第008話 男爵令嬢の告白
夜明け前の庭は、灰色の靄に沈んでいた。
夜半、離れた目として置かれた近衛から、報せが届いていた。ミレーヌ様が人目を忍んで居室を抜け出し、離宮の奥の四阿に潜んでいる、と。
あの文には、場所も刻限も書かれていなかった。書けなかったのだろう。それでも隠れた先が知れたのは、殿下が昨夜のうちに置いた「離れた目」のおかげだった。
ヴィンセント殿下と私は、約束の夜明けを待って、王弟宮の裏口から音もなく庭へ出た。供の近衛は、一人も連れていない。
靴の下で霜が鳴る。それだけが、この静けさの中で唯一の音だった。
あの夜会から、これで五度目の朝になる。テオの亡骸が見つかった朝からは、二日。
口封じの手は、いつだって私たちより半歩だけ早かった。今度こそ、先に着かなければならない。
「ミレーヌ嬢は、まだ四阿から動いていない。侍女に化けさせた近衛を、目立たぬ距離に幾人か置いてある」
殿下が振り返らずに言う。声は低く、抑えられていた。
気づかれてはいませんか、と問うた私に、殿下は「今のところは」とだけ返した。長くは保たない、ということだ。
真冬の、夜明け前だ。暖ひとつ取れない屋外に、令嬢が自ら潜んでいる。その意味を思うと、足が自然に速くなった。
回廊の角を折れたとき、殿下が不意に私の腕を引いた。息を殺して身を寄せた壁の向こう、巡回の足音が二つ、ゆっくりと通り過ぎていく。
「……巡回にも、報せていない。半刻で漏れる王宮だ」
殿下が、耳元で低く言った。王宮の警備を統べる方が、ご自身の巡回から身を隠している。
評議の中身を半刻で扇の内まで運んだ、あの見えない口。それがどこに繋がっているのか、まだ誰にも分からない。用心は、それほどのものだった。
「……行くぞ」
短い一言に、頷き返す。心の臓が、まだ速く打っていた。
四阿は、使われなくなった薔薇園の奥にあった。冬枯れた蔓の合間から、白い影が一つ、うずくまっているのが見える。
近づくと、その影が肩を震わせた。
「……ミレーヌ様」
小さな悲鳴が漏れ、それから私の顔を確かめて、大きく息をついた。
「リディア様……本当に、来てくださった」
夜会で見た甘い作り声は、どこにもなかった。年相応の、震えた素の声だった。
頬はこけ、目の下には濃い隈が沈んでいる。文を書いてからの数日が、どんな時間だったのかを語る顔だった。
殿下は四阿の外に立ち、私だけが中へ入った。「話は俺も聞く。だが、まず二人で」——それが殿下の判断だった。
私は懐から、あの夜届いた紙片を取り出した。震えた文字で「たすけて」とだけ書かれた、あの手紙だ。
「これを、書かれたのはあなたですか」
ミレーヌ様の視線が、紙に落ちる。喉が、小さく上下した。
「……はい。私です」
震える指先が、紙の上をなぞる。細い指は今も、祈るような形に組まれようとしていた。
「筆跡に、見覚えはありませんでした。正直に申し上げれば、確信もなかったのです。ただ——祈るように指を組む、その癖を持つ方を、私は一人しか存じません」
「……お返事は、待てませんでした。お部屋にも、いられなくて。テオ様が亡くなったと聞いてから、運ばれてくるお食事も、お水も、恐ろしくて」
ミレーヌ様は紙片から目を離さないまま、切れ切れに続けた。
「隠れられる場所で、あの文が、誰かを連れてきてくださるのを……祈るしか、なかったんです」
期待ではなく、祈りだった。返事の来ようもない文を投げて、真冬の四阿で夜を明かす。それが、この方に残された最後の手段だった。
ミレーヌ様の目に、みるみる涙が盛り上がった。
「……もう、誰にも言えないと思っていました。言えば、殺されると」
「今は、私だけです。ゆっくりで構いません」
私は彼女の隣に膝をつき、震える手を両手で包んだ。冷たかった。この寒さのせいだけではないと、すぐに分かった。
「香水も、白薔薇も——私が選んだものでは、ありません」
声を絞り出すように、ミレーヌ様が言った。
「全部、『あの方』から届けられました。使う日と、使う場所だけを指図されて。中身を、聞かされたことは一度もありません」
「その方の、お顔は」
「知りません。いつも、文だけです。使いの者すら、顔を隠していました」
視線は、泳がなかった。嘘をつく者は、問いのあとに目が動く。毒見の疑いの場で、私は何度もそれを見てきた。
この方の目は、ただ疲れて、乾いているだけだった。
「従わなければ、どうなると」
ミレーヌ様の肩が、大きく震えた。
「父と弟を、路頭に迷わせると。父はもう長くは……弟はまだ十にもなりません。男爵家の借財を、あの方が肩代わりしていると知ったのは、去年の冬でした」
言葉と一緒に、涙がこぼれ落ちる。あざとい悪女は、そこにいなかった。家族のために差し出された、十七の娘がいるだけだった。
「私が着飾って王太子殿下に近づくたび、リディア様が嗤われているのを、知っていました。苦しかった。でも、逆らえば、家族が死にます」
私は何も言わず、震える手を握る力を、少しだけ強くした。
婚約という名の務めを、ただ黙って受け入れてきた自分の姿が、彼女に重なって見えた。選ばされる側の痛みは、私もよく知っている。
「香水を、切らした夜は」
私は静かに問うた。答えは、もう半分分かっていた。
「眠れません。手が震えて、頭が割れるように痛みます。……もう、あれなしでは、生きていけない体に、なっていました」
ミレーヌ様は俯いたまま、乾いた声で続けた。
「気づいたときには、もう、遅くて。……あれは、香りだけの、ものじゃ、なかったんです」
寒空の下だというのに、ミレーヌ様の額には薄く汗が滲んでいた。指の震えも、話し始めたときよりひどくなっている。
怯えのせいだと、私はそのときまだ、そう思っていた。
「あの方から、指図を受けるときは、どういう形で」
「文です。差出人はなく、決まって夜中に、裏口の隙間から差し込まれています。読んだ端から、燃やすようにと」
「返事は」
「一度もしたことはありません。指図に、従うだけでした」
読んだ端から、燃やす。あの離れの暖炉で、テオが燃やしていた文が頭をよぎった。駒への指図は、いつも紙一枚で届いて、灰になって消える。
殿下が四阿の入り口から、静かに口を挟んだ。
「文が来た日を、覚えているか」
「日付は、覚えていません。でも……いつも、月のない夜でした」
殿下の目が、わずかに細くなる。私の隣で、何かを頭の中に書き留めているのが分かった。
私はミレーヌ様の顔を、まっすぐに見た。
「テオという侍従を、ご存じですか」
「白薔薇を、私に渡した方です。……亡くなったと、女官たちが噂していました」
声が、また震え始めた。
「私の次は、自分の番だと思っていました。だから、あの夜のうちに文を書いたのです。誰かに——リディア様に、知ってほしかった」
言い終えると、ミレーヌ様は小さく咳き込んだ。喉の奥で、何かに引っかかるような音がする。
私は握った手にそっと力を込め、脈を確かめた。少し、速い。だがそれも、話し疲れたせいだろうと思っていた。
夜明けの光が、四阿の隙間から差し込み始めていた。灰色だった庭に、うっすらと色が戻ってくる。
「ミレーヌ様。指示していたのは——」
私は、最後の一つを尋ねようとした。
ミレーヌ様が、小さく口を開く。
「指示していたのは、確か——」
言いかけた声が、不意に途切れた。
喉の奥で、ひゅっと空気が鳴る。次の瞬間、彼女の体が横に崩れた。
「ミレーヌ様!」
抱き止めた体は、燃えるように熱かった。唇の端から、白い泡が滲み出している。
「殿下、お力を——毒です!」
叫ぶより早く、殿下が駆け込んでくる。私は手巾を引き抜き、指に固く巻いた。
正体の知れない毒に、素手はご法度。毒見の教えの、最初の一つだ。
手巾越しにミレーヌ様の顎へ指をかけ、唇の内側を検める。香水の甘い匂いの奥に、覚えのない匂いが混じっていた。
迷ったのは、一呼吸だけだった。唇の端の泡を手巾の端に掬い取り、米粒の半分にも満たない量を、舌先に乗せる。
「待て、それは——」
「名の分からない毒は、救えません。この量なら、私の体は負けません。毒への慣らしは、常人の比ではありませんから」
殿下の制止が終わるより早く、賭けは済んでいた。
重い苦み。あの香水の毒とは、違う。もっと重く、もっと遅く効く毒だ。
「香毒ではありません。別の、もっと前から仕込まれていた毒です」
「いつからだ」
「分かりません。ですが、昨日今日のものではないはずです。……日を計って仕込めるような毒が、この世にあるのでしょうか。私の、知らない毒が」
先刻の汗も、速い脈も、話し疲れなどではなかったのだ。
泣きながら喉を震わせ続けたことで、血の巡りが速まり、眠っていた毒を起こしてしまったのかもしれない。名を言おうとした、その気力が命を縮めた——今は、そうとしか考えられなかった。
震える喉から、かすかな息が漏れている。まだ、間に合う。舌先に残るこの苦みを、私は知らない。だが知らないだけで、諦める理由にはならなかった。
「殿下、水と布を。それと私の道具を全部、王弟宮から運ばせてください。モロー侍医長にも、すぐ人を」
短く「分かった」と応じるなり、殿下は四阿の外へ怒鳴った。近衛の足音が、四方から駆け寄ってくる。
誰かが上着を脱いでミレーヌ様の体を包み、誰かが担架代わりの戸板を運んでくる。もう隠れる必要はなかった。
「動かして大丈夫か」
「慎重に。頭を、低くしないでください」
私は短く指示を出しながら、手巾を巻いた指を口の中に差し入れ、気道を確かめた。この舌が知らない毒に出会ったのは、初めてではなかった。
腕の中で、ミレーヌ様の呼吸が浅くなっていく。
指示していたのは——その続きは、まだ誰も聞いていない。
千の毒を知るこの舌で、彼女を死なせはしない。そう決めた瞬間、夜明けの庭に、初めての太陽の光が差し込んだ。




