいオーク調のフローリングが戻っていた。(裕人が破壊したクローゼットの前の床下以外は)
そして——。
カチャッ。
ギィィ……。
廊下の奥、玄関の方から、重い金属の音が響いた。
これまでいくら力を込めても微動だにしなかった鋼鉄のドアが、自然に、ゆっくりと外側に向かって開いていく音だった。
ドアの隙間から、眩しいほどの西日がリビングの床に細長く差し込んでくる。
風が吹き込んだ。
ヘドロの匂いではない。車の排気ガスと、アスファルトの熱気、そして初夏の若葉の匂いが混じった、現世の、日常の風だった。
「……終わったんだ。俺たち、助かったんだ……」
裕人の震える声に、美羽は涙で顔を濡らしながら深く頷いた。
異界と化していた401号室の境界線は、今、完全に消滅した。彼らはようやく、この生贄の部屋から脱出する権利を手に入れたのだ。
開け放たれたドアから、逃げるようにして外の共有廊下へ転がり出た。
西日が眩しく目を焼き、生温かい初夏の風が頬を撫でる。
下界からは、けたたましい警察のサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。駐輪場で無残な死を遂げた管理人の遺体が、誰かに発見されたのだろう。
裕人に抱きかかえられた華と、背中を庇うようにして歩く美羽。
三人は、一度も振り返ることなくマンションの階段を駆け下りた。401号室の開いたドアの奥——粉々に砕け散ったフローリングの暗がりを、二度と見ることはなかった。
それが、天野家が夢のマイホームで過ごした、最初で最後の数日間の結末だった。




