エピローグ
あれから、半年が過ぎた。
季節は巡り、街路樹が赤や黄色に色づく十一月の半ば。
天野家は、あの忌まわしいマンションから遠く離れた別の街で、築年数の古い2LDKの賃貸アパートを借りて新しい生活を始めていた。
401号室は、すぐに手放した。もちろん買い手などつくはずもなく、結局は不動産会社に二束三文で引き取られ、天野家には多額のローンだけが重くのしかかることになった。
それでも、美羽の心は晴れやかだった。
どれほど狭くても、古くても、この部屋の壁から血が滲み出すことはない。天井から何者かの足音が聞こえることもないし、冷蔵庫から鋼のハサミが出てくることもない。
何より、あの事件を境に、裕人が変わった。
現実主義で仕事ばかりだった夫は、人が変わったように早く帰宅するようになり、休日は必ず家族三人で出かけるようになった。「俺たちの城」は失ったが、家族の絆は、皮肉なことにあの悪夢を経てより強固なものになっていた。
「お母さん、今日のご飯なにー?」
リビングのこたつで寝転がりながら、華が画用紙にクレヨンを走らせて無邪気な声を上げる。
「今日は華の大好きなハンバーグだよ。お父さん、もうすぐ帰ってくるから、お片付けしておいてね」
「はーい!」
キッチンで玉ねぎを刻みながら、美羽は目を細めた。
華の心にも、あの数日間の凄惨な記憶はトラウマとして残っていないようだった。高熱でうなされていた間のことは「怖い夢を見ていた」くらいにしか覚えておらず、今ではすっかり元の明るい笑顔を取り戻している。
(……終わったんだわ。本当に)
裕人があの呪物の核を粉砕したことで、四十年間マンションに巣食っていた母親の怨念は完全に消滅した。
時折、ニュースであのマンションの映像が流れることがあるが、美羽はすぐにチャンネルを変えるようにしている。もう、あの過去には二度と触れたくなかった。
ジューッ、とフライパンでハンバーグが焼ける良い匂いガ、小さなアパートの部屋に立ち込める。
「華、上手にお絵描きできた?」
火加減を弱めながら、美羽はリビングの華に声をかけた。
「うん! できたよ!」
華は嬉しそうに立ち上がり、画用紙を両手で掲げた。
そこに描かれていたのは、華と美羽、そして裕人が手を繋いで笑っている、色鮮やかな家族の絵だった。使われている色は、赤だけではない。ピンク、黄色、青。ごく普通の、六歳の女の子らしい優しい絵だ。
「わあ、すっごく上手! お父さんが帰ってきたら見せてあげなきゃね」
美羽が微笑むと、華はえへへと照れ笑いをした。
しかし。
ふと、華の視線が、美羽の顔から外れた。
華は画用紙を下ろし、こたつの斜め後ろ——部屋の隅の、何もない空間をじっと見つめた。
その瞳の奥に、ほんの一瞬、あのマンションの北側の洋室で見せたような、焦点の合えない虚ろな色が浮かんだのを、美羽は見逃さなかった。
「……華? どうしたの、そんなところ見て」
美羽の胸の奥で、嫌な動悸が跳ねた。
気のせいだ。ただの偶然だ。
自分にそう言い聞かせようとしたが、キッチンの足元から、ふわりと、季節外れの「冷たい空気」が這い上がってくるのを感じた。
換気扇は回っているのに。
焼けるハンバーグの香ばしい匂いに混じって、ごく僅かに、ツンとするような泥水のような匂いが鼻を掠めた気がした。
華は、何もない虚空を見つめたまま、ふにゃりと無邪気に微笑んだ。
そして、誰もいない空間に向かって、親しげに首を傾げてこう囁いた。
「……うん、一緒にきたよ」
ガシャンッ!!
美羽の手から滑り落ちたフライ返しが、床に落ちて甲高い音を立てた。
華がゆっくりとこちらを振り返る。
その目は、いつもの愛おしい娘の目だった。しかし、彼女の背後の空間だけが、まるでそこだけ光が届いていないかのように、どんよりと薄暗く歪んで見えた。
『一緒にきたよ』。
呪いの「母」は、あのとき確かに消滅した。
しかし、彼女が四十年間探し求め、あの床下の木箱の中で肥大化し続けていた「子供」の怨念の欠片は——。
本当に、完全に消え去っていたのだろうか。
「あ……ぁ……」
美羽の喉から、声にならない乾いた音が漏れた。
部屋の温度が、一気に下がっていく。
華の無邪気な笑顔の向こう側、薄暗い部屋の隅から、ピチャ……という、水気を帯びた微かな音が響いた。




