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401号室  作者: suzudeer


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第2章:侵食される日常

第2章:侵食される日常

目を覚まったとき、天井のクロスはいつもの清潔な白で、部屋には眩しいほどの朝の光が満ちていた。

隣を見ると、裕人はすっかりスーツに着替え、ネクタイを締めながら腕時計を確認している。


「おい、美羽。大丈夫か? 朝だぞ」

声をかけられ、美羽は跳ね起きるようにベッドから身体を起こした。

荒い息を整えながら自分の両手を見る。手のひらは冷や汗で濡れていたが、そこには何もなかった。あの生臭い匂いも、ドアの隙間に這う不気味な指も、すべては悪夢だったのだろうか。


「……夢、だったの?」

「何がだ? お前、昨日の夜中、急にうなされて変な声を出してたぞ。やっぱりまだ引っ越しの疲れが抜けてないんだって。今日は一日、家でゆっくり休んでいろ」


裕人は心配そうに眉を寄せながらも、時間が来たとばかりに玄関へと急いだ。

「じゃあ、行ってくるから。華を起こしてやるなよ、まだ眠そうだったからさ」

「……うん、いってらっしゃい」


バタン、とドアが閉まる。

美羽はベッドの上に座ったまま、しばらく動けずにいた。夢にしては、あまりにも生々しい感触が残っている。あの泥の匂い、そして手首に突き刺さっていた裁ちばさみの冷たさ。


恐る恐る、寝室のドアの隙間に目をやった。

そこには何の変哲もない木目のドアがあるだけで、異様な指の痕も、血の染みのようなものも一切残っていない。


(気のせいだわ。疲れているから、脳が勝手に恐ろしい幻を作り出しているんだ……)


自分を納得させるように深く息を吐き、美羽は冷え切った顔を洗うために洗面所へと向かった。


廊下を進み、洗面所の引き戸を開ける。

真新しい人工大理石の洗面台は、昨日自分がきれいに磨いたばかりでピカピカに輝いていた。蛇口をひねり、冷たい水をすくって顔に浴びる。ひんやりとした水が心地よく、ようやく頭が冴えてきた気がした。


だが、顔を拭こうと、目の前にある大きな三面鏡を見上げた瞬間、美羽の手がピタリと止まった。


鏡の表面が、うっすらと白く曇っている。

シャワーを浴びたわけでもないわけでもないのに、いや、それだけではない。曇った鏡の中央に、生々しい「手の形」がべったりと押し付けられている。


指の跡が、外側ではなく、鏡の「内側」から外へ向かって押し出されるようにくっきりと刻まれている。


「……っ!」


思わず息を呑み、美羽は後ずさった。

その瞬間、曇った鏡の向こう側、ほんの一瞬だけ、血走った三つ目の眼球が、美羽の顔のすぐ真後ろに重なるようにフワリと浮かび上がった。


「ひっ……!」


悲鳴を上げて床に尻もちをついた美羽が、怯えながら再び鏡を見たとき、そこにはただの白く曇った鏡と、引きつった顔で怯える自分の姿が映っているだけだった。しかし、手形の中心から、ドロリとした黒い液体が、まるで涙のようにスルスルと鏡の表面を伝い落ちてきた。


水滴ではない。それは紛れもない、どす黒い汚泥だった。


逃げるように洗面所から這い出した美羽は、リビングの床にへたり込んだ。

心臓がうるさいほどに脈打っている。幻覚なんかじゃない。この部屋は、確実に自分たちを拒絶し、侵食しようとしている。


「お母さん?」


寝起きの目をこすりながら、華がリビングの入り口に立っていた。

そのパジャマの裾に、なぜか泥のようなものがうっすらと付着しているのが見え、美羽の背筋に再び凍りつくような悪寒が走った。


「華……その服、どうしたの?」

「ん? おトイレ行ったとき、足が汚れちゃったの。でもね、お友達がきれいにしてくれたよ」

「お友達って……誰よ?」

美羽が震える声で問い詰めると、華は首をかしげ、洗面所の方を指差して無邪気に笑った。

「お風呂場の方にいたよ。真っ黒なお洋服を着て、髪の長いお姉さん。華ちゃん、よしよしってしてくれたの」


「……っ、脱ぎなさい、華! その服、早く脱いで!」


半狂乱になりながら、美羽は華のパジャマを力任せに剥ぎ取った。

ズボンの裾にこびりついた黒い泥からは、昨夜、寝室のドアの隙間から漂ってきたのと同じ、あの強烈な腐臭が放たれていた。鼻の奥を突き刺すヘドロと脂の混じったような匂いに、胃液が込み上げてくる。


美羽はパジャマを丸めてゴミ袋に二重に密封し、震える手で華の足を濡れタオルで何度も拭いた。華は痛がる素振りも見せず、放心したような顔で宙を見つめていた。まるで、心ここロスといった、空っぽの日本人形のような表情だった。


「……お母さん」


不意に、華の小さな唇が動いた。

「どうしたの? どこか痛いの?」

美羽が顔を覗き込むと、華はゆっくりと焦点を美羽に合わせ、ふふっ、と大人びた笑みを浮かべた。


「あのね、お友達が怒ってる」

「……え?」

「どうしてお前はここにいるんだ、って。ここは私の家なのに、どうして勝手に入ってきたんだ、って」


それは、六歳の子供が使うような語彙ではなかった。声のトーンこそ華の高いソプラノだが、言葉の端々に込められたドロリとした感情は、明らかに別の「誰か」の憎悪を代弁していた。


「早く、出て行ってって。お母さんのこと、嫌いだって。だから……」

華はそこで言葉を区切り、無表情のまま、美羽の目を真っ直ぐに見据えて言った。


「殺してやる、って言ってるよ」


心臓を鷲掴みにされたような衝撃だった。

美羽は後ずさり、壁に背中を打ち付けた。自分の娘が、見ず知らずの悍ましい怨念に精神を乗っ取られかけている。その事実が、鏡に浮かんだ手形よりも何倍も恐ろしかった。


「いや……いやぁっ!」


美羽は華を抱かかえ、逃げるように玄関へと走った。靴も半分履き潰したまま、重い金属のドアを押し開けて外の共有廊下へと転がり出る。


春の穏やかな風が頬を撫で、遠くから走る車の音や、どこかの小学校のチャイムの音が聞こえてきた。日常の音が、これほどまでに愛おしく感じられたことはない。太陽の光を浴びた途端、肺の中に詰まっていた澱んだ空気が一気に吐き出され、美羽はその場にへたり込んで激しく咳き込んだ。


「お母さん、お外いくの?」

華は不思議そうに目をパチパチとさせている。憑き物が落ちたように、いつもの無邪気な声に戻っていた。


美羽は震える手で華を抱きしめながら、マンションの廊下を見渡した。

平日の昼下がり。築四十年のこの分譲マンションは、静まり返っている。しかし、その静けさは「平和」からくるものではないことに、美羽は気がついてしまった。


廊下には、生活感というものが一切なかった。

各部屋の玄関先に、傘立ての一つも、子供用の三輪車も、プランターの鉢植えすら置かれていない。どの部屋も固くドアを閉ざし、まるで息を潜めて周囲の気配を窺っているかのようだった。


(……おかしい。いくらなんでも、不自然すぎる)


ふと、越してきてから一度も、このマンションの住人と顔を合わせていないことに思い至った。引っ越しの挨拶は「両隣と下の階だけでいい」と不動産屋に言われていたが、バタバタしていてまだ済ませていなかったのだ。


美羽は、藁にもすがる思いで立ち上がった。

誰かに、このマンションのことを聞かなければならない。あの部屋で何があったのか。他の住人も、同じような怪現象に悩まされているのではないか。


美羽は華を連れて部屋に戻り、あらかじめ用意していた手土産の焼き菓子の箱を掴むと、すぐ隣の部屋——「402号室」のインターホンを押した。


ピンポーン、という電子音が廊下に虚しく響く。

反応はない。しかし、ドアスコープの向こうが微かに暗くなり、誰かがこちらを覗き込んでいる気配がした。


「あの、昨日401号室に引っ越してまいりました、天野と申します。ご挨拶に伺ったのですが……」

美羽がドアに向かって声をかけると、ガチャリ、と重々しい音がして、ドアが数センチだけ開いた。


U字ロックのチェーンがかけられたままの隙間から、くすんだ瞳の中年女性が顔を覗かせた。髪はボサボサで、目の下には濃い隈が落ちている。まるで何日も眠っていないような、極度に疲弊した顔だった。


「……なんですか」

掠れた、警戒心剥き出しの声。


「あ、あの、これ、心ばかりの品ですが……これからお世話になりますので」

美羽が隙間から菓子箱を差し出そうとしたが、女性はそれを受け取ろうともせず、美羽の背後——401号室のドアをじっと睨みつけた。


「あなた……あの部屋を、買ったの?」

「え? あ、はい。中古物件として……」


その言葉を聞いた瞬間、女性の顔が劇的に歪んだ。

驚愕、憐憫、そして圧倒的な「恐怖」。


「嘘でしょ……賃貸じゃなくて、買った……? 信じられない、あんな部屋に、子供まで連れて……!」

「あ、あの、あの部屋、何かあるんですか!? 昨日の夜から、変な音や匂いがして——」


美羽が縋るように身を乗り出すと、女性は「ヒッ」と短い悲鳴を上げて後ずさった。


「知らない! 私には関係ない! これ以上、私たちを巻き込まないでちょうだい!」

「待って! お願いです、何か知ってるなら——」

「早く出て行きなさい! 『あの人』が完全に目を覚ます前に!」


バタンッ!!

凄まじい勢いでドアが閉められ、ガチャガチャと執拗に鍵をかける音が響いた。


静みが戻った廊下で、美羽は菓子箱を持ったまま立ち尽くした。

『あの人が完全に目を覚ます前に』。

その言葉が、呪いのように頭の中でリフレインする。


隣人は、知っているのだ。あの部屋に巣食うものの正体を。そして、決して関わり合いになりたくないほど、それを恐れている。助けを求めることなど不可能なのだ。


じわりと、足元から冷たい影が忍び寄ってくるのを感じた。

振り返ると、少しだけ開け放たれた自宅(401号室)の暗い玄関の奥から、冷え切った空気が蛇のように廊下へ這い出してきていていた。


逃げ場はない。

このマンション全体が、すでにあの部屋の「何か」の支配下にある。そう錯覚してしまうほど、周囲の空気は重く、絶望的に澱んでいた。


逃げ帰るようにして401号室の重いドアを閉め、美羽は震える手で鍵をかけ、さらにU字ロックまで乱暴に押し込んだ。ガチャリ、という金属音が室内に響いたが、少しも安心感は得られなかった。むしろ、自らこの呪われた箱の中に閉じこもってしまったような、強烈な閉塞感に息が詰まりそうだった。


リビングに戻ると、華はソファに横たわり、こんこんと眠っていた。

先ほどまであんなに不気味な言葉を口にしていたのが嘘のように、今は静かな寝息を立てている。しかし、その眠りはどこか不自然に深かった。揺すっても起きる気配がなく、まるで強制的に意識のスイッチを切られているかのようだ。


美羽は華に毛布をかけ、自分は部屋の隅のダイニングチェアに膝を抱えて座り込んだ。

時刻は午後三時。西日が差し込み始めているはずなのに、部屋の中はどんよりと薄暗く、暖房を入れているにもかかわらず、足元から這い上がってくるような冷気が漂っていた。


(どうしよう。どうすればいいの……)


隣人のあのおびえた顔。

『あの人が完全に目を覚ます前に』。

このマンションには、間違いなく恐ろしい因縁がある。一刻も早く裕人に連絡を取り、今夜からでもホテルに避難するべきだ。


美羽はスマートフォンを取り出し、裕人の番号をタップしようとした。

その時だった。


——ブツッ。


リビングの壁掛けテレビが、不意に点灯した。

誰もリモコンに触っていない。タイマー設定などしているはずもない。大型の液晶画面が、薄暗い部屋を青白く照らし出した。


「え……?」


画面に映し出されたのは、テレビ番組ではなかった。

ザーッという、現代のデジタル放送ではあり得ないはずの、激しい「砂嵐」だった。

白と黒のノイズが乱舞し、耳障りな電子音がリビングに響き渡る。


美羽はビクッと肩を震わせ、テーブルの上のリモコンを手に取った。電源ボタンを何度も強く押し込む。しかし、テレビはうんともすんとも言わない。チャンネルを変えるボタンを押しても、音量を下げるボタンを押しても、画面は砂嵐を映し出したままだった。


——ザザッ……ブツ、ピー……。


次第に、単調だった砂嵐のノイズの中に、別の「音」が混じり始めた。


『……あ……う……』


人間の声だ。

低く、くぐもった、ひどく掠れた女の声。


美羽はリモコンを放り出し、後ずさった。

ノイズの奥から聞こえてくるその声は、昨夜、寝室のドアの隙間から聞いたあの怨念に満ちた声と全く同じだった。


『……いたい……どこ……わたしの……』


声は次第に大きくなり、すすり泣くような、あるいは呪詛を吐き出すような不気味な響きを帯びていく。

それと同時に、砂嵐の画面の中央に、黒い「染み」のようなものが浮かび上がってきた。


染みはノイズを掻き分けるようにして、徐々に人の形を成していく。

長い黒髪。極端に痩せ細った輪郭。

そして、その顔の真ん中に、縦に並んだ三つの眼球が、画面の向こう側からギョロリと美羽を睨みつけた。


「いやぁっ!!」


美羽は悲鳴を上げ、テレビの裏側に回り込んだ。

コンセントだ。電源を抜けばいい。

震える手で壁のコンセントに刺さっている黒いプラグを掴み、力任せに引き抜いた。


バチッ、と小さな火花が散り、プラグが床に転がる。

これで消える。そう思った。


しかし——。

『……かえしてぇぇぇぇッ!!』


テレビの画面は消えるどころか、一層強い光を放ち、女の絶叫がリビング中の空気を震わせた。コンセントが抜かれているにもかかわらず、画面の中の女は、ブラウン管のガラスを内側からバンバンと狂ったように叩き始めた。


液晶画面が、内側からの圧力でミシミシと軋み、ひび割れのようなノイズが走る。

三つの目が、血走った眼差しで美羽を捕らえて離さない。


「お願い、やめて! やめてええっ!」


美羽は耳を塞ぎ、床にうずくまって泣き叫んだ。

どれくらいそうしていただろうか。永遠にも感じられる数分間の後、テレビは唐突にプツリと音を立てて真っ黒な画面に戻った。


静寂が戻った部屋で、美羽は過呼吸のように喘ぎながら、ただガタガタと震え続けていた。


夜になり、ガチャリと玄関のドアが開く音がした。

「ただいま。……おい、どうしたんだ? 真っ暗じゃないか」


電気もつけずにリビングの隅で丸まっていた美羽を見て、裕人は驚いてネクタイを解く手を止めた。

「美羽? おい、大丈夫か!?」


裕人が慌てて照明のスイッチを入れる。眩しい光の中で、美羽は幽鬼のような顔を上げて夫にしがみついた。


「裕人! お願い、今すぐここから出ましょう! ホテルでも実家でもいい、とにかく今すぐ荷物をまとめて!」

「は? 何を言ってるんだ、いきなり。どうしたんだよ、泣いて……」

「いるのよ! この部屋には『何か』がいるの! テレビが勝手について、コンセントを抜いても消えなくて……女の人が、画面の中からこっちを見てた! 隣の奥さんも言ってたわ、『あの人が目を覚ます前に出て行け』って!」


狂乱状態のまま、美羽は今日起きた異常なことを矢継ぎ早にまくし立てた。華が恐ろしい言葉を口にしたこと、鏡の手形、そしてテレビのノイズ。


しかし、裕人の反応は、美羽が最も恐れていたものだった。

彼はテレビの裏側に転がっているプラグを拾い上げ、コンセントに差し直した。そしてリモコンを操作すると、ごく普通にニュース番組が映し出された。


「……テレビは壊れてないぞ」

「違うの、さっきは本当に——」

「美羽。落ち着いてくれ」


裕人は、美羽の肩を掴んだ。その手は力強く、しかし彼の目は、得体の知れないものを見るように冷たく引いていた。


「隣の奥さんって、挨拶に行ったのか? あの人はちょっと精神的に不安定だって、不動産屋が言ってたじゃないか。それに感化されたんだよ。コンセントが抜けてるのにテレビがつくわけないだろ。物理的に不可能だ」

「嘘じゃない! 華だって、あの部屋のお友達が怒ってるで……!」

「だからそれはイマジナリーフレンドだって言っただろ!」


裕人が初めて大声を出し、美羽はビクッと体を縮こまらせた。

裕人は深くため息をつき、ひどく疲れた顔で額を押さえた。


「……ごめん、大声を出して。でもな、美羽。お前、本当に疲れてるんだよ。幻覚を見るくらい、精神的に追い詰められてる。引っ越しのストレスに加えて、新居へのプレッシャーもあったんだろ。俺も仕事にかまけて、お前に全部押し付けちゃってたから……」

「違う、違うの。私は狂ってなんかない!」

「明日、俺が会社を休む。だから、一緒に病院に行こう。心療内科だ。薬をもらって少し休めば、きっと良くなるから」


それは、究極の絶望だった。

一番信じてほしい相手に、精神の異常を疑われている。

裕人の目は、「疲れ果てておかしくなってしまった可哀想な妻」を見る、同情と戸惑いの色で塗りつぶされていた。


彼は、決して信じないのだ。

自分自身が、あの「三つの目」と対峙し、肌で恐怖を感じるまでは。


「……わかったわ。もう、いい」

美羽は力なく腕を下ろした。

これ以上何を言っても無駄だ。夫婦の間に、決定的な深い亀裂が入る音がした。


部屋の隅で、またしてもあのひどく生臭い匂いが微かに漂い始めた。

だが、裕人は全く気付いていない様子で、ニュース番組に目を向けている。

美羽は、自分と華が、この逃げ場のない呪われた空間に完全に孤立してしまったことを悟り、声もなく涙を流し続けた。

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