第4章:境界線の崩壊
ドアを叩き割らんばかりの凄まじい衝撃音と、華の口から吐き出される呪詛の声。
永遠にも感じられたその地獄のような時間は、東の空が白み始めた頃、唐突に終わりを告げた。
ピタ、と。
本当に、スイッチを切ったかのように全ての音が消えたのだ。
同時に、狂ったように暴れていた華の体がふっと弛緩し、糸が切れた操り人形のように床に崩れ落ちて深い眠りに落ちた。
美羽はドアに背中を預けたまま、虚脱状態でずるずると床にへたり込んだ。
朝日がリビングの窓から差し込んできても、部屋の中に充満したヘドロの匂いと、冷蔵庫の中にいるような異常な冷気は全く消えていない。
美羽は気を失った華をきつく抱きしめたまま、ただ震えることしかできず、一歩も動くことができなかった。
昼過ぎ。
玄関の外で、慌ただしい足音が響いた。
ビクッと肩を震わせた美羽だったが、次に聞こえてきた声に、せき止めていた涙が一気に溢れ出した。
「美羽! 美羽、いるか!? 開けてくれ!」
裕人の声だった。
美羽は弾かれたように立ち上がり、震える指でチェーンと鍵を開けた。
ドアを乱暴に押し開けて飛び込んできた裕人は、ネクタイも締めず、ワイシャツの第一ボタンを引きちぎるように開けて、汗だくになっていた。
「裕人……っ!」
「美羽! 無事か!? 電話が急に変な音で切れた後、何度かけても全く繋がらなくて……嫌な予感がして、出張を切り上げて新幹線に飛び乗ってきたんだ。下には警察の規制線が張られてるし、一体何が……」
裕人の言葉は、そこへ途切れた。
彼の視界に、部屋の惨状が飛び込んできたからだ。
倒れた写真立て、乱れたカーテン。そして何より、美羽の頬についた痛々しい引っ掻き傷と、足元で死んだように眠る華の異常な姿。
「……おい、なんだよこれ。部屋、どうしたんだ。それに、なんだこの匂い……寒すぎるだろ」
初めてだった。
鈍感な現実主義者である裕人が、この部屋の「異常な空気」を肌で感じ取ったのは。
「裕人……管理人さんが、殺されたの。あの部屋にいる『何か』に。昨日の夜は、あれがドアの外まで来て、ハサミで狂ったようにドアを……華も、乗っ取られそうになって……っ」
美羽は裕人の胸にすがりつき、嗚咽を漏らしながら訴えた。
いつもなら「落ち着け、幻覚だ」と一蹴していたはずの裕人だが、今回ばかりは違った。下の駐輪場でブルーシートに覆われていた血溜まりを、彼は実際に見てきたのだ。さらに、この部屋に充満する、物理的にあり得ないほどの冷気と悪臭。
彼の論理的な脳みそが、ついに「現実の崩壊」を認めざるを得なくなっていた。
「……わかった」
裕人は美羽の背中を強く抱きしめ、声を震わせながら言った。
「俺が間違ってた。お前の言う通りだ、ここは普通じゃない。荷物なんかどうでもいい、財布と最低限の着替えだけ持って、今すぐここを出るぞ。まずはホテルに避難して、それから実家に行こう」
その言葉を聞いて、美羽はようやく絶望の底からすくい上げられたような気がした。
理解してくれた。信じてくれたのだ。
「うん、うん……っ。すぐ準備する」
「俺は華を抱 KAE ていく。……ちょっと、顔だけ洗わせてくれ。汗と……なんだか嫌な冷や汗が止まらなくて」
裕人はそう言うと、ジャケットを脱ぎ捨てて洗面所へと向かった。
美羽は急いで寝室に向かい、ベッドの下からボストンバッグを引きずり出した。もう、この呪われたマンションから逃げられる。そう思うと、震えていた手にも少しだけ力が戻ってきた。
一方、洗面所に入った裕人は、蛇口をひねり、勢いよく水を出しながら鏡を見つめていた。
(信じられない。幽霊だの呪いだの、そんな非科学的なものが……)
頭の中ではまだ完全には処理しきれていなかった。だが、あの異常な悪臭と冷気は、確かに存在している。今はとにかく、美羽と華を安全な場所へ移すことが先決だ。
バシャバシャと冷たい水で顔を洗い、タオルに顔を埋めた。
その時だった。
背後の浴室——すりガラスの扉の向こう側から、奇妙な音が聞こえた。
——ゴボッ、ゴボボボッ。
浴槽の排水溝から、水が逆流してくるような音。
「……なんだ?」
裕人はタオルを首にかけ、浴室の扉を開けた。
途端に、あのヘドロのような悪臭が爆発的に膨れ上がり、裕人の鼻腔を激しく殴りつけた。
「うっ……!」
思わず鼻を覆った裕人の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
空だったはずの白いバスタブの排水溝から、真っ黒な汚泥のような水が噴き出している。それは瞬く間にバスタブを満たし、ドロドロと洗い場の床へ溢れ出してきた。
「おいおい、配管の破裂か……?」
まだそれを物理的な事故だと思おうとした裕人が、バスタブに近づこうと一歩足を踏み出した瞬間。
黒い泥水の中から、ズバァッ!と「白いもの」が無数に飛び出してきた。
それは、水死体のように青白く浮腫んだ『人間の手』だった。
何もの腕が泥水の中から蛇のように伸び、逃げる間もなく裕人の右足首と、ワイシャツ越しの背中をガシッと掴んだ。
「なっ……!?」
氷のように冷たい、しかし強烈な握力。
『……どこへいくの?』
耳元で、女の掠れた声が囁いた。
全身の毛穴が開き、裕人の心臓が恐怖で凍りつく。
引っ張られる。バスタブの底なしの暗闇の中へ。
「う、うわあああああっ!!」
裕人は絶叫し、洗面所のドア枠に必死に爪を立てた。
しかし、背中と足を掴む手の力は凄まじい、ズルズルと浴室の中へ引きずり込まれていく。
足元に溢れた黒い水が、生き物のように裕人の体にまとわりついてくる。
「裕人!?」
悲鳴を聞きつけた美羽が、洗面所に飛び込んできた。
彼女が見たのは、浴室の暗がりから伸びる無数の白い腕に絡みつかれ、虚空に引きずり込まれそうになっている夫の姿だった。
「離して!!」
美羽は無我夢中で裕人の両腕を掴み、全体重をかけて引っ張った。
『……わたしの……わたしの……』
バスタブの泥水の中から、ズブズブと、あの「三つの目」を持つ女の顔が浮かび上がってきた。縦に並んだ眼球が、憎悪を込めて裕人を睨みつけていた。
「来るなっ!! 放せ、化け物!!」
裕人が火事場の馬鹿力で洗面台の縁を蹴り上げ、美羽が力一杯引っ張った瞬間。
ビリッ、とワイシャツが破れる音とともに、背中を掴んでいた白い手が外れた。
二人は勢いよく廊下の床に転がり出た。
バタンッ!!
美羽が反射的に浴室のドアを蹴って閉める。
内側から、バンバンバンッ!と濡れた手でガラスを叩く音が響いたが、やがてそれもスッと消え、後には静寂だけが残った。
「はあ……はあ、はあ……っ」
床に仰向けに倒れたまま、裕人は過呼吸のように喘いでいた。
その目は極度の恐怖で見開け、全身がガタガタと痙攣するように震えている。
「裕人……大丈夫!? ねえ!」
美羽が駆け寄り、破れたワイシャツの背中を見て、息を呑んだ。
裕人の背中と右足首には、まるで熱した鉄を押し当てられたかのように、くっきりと「どす黒い手形」が焼き付いていた。触れると、そこだけがドライアイスのように異常に冷たい。
「……あ、あ、あああ……」
論理と現実を信じていた男の精神が、完全にへし折られた音だった。
裕人はガチガチと歯を鳴らしながら、後ずさるようにして美羽の背後に隠れた。
「逃げよう、美羽……あんなの、人間じゃない……死ぬ、殺されるっ……!」
這うようにしてリビングに戻り、気を失っている華を抱き上げようとした裕人。
だが、彼が玄関のドアノブに手をかけ、力を込めた瞬間。
ガチャガチャガチャッ!!
鍵は開いているはずなのに、ドアノブは完全に固定されたようにピクリとも動かなかった。
「……え?」
裕人が何度回しても、力任せに押しても引いても、鋼鉄のドアは溶接されたように微動だにしない。
『……だれも、にがさない……』
部屋の四隅から、あの女の声がクスクスと響き始めた。
脱出の道は、完全に絶たれた。
天野家は、物理的にも精神的にも、呪われた401号室という密室に「監禁」されてしまったのだ。
「開けっ……! 開け、開けろおおおっ!!」
裕人は狂乱したように玄関のドアノブを両手で掴み、全体重をかけて乱暴に揺さぶった。
ガンッ! ガンッ! と重い金属音が虚しく響くだけで、ドアはミリ単位の隙間すら見せない。鍵もチェーンも外れているのに、まるで外側から分厚いコンクリートの壁で完全に塞がれてしまったかのような、絶望的な手応えだった。
「クソッ、クソッ、ふざけんなっ!」
裕人はドアを蹴りつけ、痛みに顔を歪めてその場にうずくまった。
ワイシャツの破れた背中からは、あの黒い手形の跡から発せられる異常な冷気が、毒のように彼の全身へと回っていた。ガタガタと顎が震え、まともに立つことすらできない状態だ。
「裕人、窓! ベランダの窓から外に助けを……!」
美羽の言葉にハッとし、裕人は這うようにしてリビングへと戻った。
南向きの大きな掃き出し窓。さっきまで明るい日差しが差し込んでいたはずのその窓ガラスは、いつの間にかびっしりと結露で覆われていた。
いや、ただの結露ではない。ガラスの表面を覆っているのは、黒ずんだ、脂のようなドロドロとした液体だった。
裕人はティッシュ箱を掴み、窓ガラスの汚れを乱暴に拭き取った。
そして、その向こう側に広がる光景を見て、絶望に言葉を失った。
「……なんだよ、これ……」
窓の向こうにあるはずの、見慣れたマンション群や青空、道路を行き交う車。その全てが消え失せていた。
そこにあるのは、ただ果てしなく続く「淀んだ泥水色の霧」だけだった。光も、音も、風すらも存在しない、絶対的な虚無。ベランダの手すりの先は、底なしの沼のように暗く濁った空間に飲み込まれている。
まるで、この401号室という空間だけが、現世からスッパリと切り取られ、異界のどん底に放り込まれてしまったかのような。
「警察だ……そうだ、警察を呼べば……!」
裕人は震える手でズボンのポケットから自分のスマートフォンを取り出した。
画面を点灯させる。しかし、アンテナのマークは完全に「圏外」を示していた。ここは都心のど真ん中だ。電波が全く入らないなど、物理的にあり得るはずがない。
それでも裕人は、祈るような気持ちで「110」と打ち込み、発信ボタンを押した。
スピーカーを耳に当てる。
コール音は鳴らない。代わりに聞こえてきたのは——。
『……ズズッ……ズルズルズルッ……』
重い水気を帯びた何かが、泥の上を這い回るような、あの耳障りな音だった。
「ひっ!」
裕人はスマートフォンを床に投げ捨てた。
論理で世界を測ってきた男の精神は、完全に許容量を超えていた。幽霊、呪い、怨念。そういった非科学的なものを一切信じてこなかった反動が、今、彼を最も脆い存在へと変えていた。
「もうダメだ……俺たち、ここで殺されるんだ。あの風呂場の手……冷たかった、あんなの、生きてる人間の力じゃない……っ」
裕人は頭を抱え、部屋の隅で子供のように泣きじゃくり始めた。
かつて頼もしかった夫の姿はそこにはない。ただ、理不尽な恐怖に完全に屈服し、現実から逃避しようとする一人の怯えた男がいるだけだった。
美羽は、ソファに寝かされたまま目を覚まさない華と、部屋の隅で泣き崩れる裕人を交互に見つめた。
恐怖で頭がおかしくなりそうだった。今すぐ叫び声を上げて、自分も発狂してしまえたらどんなに楽だろう。
だが、美羽の心の奥底で、母親としての本能が恐怖を凌駕し始めていた。
夫が壊れてしまったのなら、私がこの子を守るしかない。
「裕人、しっかりして!」
美羽は裕人のそばに歩み寄り、その両肩を強く掴んで揺さぶった。
「泣いてても助からないわ! 私たちは生きてる。華も、息をしてる! 絶対にこんな理不尽なものに、家族を渡したりしない!」
美羽の強い声に、裕人は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「でも……ドアも窓も開かないんだぞ! 電話も通じない! あいつは……あいつはもう、この部屋全体にいる!」
裕人の言う通りだった。
部屋の温度はさらに下がり、白い息がはっきりと見えるほどになっていた。
壁紙の裏側を、何かがうごめくような「ミシミシ……」という不気味な音が、四方八方から聞こえ始めている。
——トスッ……。
その時、リビングと廊下を繋ぐドアの向こう側から、あの音が聞こえた。
美羽と裕人は同時に息を呑み、音の方向に視線を釘付けにした。
——トスッ……、ズルッ……。
ゆっくりと、執拗に床を擦る音。
それは、北側の洋室から廊下へ這い出し、そして今、リビングへと向かって確実な足取りで近づいてきていた。
(来る……『あれ』が、とうとうこっちへ……)
「ヒッ……いやだ、来るなっ……!」
裕人が後ずさり、壁に背中を押し付けた。
ギギギ……。
リビングのドアが、見えない手によってゆっくりと押し開かれていく。
開いたドアの隙間から流れ込んできたのは、これまでで最も強烈な、胃液が逆流するほどの腐臭だった。
そして、床を這うようにして、ぬるりと「それ」がリビングに姿を現した。
泥に塗れた長い黒髪。
異常なほど細く、節くれだった手足。
そして、床に擦り付けられるようにして持ち上がった顔には、縦に三つ並んだ赤く濁った眼球が、爛々と憎悪の光を放ってこちらを睨みつけていた。
女の右手首には、銀色の裁ちばさみが深く突き刺さり、動くたびに肉を削るような嫌な音を立てている。さらに、彼女の膨れ上がった腹部は、信じられないほど無残に切り裂かれた、そこから黒い汚泥のようなものが内臓の代わりにズルズルとこぼれ落ちていた。
『……わたしの……こども……』
しゃがれた声が、部屋の空気をビリビリと震わせた。
女の三つの目が、ソファで眠る華の姿を正確に捕らえた。
『……そこに……いたのね……』
「やめろぉぉぉっ!!」
恐怖の臨界点を超えた裕人が、発狂したような絶叫を上げ、手元にあったダイニングチェアを女に向かって力任せに投げつけた。
木製の重い椅子が、空中で弧を描き、這いずる女の体に直撃する——はずだった。
しかし、椅子は女の体を「すり抜け」、そのまま廊下の壁に激突して粉々に砕け散った。
物理的な攻撃が、一切通用しない。
女は椅子を投げられたことなど意にも介さず、ただ口角を耳まで裂けるように吊り上げ、ヒタヒタと華の眠るソファへと這い進んでくる。
「華ッ!」
美羽は身を挺してソファの前に立ちはだかり、両手を広げた。
ここから先は、死んでも通さない。
だが、部屋の「異変」はそれだけでは終わらなかった。
ポタッ……。
美羽の頬に、生温かい雫が落ちてきた。
天井を見上げた美羽の目に、信じられない光景が映った。
真っ白だった天井のクロスから、ドクドクと赤黒い「血」のような液体が滲み出し、雨のように降り注ぎ始めたのだ。
血の雨は天井だけでなく、四方の壁からも滝のように流れ落ち、真新しいオーク調のフローリングをあっという間に赤黒い沼へと変えていく。
「お、おかあ……さん……」
背後で、弱々しい声がした。
美羽が振り返ると、ソファで眠っていた華が、苦しそうに身をよじっていた。
その小さな体は異常なほどの高熱を発しており、顔は茹でダコのように真っ赤に染まっている。
「華! しっかりして、華!」
「あつい……いたいよぉ……おなかが、いたい……」
華が泣きながら自分のお腹をかきむしろうとする。その仕草は、目の前を這いずる「腹を切り裂かれた女」と完全に同調していた。
部屋そのものが血に染まり、境界線が完全に崩壊したこの空間。
女の怨念は、単に子供を欲しがっているだけではない。自分たちから未来を奪い、凄惨な死を遂げさせた「幸せな家族」という存在そのものを、徹底的に呪い殺そうとしているのだ。
逃げ場はない。
物理的な攻撃も効かない。
赤黒く染まりゆくリビングで、美羽は愛する娘を背にかばいながら、血まみれの裁ちばさみを引きずる悪夢の権化と、ついに真っ向から対峙することになった。




