第007話 社交界は毒よりも早くまわる
四日目の朝を迎えても、私はまだ牢へ送られていなかった。
三日の刻限は、昨夜のうちに尽きた。けれど、私はもうその数字を数えていない。昨日、テオの亡骸の傍らで、殿下は取引を破棄すると言い切った。お前の首は、これより俺が預かる——と。刻限を盾に私を牢へ押し込みたい者がいても、あの一言が、今はその手を止めている。数えるべきは、残り半日の猶予ではない。宰相府の奥へ、どこまで調べの手が届くか——今朝の私を占めていたのは、そちらの問いだった。
窓の外はよく晴れていた。庭木の影が、昨日までとまるで変わらない形で伸びている。世界の側は、何も揺れていないのだと思うと、少しだけおかしくなった。
運ばれてきた朝餉に、いつもの癖で先に匙を通す。香りも味も、変わったところはない。疑う手順はもう体に馴染んで、考えるより先に匙が動く。毒見役の朝は、疑うところから始まる。四日目になっても、その順序だけは変わらなかった。
食べ終える頃、殿下が居間へ戻ってきた。昨日、テオの検死を終えたその足で、殿下は宰相府へ踏み込む許しを求めに動いていた。その答えを、夜通し待っていたらしい。上着が、昨日のままだった。
「宰相府へ踏み込む許しは、下りなかった」
「……下りなかった、とは」
「宰相の私邸と執務室は、陛下の名によって不可侵と定められている。疑いだけでは、扉は開かない。開くには、陛下ご自身の裁可がいる」
夜を徹した声だった。眉間に、いつもより深い皺が寄っている。
「陛下は、いかがなのですか」
問いかけた私に、殿下は短く首を振った。
「今朝も、床を上げられなかった」
短い沈黙が落ちた。病身の王という、誰のせいでもない壁が、調べの前に立ちはだかっている。焦れても、責める先がない。それが、いちばん厄介だった。
「殿下。一つ、申し上げそびれていたことがあります」
私は、あの離れの暖炉を思い出しながら切り出した。
「あの燃え残りです。文字はすべて焼け崩れていたのに、封蝋の欠片だけ、都合よく形が残っていました。燃やし損ねたにしては、出来すぎている気がして」
「……つまり、宰相府の紋章そのものが、仕込みかもしれないと」
「確信はありません。ただの後始末で、たまたま燃え残っただけかもしれません。断じるには、まだ早いと思います。ですが、胸の抽斗にしまったままにするのも、正直ではない気がして」
灰青の瞳が、しばらく私を見つめた。
「二本、線を張っておく。宰相が黒だという線と、宰相に見せかけたい誰かがいるという線と」
「それでよろしいのですか」
「一本に絞って外れれば、次がない。お前の舌と同じだ。確かめるまでは、決めつけない」
その言い方に、少しだけ気が緩んだ。
そこへ、侍女が一通の文を運んできた。差出人は、領地の父だった。封を切ると、細い震え字が数行。娘の身を案じる言葉が並ぶだけで、母のことも、家のことも、いつも通り何一つ書かれていない。案じてはいる。けれど、踏み込んでは来ない。父の文は、いつもそうだった。
昼を過ぎた頃、近衛の一人が急いた足取りで居間に入ってきた。
「殿下。急ぎ、小会議室へ。宰相府の件で、評議が開かれます」
促されるまま、私も後についていった。廊下を進むほどに、すれ違う文官たちの視線が増えていく。好奇でも侮蔑でもない、値踏みするような目だった。
「殿下。私が同席してよいのですか」
「隠れて怯えているほうが、都合よく思われる。堂々としていろ」
短い答えに、背筋が伸びた。
小会議室には、既に数人の重鎮が顔を揃えていた。末席には、病床の王太子殿下のご容体を評議へ復命するための当番の侍医が一人、静かに控えている。議事に関わらずとも、殿下のお命に触れる話が出れば見立てを求められる——そういう定めなのだと、隣の文官が声を落として教えてくれた。
その中央、穏やかな面差しの年嵩の男が、静かに口を開く。
「宰相殿への聴取、私は賛成の立場を取りたい。疑いを晴らすのも、また晴らせぬままにするのも、聴かねば始まらぬでしょう」
隣に立つ文官が、ダレン侯爵、と小さく名を教えてくれた。物腰の柔らかい、白髪の交じった重鎮。宰相とは対立する派閥の長なのだと、文官は声を落として付け足した。
宰相の失脚は、この方にとって都合が悪いはずがない。それでも声に、勝ち誇った響きは一つもなかった。
上座から、白鬚の老臣が重い息とともに引き取った。議事を預かる大法官モーリスだった。
「侯爵の仰る通りだ。だが、私邸への立ち入りは陛下の裁可がいる。今は、それを待つほかない」
「先王陛下の御代からくすぶる話でもございます。悠長にしていて良いものか、私は案じております」
ダレン侯爵の一言に、殿下の目が一瞬だけ鋭くなった。三年追い続けた「毒の影」の、いちばん古い記憶に触れられたのだと分かった。
「議題に留める。それ以上は、今日は動かせぬ」
大法官モーリスが結論すると、会議室に小さなため息が広がった。ダレン侯爵は困ったように眉を下げ、それでも私の方へ、労うような会釈をひとつ寄越した。席を立って上座へ下がるその後ろ姿は、右の踵だけがいつも半拍遅れる、どこか耳に残る足音を刻んでいた。気に留めるほどでもない、ただの古い癖なのだろう。
評議は、何も決めないまま散会した。それでも私は、卓に出た言葉をひとつ残らず数えて、胸に刻んでおいた。封蝋のこと、不可侵のこと、先王の御代のこと。誰が何を知っていて、誰が何も言わなかったか。動けない部屋でも、拾えるものはある。
評議を出ると、廊下の先に人だかりができていた。夜会以来、見覚えのある顔ぶれが、扇の陰でこちらを窺っている。
「あら、まだ縄をかけられていないの」
「王弟殿下に取り入って、証拠まで自分で拵えたという噂も聞くわ」
扇の縁が、こちらを指すように傾く。声は扇の陰で交代して、どれが誰の口から出たのか、分からないように投げられていた。
「宰相府の封蝋だなんて、都合が良すぎるでしょう。罪を他所へなすりつけたいだけでは」
足が、止まった。恐れのせいだけでは、なかった。
封蝋のことは、つい先ほどの評議で初めて卓に載った話だ。あの部屋にいたのは、殿下と、数えるほどの重鎮と、脇に控えた文官、そして末席の当番侍医だけ。それが、戸が閉じてから半刻と経たぬうちに、扇の内側まで回っている。
——誰が、運んだのか。
答えれば火に油だ。分かっている。それでも私は、胸の内で数えることをやめなかった。この速さは、それ自体がひとつの手掛かりになる。
「白薔薇の一件とて、王弟殿下がお味方だから通っただけの話。他の誰が言い立てても、誰も聞きはしなかったでしょうに」
「宰相府の紋章が出てきた途端、都合よく侍従が死ぬなんてね。仕組んだ側が一枚上手ということもあるでしょう」
扇のこちら側とあちら側で、真実は好きな形に切り貼りされていく。誰も嘘は言っていない。ただ、都合のいい欠片だけを拾って繋いでいる。
「そういえば、あの家の母君も、毒の扱いを誤って死んだと聞くわ。血は争えないということかしら」
母の名を、初めて他人の口から聞いた。胸の奥が、冷たい水を注がれたように痺れる。
毒見の訓練の果てに死んだ。私はそう聞かされて育った。けれど、いつ、どんな毒で、誰が看取ったのか——父の口から、詳しい話を聞いたことは、一度もなかった。今朝の文の、あの何も書かれていない行間を思い出す。
聞かずに済ませてきたのは、私自身だ。
「言葉が過ぎるのでは、皆さん」
ダレン侯爵が、穏やかにそう窘めた。それでも囁きは、すぐには止まらなかった。
「彼女は俺の客人だ」
低い声が、廊下の空気を断ち切った。
振り返らずとも分かる。ヴィンセント殿下だった。
人だかりが、波のように割れる。殿下は私の隣に立ち、一人ひとりを順に見渡した。
「侮辱は、俺への侮辱と受け取る」
誰も、何も言い返さなかった。扇に隠れていた口元が、次々と閉じていく。
「殿下……そこまでは」
私が言いかけると、殿下は短く遮った。
「事実だ。取引の客人を、勝手に嗤わせておく趣味はない」
それだけ言うと、私の返事も待たずに歩き出す。私は慌てて後を追った。並んで歩く途中、殿下の手が一度こちらへ寄って、けれど触れる前に止まり、何事もなかったように下ろされた。頬の熱が、廊下の冷気だけのせいではないと分かっていた。
けれど同時に、頭の隅が冷たく醒めてもいた。「客人」の一言は、明日にはもっと形を変えて、王宮中を駆け巡るだろう。毒より早く回るのは、いつだって噂だ。
評議の中身を半刻で扇の内まで運んだ、あの見えない口が、今度はこの一言を運んでいく。かばわれたことが、また新しい火種になる。今夜だけは、それでも構わないと思うことにした。
夜、王弟宮の自室で灯りを落とす前に、扉が小さく叩かれた。
侍女が、蒼白な顔で折りたたまれた紙片を差し出す。
「先ほど、裏門から届いた文にございます。使いの者は、名乗らずに走り去ったと」
震える指で開くと、崩れた文字が並んでいた。書き慣れない筆跡ではない。恐怖に手が震えて崩れた文字だった。
たすけて。
それだけが、紙いっぱいに、何度も殴り書かれていた。
差出人の名は、どこにもない。筆跡に見覚えなど、あるはずもない。それなのに、祈るように指を組んでいた細い指が、震えながら筆を握る姿が、勝手に浮かんで消えなかった。
——ミレーヌ様。
あの方の書いた文字を、私は一度も見たことがない。それでも、思い当たる人は、一人しかいなかった。
この宮に来て、初めて見る誰かの悲鳴だった。声も出せず、代わりに紙へ縋りついた、そんな字だった。
殿下に、すぐ知らせる。迷う前に、覚悟が決まっていた。一晩あれば、口は封じられる——テオの死が、それを教えていった。この文を朝まで胸にしまっておくことだけは、してはならない。
私は侍女に固く口止めをして、誰にも気取られないよう、書斎へ報せを走らせた。ほどなく、人払いをされた書斎に通される。紙片を検める殿下の眉が、見る間に険しくなった。
「名は、ない」
「はい。ですが——思い当たる方は、一人しかいません」
「男爵令嬢か」
私は頷いた。殿下は紙片を卓に置き、しばらく黙って見下ろしていた。
「今から使いを出せば、夜の王弟宮から人が走ったと、見張る目があれば必ず気づく。文の主を、こちらの手で危うくする」
「では、いかがなさいます」
問い返した私に、殿下は迷いなく答えた。
「今夜は、離れた目だけを置かせる。気取られない距離でだ。——動くのは、夜明けとする」
守るための足踏みだった。悠長さとは、違う。頷いた私に、殿下は紙片を返して寄越した。
「テオの二の舞には、させない」
短い言葉が、約束の形をしていた。
自室へ戻り、灯りを消しても、瞼の裏にあの震える文字が焼きついて、消えなかった。
夜明けまでの数刻。今はこの紙一枚だけが、ミレーヌ様と私を繋ぐ、細い糸だった。




