第3.5章:歪む視界(夫・裕人視点)
出張の新幹線に乗るため、裕人が東京駅の雑踏を歩いていた時だった。
スマートフォンを取り出そうとスーツのポケットに手を突っ込むと、指先がひどく冷たい何かに触れた。
「……なんだこれ」
取り出してみると、それは濡れた黒髪の束だった。
周囲の乗客が行き交う乾いたコンクリートの上で、なぜかその髪の毛だけが、まるで今しがた川から引き揚げられたかのように、ドロドロとした黒い泥水をぽたぽたと垂らしている。
(……気持ち悪い。どうしてこんなものがポケットに?)
裕人は顔をしかめ、ゴミ箱へ捨てようとそれを握りしめた。その瞬間、手のひらの髪の毛がうねるように蠢き、まるで生き物のように裕人の手首に絡みつこうとした。
「わっ!」
思わず声を上げて手を振ると、髪の毛はサラサラと黒い砂のように崩れ去り、アスファルトの隙間に消えていった。周囲の人は誰もその異変に気づいていない。裕人は冷や汗を拭いながら、自分の気のせいに違いないと早足で新幹線の改札をくぐった。
目的地の地方都市に到着し、ホテルにチェックインしたのは夕方のことだった。
商談を終え、一人でシングルルームのベッドに腰を下ろすと、疲労が一気に押し寄せてきた。美羽が家で怯えていたことへの罪悪感が、頭の片隅を重く圧迫している。
(やっぱり、俺がもっとちゃんと話を聞いてやるべきだったのか……? いや、でも幽霊なんて科学的にあり得ない。ただの心気症だ。明日仕事を片付けたら、すぐに帰って病院に連れて行こう)
自分にそう言い聞かせ、裕人はバスルームへ向かった。
熱いシャワーを浴びてさっぱりしようと蛇口をひねり、湯船にお湯を張り始める。湯気が立ち込め、狭いユニットバスの中が白く曇っていく。
ふと、正面の鏡を見た裕人は、その場で硬直した。
曇った鏡の表面に、見知らぬ文字が、指で乱暴に書き殴るように浮かび上がっていた。
『何処へ行くの』
「……っ!?」
裕人は息を呑み、反射的に自分の手を見た。自分の手は濡れているが、鏡の文字はもっとドロドロとした、赤黒い血のような液体で書かれている。
ガタガタと、ユニットバスの扉が激しく揺れ始めた。
誰もいないはずなのに、まるで外から誰かが爪を立ててガリガリと引っ掻いているような、耳障りな音が響く。
『返して……』
『私の子を、返してよ……』
壁の向こうから、床の底から、そして蛇口から流れ出るお湯の中から、幾重もの掠れた女の声が重なり合って聞こえてくる。
裕人は恐怖で足がすくみ、後ずさろうとしたが、背後のバスタブの縁に足を取られてバランスを崩した。
ドプンッ!!
尻餅をついた裕人の目の前で、満たされつつあった浴槽の水が、一瞬で真っ黒なヘドロへと変色した。
その泥水の底から、無数の青白い手が一斉に伸びてきて、裕人の足首と両手をガシッと掴んだ。
「うわああああっ! 離せ、離せって!!」
冷たくねっとりとした指が、皮膚を突き破るように肉へ食い込んでくる。
引きずり込まれる。この悪夢のような泥の底へ。
その時、ポケットの中でスマートフォンが激しく振動した。
美羽からの着信だ。
「助けて……美羽……っ!」
必死に手を伸ばし、どうにか通話ボタンを押した瞬間、耳元から聞こえてきたのは、妻の声ではなく、あのぞっとするような女の怨嗟の絶叫だった。
『……かえしてぇぇぇぇッ!!』
耳をつんざくノイズとともに、視界が真っ暗に染まる。
どれほどの時間が経っただろうか。
ハッと息を吸い込んで目を開けると、裕人はホテルのシングルベッドの上で、冷や汗まみれになって仰向けに倒れていた。
スマートフォンの画面が、床に落ちて真っ黒に壊れている。
バスルームの方からは、何の変哲もないシャワーの音がチョロチョロと聞こえているだけだった。
しかし、自分の背中と足首には、まるでドライアイスを押し当てられたかのような、凍りつくような激痛と、くっきりと焼き付いた黒い手形の感触が、生々しく残っていた。
(……夢、じゃない……)
あの部屋は、もはや東京の自宅だけの問題ではない。
彼らがあのマンションに足を踏み入れた瞬間から、その「呪い」は、どれだけ離れていても、彼らの肉体と精神の深部に確実に根を下ろしていたのだ。
恐怖に震えながら、裕人は新幹線のチケットを握りしめ、逃げるように東京行きの最終列車へと飛び乗った——。




