第1章 天野家の新居
天野家の新居
引っ越し業者のトラックが遠ざかるエンジン音を聞き届け、慌ただしい喧騒が嘘のように静まり返ったリビングで、天野美羽は深く、長い息を吐き出した。
午後三時の西日が、真新しいオーク調のフローリングにオレンジ色の四角い模様をくっきりと描き出している。壁紙は一点のシミもない純白で、天井のダウンライトがお洒落な空間を演出していた。築四十年という建物の外観が持つ古さを、室内からは微塵も感じさせない。最近流行りの、フルリノベーション済み中古マンション。それが、天野家が手に入れた念願の「マイホーム」だった。
「いやあ、やっと終わったな。やっぱりいいもんじゃないか、俺たちの城って感じがする」
夫の裕人は、額に滲んだ汗をタオルで乱暴に拭いながら、満足げに部屋中を見渡した。中堅メーカーで営業として働く彼は、ここ数ヶ月、休日を返上してこの物件探しに奔走していた。予算内で都心へのアクセスも良く、これだけ綺麗に内装が整えられている物件は、まさに掘り出し物だったのだ。
「はなのおへや、どこ! ここはなのおへや?」
六歳になる一人娘の華は、何もない広々としたリビングを靴下で滑りながら、キャッキャと高い声を上げてはしゃいでいる。その無邪気な笑顔を見て、裕人は目を細めた。
「こら、走ったら下の階の人に迷惑だぞ。華の部屋は廊下の向こう。お母さんと一緒に段ボールを開けてきなさい」
「Hーい!」
元気よく返事をした華の背中を見送りながら、美羽も口元に微笑みを浮かべた。これでようやく、地に足の着いた生活が送れる。家賃の更新に怯えることも、手狭なアパートで肩を寄せ合うこともなくなるのだ。
しかし、美羽の心の奥底には、自分でも理由のわからない、どろりとした微かな違和感が沈殿していた。
匂いだ。
真新しい建材の糊の匂い、張り替えられたばかりの畳の青臭い匂い。それらに混じって、ふとした瞬間に鼻腔をくすぐる異臭がある。ひどく古い水と、長い年月をかけて繁殖したカビ、そして何かの動物の脂のような、得体の知れない生臭さ。
(気のせいよ。古い建物なんだから、配管の匂いくらいするわ)
美羽は自分に言い聞かせるように頭を振り、山積みになった段ボールの中から「洋室(北)」とマジックで書かれた箱を抱え上げた。
玄関を入ってすぐ右側にある北側の洋室は、将来の華の子供部屋であり、当面はハンドメイドを趣味とする美羽のアトリエとして使う予定の部屋だった。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開ける。
その瞬間、美羽はまるで見えない冷たい水のベールを潜り抜けたような、奇妙な感覚に襲われた。
「……冷たっ」
思わず独り言が漏れる。まだ春めいてきたばかりの気候とはいえ、今日は上着がいらないほど暖かい日だった。リビングは日差しでポカポカとしていたのに、この部屋だけは空気が明確に違う。ひんやりとしている、という生易しいものではない。肌の表面にじっとりとへばりつくような、骨の髄まで冷えるような底冷えだ。
北向きだから日当たりが悪いのは当然だ。しかし、それにしても異常だった。新調されたばかりのすりガラスの窓から差し込む光は、なぜか薄暗く、部屋の四隅に濃い影を落としている。
美羽は腕をさすりながら、部屋の真ん中に段ボールを置いた。静かだ。防音性の高い二重サッシのせいか、外の車の音すら全く聞こえない。まるで、この部屋だけが世界から切り取られ、深海に沈められているかのような錯覚に陥る。
ふと、背筋を這い上がるような悪寒を感じた。
誰かに、見られている。
そんなあり得ない視線を感じて振り返ったが、当然そこには純白の壁があるだけだ。
「……お母さん?」
ドアの隙間から、華がひょっこりと顔を出した。その手には、お気に入りのウサギのぬいぐるみが握られている。
「どうしたの、華。ここが華のお部屋になるんだよ」
美羽は努めて明るい声を出した。しかし、華は部屋の中に入ってこようとしない。ドアの境界線でピタリと足を止め、じっと部屋の奥——何もないクローゼットの扉の辺りを凝視している。
「華?」
「……ここ、寒いね」
華はぽつりとそう呟くと、踵を返してタタタッとリビングへ戻ってしまった。子供ながらに、この部屋の異質な空気を察知したのだろうか。美羽はため息をつき、急いで荷解きを済ませてしまおうと段ボールのガムテープにカッターの刃を入れた。
その日の夜。
引っ越しの疲労から、夕食はデリバリーのピザで簡単に済ませた。風呂から上がり、真新しいベッドに倒れ込んだ裕人と華は、文字通り泥のように眠りに落ちてしまった。
美羽も全身の筋肉が軋むほど疲れていたはずなのに、なぜか全く寝付けなかった。
寝室に置かれたデジタル時計の赤い文字盤が、午前二時を回っていることを告げている。
隣で規則正しい寝息を立てる裕人の背中を見つめながら、美羽は暗闇の中でじっと耳を澄ませていた。
静かすぎる。
冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸る音だけが、耳鳴りのように響いている。
——ギシ……。
不意に、微かな音が頭上から降ってきた。
美羽は息を止めた。
——トスッ……、トスッ……。
間違いない。足音だ。
何か重たいものを引きずるような、それでいて執拗に床を踏みしめるような、大人の足音。それが、天井のすぐ向こう側で鳴っている。
足音は、寝室の真上をゆっくりと行き来していた。何かを探しているのか、あるいはただ無意味に徘徊しているのか。一定のリズムを刻むその音は、明確な「意思」を持ってそこを歩いていることを証明していた。
美羽の全身から、じわっと冷や汗が噴き出した。
集合住宅なのだから、上の階の生活音が聞こえるのは当然のことだ。裕人はきっとそう言って、欠伸でもしながら寝返りを打つだろう。
だが、美羽の脳裏には、契約の際に不動産屋の担当者が口にした言葉が、ひどく鮮明に蘇っていた。
『現在、真上の四階のお部屋は空室となっておりますので、音を気にされることは当分ないかと存じます。引っ越しのご挨拶も、両隣と下の階だけで結構ですよ』
真上は、空室のはずだ。
誰も住んでいない暗闇の部屋で、一体「誰」が歩き回っているというのか。
——トスッ……、トスッ……、ピタ。
足音が、ちょうど美羽の頭上にあたる位置で、唐突に止まった。
見られている。
天井の分厚いコンクリートを透過して、暗闇の中に立つ「何か」が、真下でベッドに横たわる自分をじっと見下ろしている。
北側の洋室で感じたあのまとわりつくような冷気が、寝室の天井からゆっくりと降り注いでくるのを感じながら、美羽は朝が来るまで、ただただ毛布を握りしめて震えることしかできなかった。
翌朝。東向きのリビングの大きな窓から差し込む朝日は、昨夜の恐怖を嘘のように洗い流してくれた。
キッチンでコーヒーを淹れながら、美羽はトーストをかじっている夫に昨夜の出来事を打ち明けた。上の階から、確かに大人の足音が聞こえたのだと。
「あー、それね。おそらくウォーターハンマー現象か、建材の軋みだよ」
裕人はスマートフォンをスクロールしながら、顔も上げずにあっさりと答えた。
「ウォーターハンマー?」
「そう。水道の配管内を水が移動するときに発生する圧力変化で、ドンドンって壁や天井から音が鳴る現象。古いマンションだとよくあるらしいんだ。あとは、昼夜の寒暖差でコンクリートや木材が収縮して鳴る『家鳴り』だな。上の階の床じゃなくて、天井裏の配管とか建材の音を足音だと錯覚したんだろ」
論理的で、いかにも理系出身の裕人らしい回答だった。言われてみれば、あの規則正しい重い音は、水道管の振動だったのかもしれない。疲労困憊の頭が、勝手に「誰かの足音」という怪談じみた解釈をしてしまったのだろう。
「……そう、かもね。ごめん、変なこと言って」
「引っ越し初日で神経が高ぶってたんだよ。今日も無理しないで、荷解きはぼちぼちやってくれ」
裕人はコーヒーを飲み干すと、スーツのジャケットを羽織って慌ただしく出勤していった。
バタン、と重厚な金属の玄関ドアが閉まる音が響く。
再びマンションの部屋に取り残された美羽は、小さくため息をつき、リビングの隅に積まれた段ボールの山に向き合った。
午前中はいかにも順調だった。食器類をシステムキッチンに収め、本や日用品を棚に並べていく。華も「お手伝いする!」と張り切り、自分の絵本をリビングのローテーブルに並べて遊んでいた。
異変が起きたのは、正午を少し回った頃だった。
美羽は、自分の趣味であるハンドメイド用の道具が入った箱を開けていた。ミシン糸、布の端切れ、メジャー。それらを仕分けしている最中、あるはずのものが見当たらないことに気がついた。
布を裁断するための、鋼でできた重たい裁ちばさみだ。
「あれ……? 絶対この箱に入れたはずなのに」
底まで引っ掻き回しても、刃渡り二十センチもある大きなはさみは見つからない。昨日の梱包の際、最後に箱の隙間に押し込んだ記憶が確かな映像として脳裏に残っている。それなのに、箱の中は空っぽだった。
落としたのかと思い、周囲の床や、開け放たれている他の段ボールの中も探したが、どこにもない。
(おかしいな。どこかに紛れ込んだのかな……)
探し物を一旦諦め、美羽はお昼ごはんにしようと立ち上がった。華に声をかけようとしたが、いつの間にかリビングから姿を消している。トイレにでも行ったのだろうか。
美羽は冷蔵庫に向かい、華のために買っておいたオレンジジュースを取り出そうと、扉を引いた。
冷気が顔に吹き付ける。
そして美羽は、息を呑んで硬直した。
卵のパックと、使いかけのドレッシングが並ぶドアポケット。
そこに、探していた裁ちばさみが、刃先を下にして突き刺さるように収まっていたのだ。
冷たく冷やされた銀色の刃が、冷蔵庫内のLEDライトを反射して鈍く光っている。
「……え?」
美羽は震える手でそれを掴み出した。鋼の冷たさが指先から伝わってくる。
どうしてこんなところに?
自分で入れた? いや、あり得ない。いくら疲れているとはいえ、裁ちばさみを冷蔵庫に入れるなどという奇行を無意識にするはずがない。では、裕人が? いや、彼が私の裁縫箱を開ける理由がない。華がいたずらで? こんな重くて危ないものを、わざわざ冷蔵庫に?
じわりと、嫌な汗が背中を伝った。
部屋の空気が、急に薄くなったような気がした。
「……華? 華、どこ?」
美羽ははさみをシンクに置き、慌てて声を張り上げた。返事はない。
トイレのドアは開け放たれている。洗面所にもいない。寝室にも。
残るは一つ。あの、北側の洋室。
玄関の横にあるその部屋のドアは、数センチだけ細く開いていた。
美羽がゆっくりと近づいていくと、開いたドアの隙間から、あのぞっとするような冷気と一緒に、異様な音が漏れ聞こえてきた。
——ガリッ、ゴリッ、ガリガリガリッ。
何か硬いものを、力任せに壁に擦り付けるような音。
「華……?」
美羽はドアノブに手をかけ、一気に押し開けた。
部屋の中は、相変わらず不自然なほど薄暗く、そして底冷えがした。
部屋の奥、純白の新しい壁紙に向かって、華がしゃがみこんでいた。
その小さな右手には、赤いクレヨンが握りしめられている。華は、驚くべき力でクレヨンを壁に押し当て、乱暴に腕を上下に振り回していた。
「華! 何やってるの!」
美羽は血相を変えて駆け寄った。賃貸ではないとはいえ、新築同様にリノベーションされたばかりの真新しい壁だ。
だが、華の肩を掴んで振り向かせようとした美羽は、その「落書き」の異様さに言葉を失った。
それは、子供が描くような絵ではなかった。
お姫様でも、お花でも、家族の似顔絵でもない。
ただの、線だった。
狂ったように、幾重にも幾重にも重ねられた、赤黒い線。
まるで、壁の中から滲み出ようとする「何か」の形を、上から必死に塗りつぶそうとしているかのような、あるいはその輪郭をなぞって掘り出そうとしているかのような、暴力的な筆致。あまりに強く何度も擦り付けられたため、クレヨンはボロボロに崩れ、美しい白の壁紙は無残に破れて下地の石膏ボードが覗いていた。
「な、なにこれ……華、どうしてこんなこと……」
怒りよりも先に、底知れぬ恐怖が美羽の喉を塞いだ。
肩を掴まれた華は、ゆっくりと美羽の方を振り向いた。
クレヨンのカスで真っ赤に染まった手。
しかし、その表情は普段の天真爛漫な華のものだった。ただ、焦点の合っていない虚ろな目で、ふにゃりと無邪気に笑った。
「あのね、お絵描きしてるの」
「お絵描きって……これ、何を描いたの?」
震える声で尋ねる美羽に、華は壁の真っ赤な染みを指差して、嬉しそうに答えた。
「おめめだよ」
「……え?」
「い-っぱい、おめめがあるの。あかいおめめ。だから、赤でなぞってあげたの」
美羽は弾かれたように壁を見た。
無数の赤い線。それが一瞬、数え切れないほどの充血した眼球の群れに見え、美羽は短く悲鳴を上げて華を抱き寄せた。
「お母さん、どうしたの?」
不思議そうに首を傾げる華を抱きしめたまま、美羽は部屋の隅——暗いクローゼットの方向を睨みつけた。
気のせいではない。この部屋には、確実に「何か」がいる。
美羽の腕の中で、華が誰にともなく、くすくすと笑い声を上げた。
壁紙用のクリーナーをたっぷり吹きかけ、メラミンスポンジで何度擦っても、赤いクレヨンの痕は完全に消えることはなかった。
まるで、白い壁紙の裏側に広がる毛細血管が透けて見えているかのようだった。擦れば擦るほど、その赤黒い線は壁そのものに深く染み込んでいくように感じられ、美羽は苛立ちと得体の知れない恐怖から、スポンジを持つ手を震わせた。
夜の九時を過ぎて帰宅した裕人は、無残な洋室の壁を見るなり、珍しく声を荒らげた。
「華! なんだこれは。壁に落書きしちゃ駄目だって、前に約束したよな?」
ネクタイを緩めながら叱責する裕人の前に、華はちょこんと正座をして、しかし全く悪びれる様子もなく首を横に振った。
「華じゃないもん。お友達が描いたの」
「お友達? 引っ越してきたばかりで、家に誰か遊びに来たのか?」
「ううん。このお部屋にいるお友達。おめめがいっぱいあるお友達がね、描いてって言ったから、華がお手伝いしたの」
裕人は大きくため息をつき、困惑したように美羽の方を見た。美羽は青ざめた顔で、昼間に冷蔵庫の中から裁ちばさみが見つかったこと、華の様子がどこかおかしいことを必死に訴えた。
「ねえ、やっぱりこの部屋、何かおかしいわ。空気も冷たすぎるし、誰かに見られているような気がして……」
「美羽、落ち着いてくれ。幽霊の仕業だとでも言うのか?」
裕人は呆れたように肩をすくめ、華の頭を撫でた。
「イマジナリーフレンドだよ。心理学でよくあるやつだ。引っ越しっていう劇的な環境の変化で、子供は強いストレスを感じるんだ。その不安を和らげるために、想像上の友達を作り出す。壁の落書きも、その『お友達』のせいにすることで、無意識に自分を守ろうとしているんだよ」
「でも、あの裁ちばさみは……」
「美羽だって疲れてるんだ。引っ越しの準備から片付けまで、ずっと気を張ってただろ? 無意識に変な場所に物を置いちゃうことくらい、俺にだってある。今日はもう休もう。壁紙はあとで業者を呼んで一部だけ張り替えればいい」
理路整然と語る裕人の言葉は、いつもなら美羽の心を落ち着かせてくれるはずだった。しかし今夜ばかりは、その「正論」がひどく空々しく聞こえた。彼はあの部屋の冷たさを感じていない。冷蔵庫で冷え切った鋼の刃の、あのぞっとするような重みを触っていないのだ。
「……そうね。疲れてるだけかも」
これ以上言っても無駄だと悟り、美羽は無理に微笑んでみせた。裕人は満足そうに頷き、風呂へ向かった。
その夜。
美羽は再び、不自然なほど静まり返った暗闇の中で目を覚ました。
枕元の時計は午前二時十三分を指している。昨夜天井を歩き回っていた足音は、今日は聞こえない。
隣では裕人が深い寝息を立て、ベビーモニターからは別の部屋で寝ている華の穏やかな呼吸音が聞こえてくる。
(なんだ……今日は、何もないじゃない)
ホッと胸を撫で下ろした直後だった。
鼻先を、あのひどく生臭い匂いが掠めた。
古い水、ヘドロのような泥の匂い、そして動物の脂が腐ったような悪臭。昼間に北側の洋室で感じたあの異臭が、寝室にまで濃密に漂い始めていた。
——ピチャッ……、ズルッ……。
廊下の方から、微かな水音が聞こえた。
誰かが、濡れた雑巾を引きずって歩いているような音。
美羽は全身の血が凍りつくのを感じた。
寝室のドアは、換気のためにほんの数センチだけ開けていた。その細い縦の隙間の向こうは、常夜灯すら点けていない真っ暗な廊下だ。
——ズルッ……、ピチャ。
音は、確実に寝室のドアに向かって近づいてくる。
華がトイレに起きた音ではない。あんなに重く、湿った音を子供が立てるはずがない。では、裕人か? いや、彼はすぐ隣で寝ている。
息をするのも忘れ、美羽はドアの隙間を凝視した。
暗闇の向こう側で、何かが動いた気がした。
それは「人間」の高さにはなかった。
床すれすれ、地上数十センチの低い位置。そこに、黒いドロドロとした『塊』のようなものが、這いようにして張り付いているのが見えた。
美羽の心臓が、肋骨を突き破るほどの勢いで早鐘を打ち始める。
黒い塊が、ドアの隙間にゆっくりと近づいてくる。
そして、その数センチの細い空間に、ぬるりと「何か」が滑り込んできた。
最初は、泥水に濡れた長い黒髪かと思った。
だが、違う。
それは、真っ白で、ひどく浮腫んだ『指』だった。
関節が奇妙な方向に曲がった何本もの指が、ドアの隙間から這い出し、室内のフローリングを芋虫のように蠢きながら掴んでいる。
悲鳴を上げようと大きく口を開けたが、極度の恐怖で喉が痙攣し、ヒュッという掠れた音しか出なかった。
さらに美羽を絶望の淵に突き落としたのは、その指のすぐ上、ドアの隙間の暗がりに浮かび上がったものだった。
目だ。
一つではない。縦に、無秩序に並んだ、三つの眼球。
白目が黄色く濁り、赤い毛細血管がびっしりと走ったその目玉たちが、隙間から部屋の中を、いや、ベッドの上で硬直する美羽を、瞬きもせずにじっと見つめていた。
華が言っていた「あかいおめめ」という言葉が、フラッシュバックする。
あの壁の無数の赤い線は、これを描こうとしていたのだ。
隙間の向こうから、ボコボコと水泡が破れるような音がした。
そして、泥水をすするような、ひどくしゃがれた女の声が、美羽の鼓膜に直接こびりつくように響いた。
『……いたい……おなかに、はいってる……いたい……』
意味のわからない怨嗟の呟き。
同時に、ドアの隙間から伸びていた白い指が、ズルリとさらに部屋の中へ侵入してきた。
その手首の先には、何か銀色に光るものが、肉に深く食い込むように突き刺さっていた。
(——裁ちばさみ!)
昼間、冷蔵庫の中で見つけたはずの、あの重たい裁ちばさみ。
それが、得体の知れないものの手首に、串刺しのように貫通していたのだ。
『……かえして……はさみ……かえして……』
縦に並んだ三つの目が、ギョロリと弧を描いて笑った瞬間。
パチン、と大きな音を立てて、部屋の温度が急激に下がった。
耐えきれない恐怖と寒気、そして濃密な腐臭に意識を刈り取り、美羽の視界はついに真っ暗に染まった。
薄れゆく意識の最後、隣で寝ているはずの裕人が、どこか遠くで楽しそうに誰かと会話しているような、そんな幻聴が耳を掠めていった。




