第006話 消えた侍従
謁見の間を出ると、日はもう傾いていた。
ヴィンセント王弟殿下は、歩きながら近衛の一人に短く命じた。
「あの侍従を捕らえろ。名は分かるはずだ、王太子付きの記録を辿れ」
近衛は一礼し、廊下の向こうへ駆けていった。
その背を見送っても、胸の底に、小さな引っかかりが残ったままだった。花を選び、手袋を選び、正しい相手へ届けた指——けれどその指を動かしていたのが、本人の意志だとは限らない。ミレーヌ様と、同じかもしれないのだから。
「殿下。捕らえたら、まず話をさせてください。裁く前に」
「分かっている」
短い返事だったが、素っ気なさの中に、頷きが混じっていた気がした。
私たちは王弟宮へ戻った。昨夜から一睡もしていない体は、もう限界の縁を歩いている。侍女に温かい粥を運ばせながら、王弟殿下は珍しく言葉を続けた。
「食え。今夜だけは、眠れ」
それでも、と言いかけた私に、殿下は取り合わなかった。
「舌が鈍っては、元も子もない。侍従は、明日には捕らえてある」
有無を言わせぬ声だった。私は粥を口に運び、久しぶりにまともな食事をとった。躾けられた通り、味の一つ一つを確かめながら。異常はない。それだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
その夜は、殿下の言いつけ通り、深く眠った。
けれど翌日になっても、良い報せは来なかった。
命令を受けた近衛が王太子宮へ駆けつけたときには、テオはもう持ち場から姿を消していたのだという。その日は一日、主だった棟を検めても見つからず、夜が来ても報せは沈黙したままだった。
私は寝所で、幾度も寝返りを打った。一度まどろんでも、すぐに目が覚める。追われていると悟った侍従が、今この王宮のどこで息を殺しているのか——それを考え出すと、瞼の裏が冴えてしまう。
そうして、二晩目が明けた朝だった。
私を叩き起こしたのは、扉を叩く近衛の焦った声だった。
「リディア様! 王弟殿下がお呼びです、すぐに——」
身支度もそこそこに駆けつけた王弟宮の広間で、灰青の瞳が私を待っていた。表情が、いつもよりわずかに硬い。
「侍従が、見つかった」
捕らえたのか——問い返す私に、殿下は短く首を振った。
「死んでいた。使われていない離れの、物置部屋でだ」
心臓が、冷たく跳ねた。
命令は、二日前の夕のうちに飛んでいる。明日には捕らえてある、と殿下自身が言った。それが二晩をまたいで、この報せに変わってしまった。私の顔色を読んだのだろう、殿下は問うより先に続けた。
「命令は速かった。だが、消えるほうが早かった」
二晩の捜索でも姿は知れず、今朝になって、ようやく使われていない離れまで手が回ったのだという。
「近衛が侍従たちを回って、花と手袋の証言を集めた。その問いの声そのものが、報せになったのだろう。俺たちが名前に辿り着くより早く、当人の耳に——おそらくは、指し手の耳にも届いていた」
背筋が、すっと冷えた。
こちらの一手が、そのまま向こうの一手を呼んでいる。盤を挟んで、顔の見えない誰かと向かい合っている感覚だった。
「口封じですか」
「まだ分からん。だが——ちょうどいい報せだとは、俺も思わない」
私たちは物置部屋へ急いだ。狭い通路の先、扉の前に近衛が二人、青ざめた顔で立っている。すれ違う侍女たちの視線が、私の背に刺さった。また、この娘の周りで人が死んだ——そう言いたげな目だった。
「殿下。あれは——」
近衛の一人が言いかけ、私を見て口を噤んだ。言わせなくても分かる。またリディアが、と。
ヴィンセント殿下が、静かにその視線を遮った。
「彼女は俺の指図で検分をする。文句があるなら俺に言え」
短い一言で、扉の前の空気が変わった。誰も、それ以上は口を開かなかった。
見つけた近衛が、扉を示して報告する。
「発見のとき、扉は閉まっておりました。内側に閂がございますが、外れたままで、壊された跡はありません」
私は屈み込んで、閂を検めた。木の受けにも金具にも、こじった傷ひとつない。その事実を、頭の隅に置いておく。
物置部屋の隅、床に若い男が倒れていた。二十歳そこそこだろうか。整えられた身なりの侍従服。傍らに、酒杯が一つ転がっている。
「名はテオ。王太子殿下付きの侍従で、三年勤めていた者にございます」
近衛の報告に、私は初めてその名を知った。テオ。花を選び、手袋を選んだ指に、ようやく名前がついた。
膝をつき、素手では触れない。手巾を広げ、まず杯を検める。
強い葡萄酒の匂いが、鼻を刺す。安酒ではない、上等な品だ。三年勤めの侍従が、自分で買える代物ではない。
匂いの奥に、もう一つ。焦げたような苦みと、痺れるような刺激。
「殿下。これは——銀糸草ではありません」
「では、何だ」
私は杯を鼻先から離し、確かめるようにもう一度だけ香りを取ってから、答えた。
「烏頭です。名前だけなら、市中の薬売りでも知っている毒草です。ですが、匂いと症状から烏頭と見分ける術は、書物には載りません。——値は銀糸草よりずっと安く。そして、ずっと残酷です」
烏頭は、静かには殺さない。手足が痺れ、痙攣し、心の臓が乱れて止まるまで、身をよじり続ける毒だ。安いのに、残酷。
倒れたテオの唇は、青紫に変わっていた。指先も同じ色だ。着物の胸元は掻きむしられ、指の跡が幾つも残っている。銀糸草に倒れた王太子殿下の、あの穏やかな昏睡とは、まるで違う死に方だった。
「自ら、あおったようにも見えるが」
王弟殿下の声に、私は首を振った。
「違います。倒れているのは、扉のほうを向いています。杯は、体から離れた場所に転がっている——最後の力で、助けを呼ぼうと這った跡です」
自ら死を選んだ者の姿ではない。苦しみながら、それでも扉を目指した——生きようとした人間の姿だった。
私は手巾越しに、杯をもう一度取り上げた。
「それに、この酒です。侍従の禄で買える品ではありません。烏頭は舌に強く残る毒です。匂いの強い上等な酒でなければ隠せない——誰かが、わざわざこの酒を選んで、毒を仕込んだのです」
王弟殿下は、しばらく黙って死者を見下ろしていた。
「侍従一人の禄で、上等な葡萄酒が買えるとは思えん。誰が届けた」
「分かりません。ですが——テオは、隠れていたのです。追われていると知って、使われない離れに潜んだ。近衛が二晩探して、見つけられなかった場所です」
その隠れ場所へ、上等な酒を提げた誰かが迷わず辿り着いた。
「そして閂は、壊されていません。身を潜める者が、内から閂も掛けずにいるはずはない。テオは自分でそれを外し、扉を開けて、その誰かを迎え入れたのです」
「つまり——自分から招き入れた相手、ということか」
「はい。隠れている人間が、自分から戸を開けるのです。隠れ場所を報せてでも、すがりたかった相手——テオにとって、断れない相手だったのだと思います」
「顔を、知っていたのか」
私は少し考えてから、首を横に振った。
「顔までは、分かりません。ですが、花と手袋を託してきた声の主——指図を寄越す取次の相手なら、テオは知っていたはずです。命じられるまま毒を運んだ駒でも、自分に指図を差す窓口だけは、覚えている。だからこそ隠れ場所まで報せて、すがったのでしょう。助けを求めたその先が、そのまま口を塞ぐ手だとも知らずに」
灰青の瞳が、死者の顔から、ゆっくりと私のほうへ動いた。
「花と手袋を運ばせた相手と、同じ手か」
おそらく、と私は頷いた。口を封じるなら、いちばん近くにいた者が、いちばん早い。
王弟殿下は目を伏せた。それから近衛に短く命じて、死者の顔へ白い布を掛けさせた。
「……お前の見立てに、異論はない」
短い言葉に、重さがあった。
死んだテオも、花や手袋を運ばされていただけの、駒の一つだったのかもしれない。ミレーヌ様と同じように。だとすれば、この死は断罪ではなく——ただの、後始末だ。
死人は、もう語らない。けれど、殺されたという事実そのものが語っている。テオには、封じられねばならない口があった。そして、封じさせた誰かが——この王宮の、どこかにいる。
部屋の隅、小さな暖炉の中に、焼け残った紙の灰が積もっていた。テオは死ぬ前に、何かを燃やそうとしていたらしい。
私は火箸で灰をそっとかき分けた。ほとんどは黒い塵になっていたが、隅のほうに、燃え残った一片が縮こまっている。
火箸でそっと摘み上げ、殿下に掲げて見せる。
紙の端に、見覚えのある細字が滲んでいた。革表紙の帳面と、同じ紙質、同じ癖のある筆跡。
「帳面の頁です。温室の——破り取られた、あの分の」
「では、頁を破ったのは、テオか」
すぐには、頷かなかった。断じる前に、分けておくべきことがある。
「まだ、二つに分かれます。テオが自分で破ったのか。それとも、破った誰かから、燃やす役だけを託されたのか」
「なら、一つ足しておく。夜のあいだの調べだ。——事件の夜、テオは広間の給仕には入っていない。給仕頭の証言が取れている。始めから終わりまで、封鎖の外にいた」
封鎖の外。あの明け方、私が結論した「頁を破った手」のいる側だ。
封鎖が敷かれるまでの短い騒ぎの隙に、広間を抜け出た者がいたら——その可能性だけは、ずっと胸の隅に残っていた。けれど、始めから広間に入っていない者に、抜け出す隙はいらない。給仕頭の証言は、その隙間ごと埋めてくれた。
外にいた手が、破り取られた頁を隠し持ち、人目のない場所で燃やしていた。所在と、所持。二つの答えが、一人の上に重なった。
「でしたら——頁を破ったのは、テオ自身と見て、まず間違いないかと」
胸の奥で、点と点が繋がる音がした。花を運び、手袋を運び、帳面の頁を破り、そして口を封じられた。すべてが、一人の指の先で繋がっていた。
けれど、灰の山にはもう一つ、燃え残りがあった。
厚みのある紙だ。文字のあった面は黒く焼け崩れて、もう一字も読めない。ただ、折り重なった隅の一角だけが、焼け残っている。
朱色の封蝋——崩れた紋章の欠片が、そこに押されていた。
「殿下、これは」
王弟殿下が身を屈め、灰の中の紙片を覗き込んだ。灰青の瞳が、見る間に細くなっていく。
「……宰相府の封蝋だ」
低い声が、静まり返った部屋に落ちた。
宰相府。国王陛下の政を預かる、この王宮の中枢だ。その紋章が、なぜ一介の侍従の燃やす文に押されているのか。
「中身は、焼けて読めません。ですが、テオが燃やしていたということは」
「後ろ暗い中身だった、ということだな」
「はい。誰かに見られる前に、消したかったのだと思います。そして——間に合わなかった」
答えながら、頭の片隅を小さな疑いがかすめた。燃やし損ねたにしては、紋章の欠片だけ、都合よく形が残ってはいないか——けれど今は、口にするだけの根拠がない。疑いは疑いのまま、胸の抽斗にしまっておく。
テオは、これを燃やしている途中で死んだのだろう。焼き切れなかった紙の隅で、宰相府の紋章だけが、じっと私たちを見上げていた。
花と手袋を運んだ指の先に、今度は宰相府という新しい影が、繋がろうとしている。
私は、指を折って数えた。夜会の夜に「三日」と言い渡されて、一日目、二日目が過ぎ、今が三日目の朝。約束の刻限まで、もう半日と残っていない。潔白を証せなければ首が飛ぶ——その取引の期日が、すぐそこまで来ていた。
けれど殿下は、焼け残りの紙片から目を上げると、その勘定を無造作に払いのけた。
「三日の話は、もう忘れろ」
「殿下……」
「侍従が一人殺され、宰相府の紋章まで出てきた。これはもう、お前一人の首で片のつく話ではない。国の中枢に、毒が回っているかどうかの話だ」
灰青の瞳が、まっすぐに私を捉えた。
「取引は破棄する。お前の首は、これより俺が預かる。誰にも渡さん」
三日という縄が、音もなく解けた。けれど胸に落ちてきたのは、安堵ではない。代わりに肩へ乗ったのは、もっと重く逃げ場のないものだった。
「三日で、終わるはずの話でした」
「終わらせない相手がいる、というだけのことだ」
殿下は紙片を布に包み、証拠として封をした。
この王宮に潜む影は、思っていたよりずっと深く、太い根を張っている。三日の猶予は過ぎ、代わりに、期限のない戦いが、静かに始まろうとしていた。




