第009話 千の毒を知る舌
戸板に乗せられたミレーヌ様の体は、庭を抜けるあいだにも、みるみる色を失っていった。
唇は紫がかり、額には脂汗が浮いている。私は隣を歩きながら、指を喉元に添えて脈を数え続けた。速い。速すぎる。
「殿下、王弟宮の私の部屋へ。道具は全部、あそこに揃っています」
殿下は前を向いたまま、短く応じた。
「モローには使いを出した。もう着く頃だ」
短いやり取りのあいだにも、戸板を担ぐ近衛たちの足は止まらない。
冬枯れの庭を抜け、回廊を渡り、私たちは全速力で王弟宮へ戻った。
寝台に横たえられるなり、私は震える手で道具箱を開けた。乳鉢、炭の粉、酢を含ませた布——毒見役の家に伝わる、応急の一式だ。
「水を。それと、清潔な布を有るだけ」
命じるというより、口をついて出た言葉だった。殿下は何も言わず、近衛たちへ短く指を振る。
程なくモロー侍医長が、寝間着の上に上着だけを羽織った姿で駆け込んできた。
「一体何が——」
問いを最後まで聞かず、私は道具箱の中身を並べながら答えた。
「毒です。仕込まれたのは、昨日今日ではありません。胃に残る分があれば、炭に吸わせます。血に入って目を覚ました分は——薄めて、体が戦うのを支えるほかありません。手を貸してください」
酢を含ませた布には、手を伸ばしかけて、やめた。吐かせて間に合う段階は、とうに過ぎている。
モローは一瞬だけ息を呑んだ。それから、迷いのない手つきで道具を受け取っていく。
最初の日、私に食ってかかった男と同じ人物とは、もう思えなかった。
「モロー様は脈を。百を数えるごとに、速さを教えてください。それから手足を布で包んで、温めてください。末端が冷えれば、心の臓の負担が増します」
指示を出す自分の声が、驚くほど平らに響いた。震えは、手にだけ残っていた。
「心得た」
短い返事だけを残して、老侍医は寝台の反対側へ回った。
炭の粉を溶いた水を、匙でミレーヌ様の口の端からゆっくりと流し込む。喉が鳴るのを確かめては、白湯を続けて含ませた。毒を消す手ではない。体が戦い続けるための、時間を稼ぐ手だ。
千の毒を知る舌が、知らない毒に負けるわけにはいかない。匙を持つ指に、その一心だけを込めた。
見守っていた近衛の一人が、小さく呟いた。
「……この方は、殿下を害した側では」
耳が、その声を拾った。手を止めず、私は振り返らずに答えた。
「死なせません。この子は、私と同じ被害者です」
低い声だったが、部屋の空気が一瞬、止まった。
それきり、誰も何も言わなかった。
手だけが、動き続けていた。
夜が更ける前に、殿下は近衛たちを残らず扉の外へ立たせた。回廊を固めよ、と短く命じただけだった。
それからの寝台の傍らは、静かだった。モローが脈と息を数え、私が新しい布を替え、殿下が黙って灯りを絶やさない——それだけの、長い時間だった。
蝋燭が二度、短くなって替えられた。
ミレーヌ様の唇から、紫が少しずつ引いていく。頬に、乾いた薄紅が戻り始めたのは、夜半を過ぎた頃だった。
「峠は、越えたようです」
モローの声に、初めて力が抜けた。解毒の妙手が効いたのではない。若い体が昼夜をまたいで、毒と戦い抜いたのだ。私は寝台の縁に手をついたまま、しばらく動けなかった。
「殿下。ミレーヌ様のお部屋から、身の回りの品を運んでいただけますか。特に、薬の類を」
殿下が目で問う。私は寝台の上、まだ青白いミレーヌ様の顔を見ながら答えた。
「この毒は、香水とは別物です。ですが、外から持ち込まれたのなら、どこかに入れ物があるはずです」
侍女が運んできた小さな革の袋の中に、それはあった。銘のない白磁の小瓶。中には、丸薬が数粒。
「……これは」
蓋を開け、匂いを確かめる。乾いた薬草の匂いに混じって、あの重い苦みが、かすかに鼻の奥へ抜けた。
「頭痛の薬、と聞いていたものです」
殿下の低い声に、私は頷いた。
「香を切らすと眠れず、頭が割れるようだったと、ミレーヌ様は仰っていました。この丸薬は、その痛みを鎮めるために渡されていたのだと思います」
殿下の眉間に、深い皺が寄った。
「その薬に、毒が」
すぐには答えなかった。小瓶を光にかざし、丸薬の断面をもう一度検める。表と裏で、わずかに色味が違っていた。痛みを鎮める層と、毒の層。二層に分けて固めてある——町の薬師にできる仕事ではない。職人の手だ。
「はい。おそらく——香りで縛り、離れられなくしたうえで、離れられない苦しみを鎮める薬にまで、仕込んでいたのです」
言いながら、背筋が冷えた。依存で縛り、その苦しみを取り除く手すら、同じ相手が握っている。逃げ場を、初めから残していない造りだった。
「発する条件は分かるか」
殿下の問いに、私は倒れる前のミレーヌ様の様子を思い返した。
話が核心へ近づくにつれ、汗と震えが段階を踏んで強まっていったこと。名を口にしようとした、そのときに喉が詰まったこと。
「胸の高鳴りだと思います。ただし——ただ速いだけの脈では、起きません」
「どういうことだ」
殿下の視線が、眠るミレーヌ様の顔へ一度落ち、それから私へ戻った。
「ミレーヌ様は、テオの一件からずっと怯えの中におられました。飲み食いを恐れ、真冬の四阿で一晩を明かし、私と向き合ってからも、話が核心に触れるより前から指は震えていました。怯えで起きる毒なら、とうに起きていたはずです」
私は自分の胸に手を当て、鼓動の形をなぞるように、ゆっくりと押し上げてみせた。
「それでも、起きなかった。閾は、もっと高いところにあります。怯えの速い脈ではなく、山なりに強く打ち上がる高鳴り。銀糸草が絹越しの肌の上でじっと眠り、棘の一突きで血に流れ込んだように——この毒も体の内で眠り、閾を越える高鳴りでだけ、目を覚ますのだと思います」
殿下は、しばらく何も言わなかった。窓辺の暗がりの中で、灰青の瞳だけが、ゆっくりと私へ向く。
「誰かに何かを打ち明けようとする瞬間を、狙って仕込んだ毒か」
背筋の冷えるような声だった。私は小瓶を両手で包むように持ち直し、静かに首を振った。
「毒に、瞬間は狙えません。狙えるのは、強い高鳴りで倒れる——そこまでです」
一拍おいて、言葉を選び直す。
「仕込んだ者が狙ったのは、瞬間ではなく、人間の性のほうです。駒が裏切りを口にするとき、心は最も高鳴る。その性ごと、罠にしたのです。運が悪かったのではありません」
殿下の目が、見る間に険しくなった。拳が、無意識のうちに握られている。
握られた拳から目を逸らすように、私は手の中の小瓶へ視線を落とした。
「毒の名までは、まだ分かりません。書物にも、聞き覚えがありません」
沈黙が落ちる。蝋燭の芯が、小さく爆ぜる音だけが響いた。
「ですが、経路は分かりました。この丸薬です。この銘のない小瓶がどこから来たのか、辿れば——」
殿下の目に、初めて熱に似た色が浮かんだ。
「『あの方』に、また一歩近づく」
殿下が、私の言葉を先取りした。声には、はやる響きがあった。
私は頷いた。誰の手が、これを調合し、誰の手がこれを届けたのか。答えは、まだ小瓶の中に眠ったままだった。それでも、初めて手にした確かな糸口だった。
夜明けにはまだ遠い時刻、モローが「何かあれば、すぐ呼びなさい」と言い置いて、自室へ下がっていった。室内は、眠るミレーヌ様と、私と殿下だけになった。
私は寝台の脇に座り込んだまま、動けずにいた。二日、まともに眠っていない体が、今になって重く軋み始めている。
「食え」
低い声とともに、湯気の立つ椀が差し出された。殿下だった。手にはもう一つ、私の肩にかけるための毛布を提げている。
「殿下も、お休みください。今夜は私が——」
殿下は取り合わず、椀を私の手に押しつけた。
「お前が倒れれば、元も子もない」
有無を言わせぬ言い方に、私は椀を受け取った。
滋味深い匙を口に運びながら、殿下がミレーヌ様の眠る顔を見つめているのに気づいた。
「殿下?」
殿下は椀の湯気を見つめたまま、しばらく答えなかった。
「……昔、似たようなことがあった」
呟くような声だった。私は匙を止め、続きを待った。
「十二の頃だ。父上主催の茶会で、供された茶に手を伸ばした。誰も、疑いもしなかった」
殿下は椅子の背にもたれ、遠くを見るように目を細めた。
「止めたのは、俺より頭一つも小さい、六つかそこらの娘だった。碗に鼻を寄せて、一言だけ言った。『これは、飲んではいけません』と」
胸の奥が、小さく鳴った。椀を持つ手が、止まっている。
「その子は」
殿下は、遠い記憶をたどるように、しばらく間を置いた。
「毒見役の見習いだった。母親に連れられて、控えの間にいたはずの子だ。誰も呼んでいないのに、俺の傍まで来て、碗を取り上げた」
殿下の視線が、ようやく私に戻る。灰青の瞳の奥に、あの日の記憶が、まだ濡れたまま沈んでいるように見えた。
「名も知らなかった。だが、あの舌だけは覚えていた。迷いのない、あの目もな」
心の臓が、大きく跳ねた。答えを、まだ言葉にできずにいる私に、殿下は静かに続けた。
「……それが」
言葉に詰まった私を見て、殿下がふっと息をついた。
「三日を生き延びたら答える、と言ったはずだ」
殿下の口の端が、わずかに緩んだ。今まで見た中で、いちばん柔らかな表情だった。
「相変わらず、良い舌だ——あの日から、俺はお前を知っていた」
言葉が、胸の奥に染み込んでいく。第一話で投げかけられた、あの一言の意味を、ようやく手渡された気がした。
「覚えていません。……そんな日があったことすら」
殿下は、それでも構わないというように、小さく首を振った。
「いい。俺だけが覚えていれば、それで十分だった」
静かな声だった。
恐れも、駆け引きもない、ただの独白のような響き。
殿下の指先が、私の肩にかかった毛布の端を、そっと直した。触れたのは一瞬で、けれどその一瞬が、いつもより長く感じられた。
その指が、こんな夜更けの、二人きりの部屋でも、薄い革の手袋に覆われたままなのに、私は初めて気づいた。灯りを絶やさぬあいだも、殿下はそれを一度も外さなかった。
視線に気づいたのか、殿下は自分の手へ目を落とした。
「剣を執る手の掌に、指の付け根から手首へ斜めに走る古い傷がある。見苦しいものだ。人前で晒すほどのものでもない」
なんでもないことのように言って、殿下は手を引いた。それでも、傷のことを口にした声には、ふだんより幾らか素の響きが混じっていた。
椀の中身を飲み干す頃には、外が薄青く色を変え始めていた。ミレーヌ様の胸が、規則正しく上下している。峠は越えた。
けれど、目を覚ますのを待つだけ、ではないのだ。私は白磁の小瓶を、もう一度手に取った。
「殿下。ミレーヌ様が目を覚ましても——名を、言わせてはいけません」
殿下が、わずかに目を細めた。私は小瓶から目を離さずに続けた。
「炭で留められたのは、胃に残っていた分だけです。血の内で眠る分が抜けたのかどうか、名も知らない毒では、確かめる手立てがありません。高鳴りが引き金である限り、名を口にしようとすれば、同じ罠がもう一度、心の臓を絞めます」
殿下は腕を組み、眠るミレーヌ様へ目をやった。
「……倒しても、殺さず。生かしたまま、口だけを封じるか」
低い声に、抑えた怒りが滲んでいた。私は頷いた。
「ですから、辿れる糸はこの小瓶だけです。人の口ではなく、物に語らせます。——それにしても、恐ろしいのは、名の分からない毒がこの世にあるという事実そのものです。書物に載らない毒を、いったい誰が」
殿下は、しばらく黙っていた。灰青の瞳が、窓の外の白みかけた空へ向く。
「……お前に、話しておかねばならないことがある」
声の温度が、また変わった。先ほどまでの柔らかさが引き、代わりに硬い重みが戻ってくる。
「先王もまた——銀糸草で死んだ」
短い一言が、静まり返った部屋に落ちた。
外の空が、白く明けていく。夜明けの光の中で、私はまだ、その言葉の重さを持て余していた。




