第3章:底なしの過去
「じゃあ、行ってくる。明後日の夜には帰るから」
玄関でキャリーバッグの持ち手を引き上げながら、裕人は事務的な口調で言った。
二泊三日の地方出張。普段なら「気をつけてね」「お土産よろしく」といった会話が交わされるはずだが、今朝の夫婦の間に流れる空気は、凍りつくように冷たかった。
「……ええ。気をつけて」
美羽の短い返事に、裕人は小さくため息をつき、革靴の爪先で床をトントンと叩いた。
「出張から戻ったら、土曜日に病院の予約を入れる。良い心療内科を見つけたから、一緒に行こう。華も、しばらくは俺の実家に預かってもらうよう母さんに頼んでおく」
「……」
「美羽、お前のために言ってるんだ。幻覚を見るほど疲れてるんだから、ちゃんと休まなきゃ駄目だ」
諭すような、しかし決定事項として押し付けるような口調に、美羽は何も言い返さなかった。ここで反論しても「病状が悪化している」と見なされるだけだということが、昨夜のやり取りで骨身に沁みてわかっていた。
「わかったわ」
美羽が力なく頷くと、裕人は少しだけホッとしたような顔を見せ、「じゃあ、華をよろしくな」と言い残してドアの向こうへと消えていった。
重い金属のドアが閉まり、静寂が降りてくる。
美羽は玄関に立ち尽くしたまま、ギリッと唇を噛み締めた。
(私は、狂ってなんかいない)
あの腐臭も、鏡の手形も、テレビから這い出そうとした女も。
全ては現実だ。この部屋自体が、得体の知れない悪意で満ちている。
裕人が信じないのなら、自分で証拠を見つけるしかない。自分が正常であることを証明し、何より、あの悍ましいものから華を守るために。
午前九時。美羽は華を幼稚園のバスに乗せて見送った後、すぐにスマートフォンを握りしめ、最寄りの市立図書館へと向かった。
マンションの中に一人で残る気には、とてもなれなかった。あの北側の洋室から漏れ出してくる冷気が、次第にリビング全体を侵食し始めているのを肌で感じていたからだ。
図書館の重厚なガラス扉を潜ると、古い紙と埃の混じった独特の匂いが鼻をくすぐった。それはマンションで漂うあの生臭い腐臭とは全く違う、知と静寂の匂いだった。
美羽は迷わず、二階の郷土資料コーナーへと足を向けた。
平日の午前中ということもあり、閲覧席には数人の老人が新聞を読んでいるだけで、ひどく静かだった。
美羽は書架の間を抜け、この地域の古い住宅地図や、郷土史がまとめられた分厚いファイルが並ぶ棚の前に立った。
天野家が購入したマンション『ヴィラージュ・アザレア』は、築四十年。
つまり、四十年前の地図を見れば、あの場所に何があったのかがわかるはずだ。
美羽は昭和五十年代の住宅地図を広げ、マンションの住所である番地を指先で辿った。
色褪せた地図のページ。小さな文字でひしめき合う個人宅の苗字の中に、目的の区画を見つける。
「……『間宮』……?」
現在のマンションの敷地全体を覆うような、かなり広い区画。そこに建っていたのは、アパートや複数の民家ではなく、「間宮」という表札が記された大きな一軒の屋敷だったようだ。周囲の家々に比べて異常なほど敷地が広く、庭の奥には別棟のようなものも描かれている。
美羽はスマートフォンを取り出し、「間宮」「(現在の住所)」「事件」「事故」といったキーワードを組み合わせて検索窓に打ち込んだ。
最初は何もヒットしなかったが、検索条件をさらに広げ、ネットの海に沈む古いオカルト掲示板の過去ログや、地域の噂話をまとめたマイナーなまとめサイトへと深く潜っていくにつれ、断片的な情報が引っ掛かり始めた。
画面をスクロールする美羽の指先が、不意に冷たくなる。
『あのマンションが建つ前、そこには古い地主の屋敷があった。間宮家という旧家だったが、昭和の中頃に凄惨な事件が起きて一家は離散した』
『事件の詳細は伏せられているが、当時妊娠していた若奥さんが、発狂して自分の腹を……』
(自分の、腹を……?)
美羽の脳裏に、昨夜の女の掠れた声がフラッシュバックする。
『……いたい……おなかに、はいってる……』
美羽はゴクリと唾を飲み込み、さらに検索結果を追った。
そして、ある無名の個人ブログの記事で、決定的な記述を見つけた。
【ヴィラージュ・アザレアの401号室について】という、十年以上前に書かれた短い記事。
そこには、こう記されていた。
『あのマンションの401号室は、ちょうど昔の間宮家の「離れ」があった位置に建てられている。その離れは、狂ってしまった若奥さんが座敷牢のように閉じ込められていた場所だという噂がある。
彼女は、ある日突然、裁縫用の重い裁ちばさみを使って、自らの腹を切り裂いて死んだ。
理由は不明。ただ、彼女が身籠っていた子供は、人間とは違う「奇形」であったという気味の悪い伝承が、地元の古老の間でだけ囁かれている。
マンションが建ってからも、401号室の入居者は長続きしない。行方不明になった者、精神を病んで飛び降りた者。不動産業界では有名な曰く付き物件である。絶対に住んではいけない。あそこの奥さんは、まだ自分の「子供」を探している——』
スマートフォンを持つ手が、ガタガタと激しく震え始めた。
裁ちばさみ。
腹を切り裂いて死んだ妊婦。
奇形の子供。
(……三つの眼球を持つ、赤い目の……)
華が壁に描いた無数の赤い線。
ドアの隙間から覗いていた、縦に並んだ三つの目。
裁ちばさみが突き刺さった、水ぶくれのような青白い手。
点と点が、一本のおぞましい線となって繋がった。
あの部屋にいるのは、ただの幽霊ではない。自分の腹を裂いて死んだ狂気の母親と、この世に生まれ出ることのなかった、おぞましい「何か」の怨念だ。
そして彼女は、新/しくだってきた自分たち家族を——とりわけ、幼い華を、自分の奪われた子供の代わりとして、あるいは憎悪の対象として、完全に標的にしている。
「嘘……じゃあ、あの部屋を買ってしまった私たちは……」
絶望で目の前が真っ暗になった、その時だった。
——トスッ……、トスッ……。
静まり返った図書館の閲覧室で、微かな音が美羽の耳に届いた。
重いものを引きずるような、あの執拗な足音。
美羽は息を呑み、ゆっくりと顔を上げた。
周囲には、遠くの席で本を読む老人以外、誰もいない。
しかし、音は確かに聞こえる。それも、真上の天井からではない。
美羽が座っているテーブルの、すぐ「真下」から。
——トスッ……、トスッ……、ピタ。
足元で音が止まった。
冷房の効いた図書館内であるにもかかわらず、足首のあたりから、あの骨の髄まで凍りつくような冷気と、耐え難い生臭いヘドロの匂いが這い上がってくる。
(……来てる。こんな所まで、私を追って……)
テーブルの下を覗き込む勇気はなかった。
もしそこに、あの三つの目があったら。
美羽は悲鳴をこらえ、スマートフォンとバッグをひったくるようにして立ち上がると、逃げるように図書館を飛び出した。
眩しい太陽の光の下に出ても、足首にまとわりついた冷たい感覚は、いつまでも消えなかった。この呪いは、もはやあのマンションの部屋の中だけの問題ではない。美羽たち家族は、すでに底なしの沼の真ん中に引きずり込まれてしまっているのだ。
図書館から逃げ出した美羽は、初夏を思わせる強い日差しの下で、しばらく荒い息を繰り返した。
アスファルトの熱気がむっと立ち昇っているのに、足首にまとわりついた嫌な冷感だけが、まるでそこだけ氷水に浸かっているかのように生々しく残っていた。
(早く、華を迎えに行かなきゃ……!)
時計を見ると、幼稚園の帰りのバスが到着する時刻が迫っていた。美羽はふらつく足に鞭を打ち、バス停へと急いだ。
黄色いバスから降りてきた華は、いつもと変わらない無邪気な笑顔で「お母さん!」と抱きついてきた。その温かい体を抱きしめた瞬間、美羽の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「お母さん、泣いてるの? お腹痛いの?」
「ううん……なんでもないの。さあ、帰ろうね」
手を繋いで歩きながら、美羽は何度も背後を振り返った。幸い、あの重苦しい足音はついてきていないようだった。しかし、分譲マンション『ヴィラージュ・アザレア』のくすんだグレーの外壁が見えてきた途端、美羽の足は鉛のように重くなった。
青空を背景に建つそのマンションは、まるで巨大な墓標のように異様な威圧感を放っていた。
エントランスに近づくと、古びた作業着を着た初老の男が、竹箒で落ち葉を掃いているのが見えた。このマンションの管理人だ。引っ越しの日に遠目から挨拶をしただけで、言葉を交わしたことはなかった。
管理人は、近づいてくる美羽と華の姿を認めると、箒を持つ手をピタリと止めた。そして、美羽の顔と、繋がれた華の手を交互に見比べ、まるで幽霊でも見たかのように顔を強張らせた。
「……あんたたち。401号室に越してきた、家族かい」
かすれた、しかしひどく緊迫した声だった。
「あ、はい。天野と申します。あの、管理人さんですよね?」
美羽が会釈をすると、管理人は周囲をギョロギョロと見回し、足早に美羽に歩み寄ってきた。そして、声を極端に潜めて言った。
「あんた……なんであんな部屋を買ったんだ。賃貸ならすぐ逃げられるが、買っちまったら終わりだぞ」
「……え?」
「不動産屋は何も言わなかったのか!? あの部屋はな、絶対に『子供』を入れちゃならねえんだよ!」
血走った目で睨みつけられ、美羽は息を呑んだ。
やはり、この人も知っているのだ。あの部屋の忌まわしい過去を。
「管理人さん、教えてください! あの部屋で昔、何があったんですか? 妊婦が自殺したって、ネットには……」
「ネットなんかでわかるもんか。俺はな、このマンションが建った四十年前からずっとここを管理してるんだ」
管理人は、自分の両腕を強く抱きしめながら、震える声で語り出した。
「間宮の家の若奥さんはな、ただ自殺したんじゃない。自分の腹を、あの重たい裁ちばさみでズタズタに切り裂いて、中の『赤ん坊』を引きずり出したんだ。……普通の人間にはあり得ない、恐ろしい形をした赤ん坊をな。奥さんは、その化け物みたいな赤ん坊を抱きしめたまま、血の海の中で死んでいたそうだ」
美羽の脳裏に、あの三つの目が浮かび、激しい吐き気が込み上げた。
「マンションが建ってからも、401号室には色んな奴が住んだ。だが、みんな最後はおかしくなっちまった。夜な夜な、奥さんが血まみれのハサミを引きずりながら、自分の子供を探して這い回るんだ。……特に、小さな子供がいる家族は最悪だ。奥さんは、その子を『自分の子供』だと思い込んで、あの世へ連れて行こうとする」
「そ、そんな……! どうすればいいんですか!? 私たち、どうすれば……」
「今すぐ出て行け! 荷物なんかどうでもいい。とにかく、あの奥さんを怒らせるな。絶対に、自分の子供を奪い返そうなんて思うな!」
管理人がそう叫んだ直後だった。
エントランスの奥、昼間でも薄暗い郵便受けのコーナーのほうから、ピチャ、という奇妙な水音が響いた。
途端に、生温かい風が吹き抜け、あの耐え難いヘドロのような腐臭が辺り一面に立ち込めた。
「ひっ……!」
管理人が短く悲鳴を上げ、後ずさった。彼の視線は、美羽の背後——マンションの奥にある薄暗い階段の踊り場に釘付けになっていた。
美羽も恐る恐る振り返る。
何もいない。ただ、コンクリートの階段に、真っ黒な濡れた足跡のようなものが、ペタ、ペタと上の階へと続いているのが見えた。
「出た……昼間から、ここまで降りてきやがった……!」
管理人はパニックを起こしたように叫び、竹箒を放り出した。
「管理人さん!」
「俺は知らない! 俺には関係ないっ!!」
管理人は狂ったように首を振り、マンションの駐輪場の方へと走り出した。
しかし、数歩走ったところで、彼の足が「見えない何か」に強く引かれたようにガクンと折れ曲がった。
「あぎゃっ!?」
不自然な悲鳴とともに、管理人の体が宙に浮いた。
まるで、巨大な手で足首を掴み上げられたかのように、頭を下にして空中で激しく振り回される。
「きゃあああっ!!」
美羽は華の目を両手で塞ぎ、その場にしゃがみ込んだ。
ドスッ!!
嫌な音を立てて、管理人の体が駐輪場のコンクリートの床に叩きつけられた。
美羽は震えながら薄く目を開けた。
管理人は、首があらぬ方向に曲がり、ピクピクと痙攣していた。その足首には、黒い泥のようなものがべったりと付着し、そこから煙のようにどす黒い冷気が立ち昇っている。
即死だった。人間の首が、あんな角度に曲がって生きているはずがない。
周囲の静寂が、ひどく現実離れして感じられた。
目の前で人が死んだのに、マンションの住人は誰一人として部屋から出てこない。サイレンの音も聞こえない。この空間だけが、完全に現世から切り離されてしまったかのように。
「……おかあ、さん……?」
腕の中で、華が不安そうに身じろぎした。
美羽はハッとして、華の耳を塞いだまま立ち上がった。
逃げなければ。
今すぐ、このマンションから遠くへ。
そう思ってエントランスの出口へ向かって走り出そうとした瞬間。
倒れている管理人の口が、パカリと大きく開いた。
喉の奥から、ボコボコという泥水をすするような音が鳴り、続いて、あの女の掠れた声が、死んだ管理人の声帯を震わせて響き渡った。
『……どこへいくの……?』
美羽の全身の血が凍りついた。
『……わたしの……こども……わたしの……』
ズルッ、ズルッ。
倒れた管理人の体が、まるで操り人形のように不自然な動きで這いずり、美羽たちの方へ向かってきている。死んだはずの濁った目が、美羽の腕の中にいる華をじっと見据えていた。
「いやぁあああっ!!」
美羽はパニックに陥り、華を抱かかえたまま、無我夢中でマンションの階段を駆け上がっていた。
外へ逃げるようにも、エントランスにはあれが這いずっている。もう、自分たちの部屋——401号室へ逃げ込むしか道はなかった。自ら呪いの中心へ飛び込んでいると分かっていても、狂気に追い立てられた足は止まらなかった。
四階にたどり着き、鍵をこじ開けるようにして玄関に飛び込む。
内側からチェーンをかけ、鍵を閉め、美羽はドアに背中を預けてズルズルと崩れ落ちた。
外へ逃げる道は、塞がれた。
夫は二日後まで帰ってこない。
頼みの綱だった管理人は、目の前で無残に殺された。
閉ざされた401号室。
部屋の奥、北側の洋室のドアが、いつの間にかギィ……と不気味な音を立てて開いていた。
そして、あの強烈な腐臭が、ゆっくりとリビングへと溢れ出してきていた。
背中にぴったりと押し付けた玄関の鋼鉄製ドアは、まるで氷の塊のように冷え切っていた。
施錠を確認し、U字ロックまでかけても、美羽の全身を覆う震えは一向に止まらなかった。
「……はあ、はあ、はあ……」
過呼吸気味に肩を上下させながら、美羽は廊下の奥を凝視した。
開け放たれた北側の洋室。その暗ガリの奥から、泥水と腐った脂が混ざり合ったような強烈な悪臭が、じわじわとリビングへ向かって這い出してきている。
「お母さん、苦しいよぅ……」
腕の中で強く抱きしめられすぎていた華が、弱々しい声を上げた。
ハッとして腕の力を緩めると、華は不思議そうに美羽の顔を見上げ、それから暗い廊下の先へと視線を向けた。その瞳の奥に、ふと、あの得体の知れない「何か」と呼応するような冷たい光が宿ったのを、美羽は見逃さなかった。
「華、ダメ! あっちを見ちゃダメ!」
美羽は華の顔を両手で挟み、無理やり自分の方へ向けさせた。
頼れるのは夫しかいない。あの頑迷な現実主義者でも、管理人が死んだと聞けば、さすがに事の重大さに気づくはずだ。美羽は震える指でスマートフォンを取り出し、アドレス帳から「裕人」の文字をタップした。
耳に当てたスピーカーから、発信音が鳴る。
プルルル……プルルル……。
出張中の裕人は、今は新幹線の中か、あるいはすでに現地の取引先へ向かっている時間だろう。早く、早く出て。美羽は心の中で絶叫しながら、スマートフォンの画面を握りしめようとした。
『……はい』
「裕人!?」
不意に繋がった電話に、美羽はすがりつくように叫んだ。
「お願い、今すぐ帰ってきて! やっぱりこのマンション、おかしいの! 管理人さんが死んだのよ、目の前で! あの部屋にいる『何か』が、私たちを殺そうとして……!」
一息にまくし立てた美羽だったが、電話の向こうからは何の反応も返ってこない。
ただ、ザーッという微かなノイズ音が聞こえるだけだ。
「裕人? 聞いてるの!? お願い、答えて!」
『……いたい……』
鼓膜を直接撫でるような、低く、しゃがれた女の声。
美羽は息を呑み、スマートフォンを耳から離しかけた。
『……わたしの……こども……』
「ひっ!」
それは裕人ではなく、あのテレビの画面越しに、そして寝室のドアの隙間から聞いた、怨念に満ちた母親の声だった。
なぜ、裕人の電話から? 彼にも何かが起きているのか?
『……かえしてぇぇぇぇッ!!』
突然、耳をつんざくような絶叫がスピーカーから爆発し、スマートフォンが美羽の手から滑り落ちた。床に落ちた端末の画面は、真っ黒に染まり、うんともすんとも言わなくなってしまった。電源を入れ直そうとしても、画面には何も映らない。完全に壊れてしまったのだ。
「嘘……裕人、嘘でしょ……」
唯一の外界との繋がりを絶たれ、美羽は深い絶望に突き落とした。
その時、部屋の空気が一変した。
ピキッ、と、窓ガラスが凍てつくような甲高い音を立てた。
五月の初夏とは思えない、真冬の吹雪の中に放り出されたかのような異常な冷気が、閉め切った部屋の中に満ちていく。息を吐くと、真っ白な呼気が空中に浮かび上がった。
ガタガタガタッ!!
リビングの大きな掃き出し窓が、外から凄まじい力で揺さぶられ始めた。
鍵はしっかりと閉まっている。だが、サッシのわずかな隙間から、ゴォォォォという耳障りな風切り音とともに、氷のように冷たい突風が室内に吹き込んできた。
風とともに、あのひどく生臭い匂いが部屋中を暴れ回る。
「きゃあああっ!」
美羽は華に覆い被さるようにして、床にうずくまった。
飾ってあった写真立てが倒れ、カーテンが狂ったように宙を舞う。部屋全体が、目に見えない巨大な力によって圧壊されそうになっている。
「開けて」
突風の音に混じって、唐突に華の声が響いた。
美羽が顔を上げると、いつの間にか華が腕の中から抜け出し、玄関のドアの前に立っていた。
「華! 何をしてるの、こっちに来なさい!」
「開けて、って。お友達が、外で待ってるの」
華は振り返りもせず、玄関のU字ロックに小さな手を伸ばした。
その声は、いつもの華のものではなかった。抑揚のない、機械のような冷たい声。
「ダメっ!!」
美羽は弾かれたように飛び起き、華の体に抱きついた。
だが、六歳の子供とは思えない凄まじい力で、華は美羽の腕を振り払おうとする。
「中に入れてって言ってるの。かわいそうだもん、お外は寒いから」
「違う、あれはお友達じゃない! お願いだからやめて!」
ガチャン!
美羽が引き剥がそうとする力と拮抗する中で、華の指がU字ロックを外してしまった。
残るは、シリンダーの鍵だけだ。これを回されれば、ドアは開いてしまう。
ドアの向こうには、あの管理人の体を操る「何か」が、今か今かと待ち構えているはずだ。
「開けるの!!」
突然、華が獣のように咆哮した。
その顔は、怒りで激しく歪み、目からはポロポロと大粒の涙を流しているのに、口元だけは三日月のように吊り上がって笑っている。完全に、別の意志に肉体を乗っ取られている状態だった。
「やめなさいっ!」
美羽は必死の力で華を引きずり倒し、その上に馬乗りになるようにして押さえつけた。
華は狂ったように暴れ、美羽の腕や顔を小さな爪で引っ掻く。美羽の頬に鋭い痛みが走り、血が滲んだ。それでも、美羽は決して鍵から手を離させまいと、娘の細い手首を死に物狂いで握りしめた。
ガンッ! ガンッ! ガンッ!!
その時、背後の玄関ドアが、外から激しく叩かれ始めた。
人間の拳で叩いているのではない。何か硬く、重い金属のようなもので、鉄の扉を破壊せんばかりの勢いで打ち据えているのだ。
(裁ちばさみだ……!)
美羽は直感的に悟った。
あの狂った母親が、血まみれの裁ちばさみの柄で、ドアを叩き壊そうとしているのだ。
『……あけて……わたしの……あけてえぇぇぇッ!!』
ドアの向こうから、怨嗟にまみれた絶叫が響く。
ドアノブが、ガチャガチャと狂ったように回されている。
「お母さん! 痛い! お母さん!!」
押さえつけられた華が、突然元の無邪気な声に戻って泣き叫んだ。
しかし、その直後には再びドス黒い声に切り替わる。
「コロス……オマエモ、コロシテヤル……」
娘の体を借りた怨念と、外から迫り来る実体を持った狂気。
閉ざされた401号室は、もはや現世と地獄の境界線が完全に崩壊し、逃げ場のない生贄の祭壇と化していた。
ドアを叩く轟音と、華の悲鳴、そして怨霊の絶叫が入り混じる中、美羽はただ娘を抱きしめ、いつ破られるとも知れない鉄の扉を背に、絶望の涙を流し続けることしかできなかった。




