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王太子殿下の毒見役を務めてきた伯爵令嬢ですが、婚約破棄の夜に毒殺犯の濡れ衣を着せられたので、この舌で真犯人を暴きます  作者: 御茄子之与一


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第005話 白薔薇の棘

窓のない検分の間に、昨夜からの灯りが、まだ揺れていた。


昨夜から一睡もしていない体は、もう痛みのような疲れに慣れ始めている。私は近衛にもらった白湯で口を漱いだ。徹夜(てつや)明けの舌ほど、念入りに整えてから使う。母にそう躾けられた。


道具は近衛に頼んで整えさせた。柔らかい(なめ)し革の手袋、鑷子(せっし)、拡大鏡、それに清潔な絹の端布(はぎれ)。「道具を揃えてから」と自分に約束した、その約束を果たすときだ。


卓の上には、あの白薔薇が一輪、(しお)れて横たわっている。夜会の華やかさはもう跡形もなく、ただの枯れかけた花に見えた。


「殿下。約束通り、道具を揃えました」


ヴィンセント王弟殿下は腕を組んだまま、卓の向こうから見下ろしていた。


私は革手袋を両手に嵌め、鑷子で茎の根元をそっと摘み上げる。


棘は五つ。どれも小さく鋭い。


いちばん上、花の真下にある棘の先だけ、他より心持ち黒ずんで見えた。


拡大鏡を近づける。棘の先端に、ごく薄い膜のようなものが張りついていた。


鼻を寄せる。焦がした砂糖に似た甘さと、錆びた鉄の後味。手袋の指の内側で嗅いだのと、同じ匂いだ。


けれど、量が違う。


「殿下。手袋の粉は、薄く広く散っていました。ですが、これは」


「濃い、ということか」


「はい。棘の先にだけ、塗り固めてあります。触れただけでは落ちない量です」


指先が、また冷えていく。答えの形が、見えてきた。


「二つは、同じ毒でも役目が違います。手袋の粉は——下拵(したごしら)えです」


「下拵え?」


「あの粉は、夜会のあいだじゅう、絹越しにゆっくりと肌へ染みます。それだけでは、倒れません。けれど血の中の毒を、昏倒の一歩手前まで底上げしておく量です」


「では、棘のほうは」


「引き金です。花を受け取る手が、無意識に茎を握り込む——その一瞬に、棘が手袋の薄絹ごと皮膚を貫きます。そして絹に染みていた粉ごと、傷口の血へ毒を送り込む。底上げされていた毒が、そこで初めて、倒れる域を越えるのです」


「それから、あの晩の講義も正させてください。私は速さをひとまとめに申し上げました。正確には——肌に乗っただけなら四半刻、血に(じか)に入れば数十を数える間。同じ毒の、二つの速さです」


婚約破棄を告げる、あの一瞬。薔薇を受け取った殿下の指を、棘が絹ごと突いていたのなら。


「手袋の粉だけでは、あの時刻に倒れません。けれど、棘の一突きが引き金なら——すべての時刻が、合います」


「量は、どうだ。九枚の勘定から、はみ出さないか」


「収まります。棘の塗りと手袋の粉、殿下のお体に入った分を併せても、匙半分の見積もりの内です。数は、今度も合っています」


王弟殿下は、しばらく黙って萎れた花を見つめていた。灰青の瞳の奥で、何かを組み立て直しているのが分かった。この方は、納得するまでは決して急がない。


「証明できるか」


「はい。ただし」


私は言葉を切った。この続きを口にすれば、面倒なことになると分かっていたから。


「言葉だけでは、信じない方々がいます。目の前で示す形が要ります」


「それと殿下、一つお願いが。モロー侍医長に、王太子殿下の右のお手を検めさせてください。棘が引き金なら、指のどこかに必ず、針で突いたような傷が残っています」


王弟殿下は頷き、その場で近衛を一人、走らせた。


私は黒ずんだ棘を一つ、茎ごと短く切り取り、栓のできる硝子(がらす)の小瓶に封じた。


見せる場が、要る。




その機会は、思いがけない方向から転がり込んできた。


昼過ぎ、ボードワン侯爵が国王への拝謁(はいえつ)を願い出た。リディア・アッシュフォードを、これ以上王弟宮に留め置くべきではない、と。


けれど国王陛下は、長く病の床にある。陛下に御子はなく、玉座は、すぐ下の弟君であるユリウス殿下が継ぐと定められていた。ユリウス殿下が弟の身でありながら「王太子」と呼ばれるのは、そのためだ。そして末の弟君であるヴィンセント殿下は、王宮の警備とともに、宮中の裁きの多くを病身の陛下から預かっている。


侯爵の願いが王弟殿下のもとへ回されたのは、だから、筋の通った成り行きだった。


近衛からの報せに、王弟殿下は片眉を上げただけだった。


「渡りに舟だ。奴が場を作るなら、俺たちはそこで(あかし)を立てればいい」


「よろしいのですか。私を突き出す名分にされているのに」


「名分は、証拠の前では紙切れだ。——支度をしろ。小さな謁見の間を借りる」




通されたのは、玉座のない、応接向きの謁見の間だった。


長椅子にボードワン侯爵。その傍らに、見覚えのある夜会の顔が二つ。侍医長モローも、王弟殿下に呼ばれて壁際に控えている。


証人は少ない。けれどこの部屋にいる人間は、昨夜あの広間で私を指さし、(わら)った側の人間ばかりだ。狭くとも、これ以上ないほど正しい聴衆だった。


私が入るなり、ボードワン侯爵が腰を浮かせた。


「ヴィンセント殿下。罪人がいまだ野放しとは、いかがなものにございましょう。軟禁などと甘やかされるゆえ——」


「証拠を見せる。座れ」


王弟殿下の一言に、侯爵は忌々しげに口を(つぐ)んで腰を下ろした。


壁際のモローと目が合う。彼は小さく頷いただけで、何も言わなかった。それだけで、味方が一人いることが分かった。


私は卓の上に、三つの品を並べた。あの白手袋と、萎れた白薔薇と、棘を封じた小瓶。並べてみると、どれもただの布と花にしか見えない。それが人ひとりを昏倒させたのだと、言葉だけで信じろというほうが無理な話だった。


「昨夜、殿下は口からではなく、触れた毒で倒れられました。手袋の粉は、夜会のあいだに絹越しへ染みて血の毒を底上げする下拵え。棘は、その絹ごと皮膚を貫いて、毒を血へ直に送り込む引き金です」


「薔薇だと? 花に毒を塗るなど、絵空事だ!」


「モロー。今朝の検分を」


王弟殿下が、壁際へ目をやった。モローが一歩、進み出る。


「ご下命により、王太子殿下の御手を検分いたしました。右手の人差し指の付け根——手袋に覆われていた場所に、針で突いたような小さな傷が、一つございました。昨夜より古い傷では、ございません」


「花を、受け取られた手です」


私は静かに継いだ。ボードワン侯爵の赤ら顔が、わずかに揺れた。それでも、口は止まらなかった。


「傷ひとつで何が決まる。小娘の手品か。結構、拝見しよう」


私は小瓶の栓を抜き、封じてきた棘を鑷子で取り出した。ここに残る量はごく微量。だが、私の舌と肌がその正体を知っている。


私は絹の端布を、左手の甲に乗せた。あの夜の、殿下の白手袋の代わりだ。


「私の耐性は常人より高くできています。今からこの棘で、絹一枚を隔てて、自分の甲に浅い傷をつけます。殿下の御身に起きたことと同じ形で、ごく僅かな量——症状の速さだけを、お見せします」


部屋の空気が、一瞬で張り詰めた。


「待て」


短く鋭い声が、私を止めた。ヴィンセント殿下だった。


「リディア」


肩書きではなく、名だった。危急に、思わず零れたひと言だったのだろう。殿下はすぐ口をつぐみ、名を仕舞い直すように目を逸らす。灰青の瞳だけが、値踏みではない色をしていた。


「……殿下?」


「毒見役。やる前に、量の根拠を言え」


「棘の先に残った膜の、ほんの一部です。九枚の見積もりの、百分の一にも届きません。私の耐性なら、五十を数える内に峠を越えます」


短い沈黙のあと、王弟殿下は普段の硬い声に戻って続けた。


「モロー。そちらでも見ておけ。何かあれば、お前がすぐに動け」


モローが短く頭を下げ、私の脈を診る位置に立った。今朝の検分を経た彼の目に、もう疑いの色はない。


「参ります」


浅く、皮一枚。絹越しに、棘の先が手の甲をかすめる。


熱い針を刺されたような痛みが、薄絹の下を走った。


「……っ」


数を数える。十、二十、三十。


指先がじんと痺れ、痺れは手首まで這い上ってくる。額に汗が滲む。


心の臓が、いつもより速く脈を打っている。これが毒の速さなのか、自分の恐れなのか、見分けがつかない。舌に染みついた知識だけが、痺れの深さがまだ致死の域に届かないことを、辛うじて教えてくれていた。


夜会の顔の一人が、声もなく腰を浮かせた。ボードワン侯爵の顔から、赤みが引いていくのが見えた。


「脈、速いが乱れてはおりません。……このまま広がるようなら、私が」


モローが低く告げる。王弟殿下の手が、私に断りもなく手首を掴んだ。指の腹が、脈を数える位置に食い込む。


痺れは四十を数えたところで頂点を越え、五十を数える頃には、じわりと引き始めた。


「……もう、大丈夫です。この量なら、耐性の内で止まります」


私は皆を見渡して、静かに続けた。


「ご覧の通り、棘は絹の一枚を、物ともせずに皮膚へ届きます。そして肌に乗っただけなら四半刻かかる毒が、血に直に入れば、五十を数える間に山を作って引いていく」


「もし棘がなく、手袋の粉だけだったなら。この痛みも、この速さも出ません。殿下は、あの時刻に倒れようがないのです」


誰も、口を開かなかった。


さっきまで満ちていた嘲笑の気配が、部屋のどこにもない。代わりにあるのは、居心地の悪い沈黙だった。


昨夜、私を最も高く指さして嗤った男は、扇で口元を隠したきり、目を上げられずにいる。傍らのもう一人は、肘掛けを掴んだ手を、そっと膝へ引いた。嘲りが、一人また一人と、音もなく降りていく。


ボードワン侯爵の視線が、卓の上の薔薇と手袋を、行き来している。


「……手品などでは、なかったようだな」


呟くように、それだけ言った。昨夜、私を指さして怒鳴っていた声とは、別人のように小さかった。


王弟殿下は、まだ私の手首を掴んだままだった。脈がとうに落ち着いたのに、離す気配がない。


「……殿下。もう平気です」


視線に気づいて、殿下はようやく手を離した。何も言わず、窓のほうへ顔を背けている。耳の先が、わずかに赤い気がしたのは、蝋燭の灯りのせいにしておいた。




「では伺いたい。殿下があの手袋を、いつ、誰から受け取ったか」


ボードワン侯爵が、先ほどまでの勢いを失った声で問うた。それでも問い自体は、正しい的を射ていた。


「よい問いだ」


王弟殿下が短く応じ、控えていた近衛の一人に目で合図する。すでに調べは走らせてあったらしい。


待つあいだ、誰も長椅子を立たなかった。ボードワン侯爵でさえ、じっと扉のほうを見ている。


近衛が退室し、程なくして戻ってきた。伝えられた中身に、王弟殿下の眉が、わずかに動いた。


「手袋を用意し、殿下の従者に届けたのは——王太子付きの侍従だ、という証言が取れた」


王太子付きの、侍従。私は胸の内で、その言葉を繰り返した。


「もう一つある。夜会の始まる前、控えの間で、ミレーヌ嬢にあの白薔薇を手渡したのも——同じ侍従だったらしい」


一輪の花と、一足の手袋。別々に届いたはずの二つの毒が、同じ一人の手から出ていた。


謁見の間が、しんと静まり返った。誰もが同じ答えに行き着いたのが、その沈黙で分かった。


胸の奥で、何かが音もなく繋がっていく。


あの明け方、私は結論した。毒を殿下に届けた手は、封鎖の内にある——それは、毒と知らずに薔薇を捧げた、ミレーヌ様の手だ。そして温室の頁を破った手は、封鎖の外にあった。


では、夜会の前に花と手袋を並べ終えていた侍従は、あの晩、封鎖のどちら側にいたのか。もし外にいたのなら——破られた頁に、いちばん近い手だ。断じるには、まだ早い。けれど最有力の候補が、初めて形を持った。


侍従は、ただの使い走りではない。花を選び、手袋を選び、正しい相手の手に、正しい順で届けた人間だ。


——盤上の駒を、実際に並べていた指。


私はもう一度、卓の上の薔薇に目を落とした。萎れた花びらの下で、棘の先だけが、蝋燭の灯りに小さく光っている。


その名を、私はまだ知らない。若いのか年嵩なのか、どんな顔をしているのかさえ。分かっているのは、王太子殿下の身の回りに、疑われることなく近づける立場にいる、ということだけだ。


だからこそ、恐ろしい。手を汚したのは、きっと本人の意志だけではない。花を選ばされ、手袋を選ばされ、言われるままに二つの毒を運んだだけの人間かもしれない——ミレーヌ様と、同じように。


けれどその名を知る誰かは、きっと今夜のうちに、静かに動き出す。証拠は、いつだって次の証拠を呼び寄せる。私の舌が辿り着いたこの一歩は、犯人にとっても、もう見過ごせない一歩のはずだった。


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