第004話 眠れる王太子と偽りの診立て
ミレーヌ様の香りの尾が消えるより早く、ヴィンセント王弟殿下は踵を返していた。
「行くぞ。兄上の容態を、その舌で確かめてもらう」
私は頷き、乱れた裾を整えて後を追った。
温室での朝と、回廊でのやり取りだけで、もう肌が汗ばんでいる。昨夜から一睡もしていないし、何も口にしていない。けれど休む理由にはならない。三日の猶予の、まだ一日目だ。
空腹はいい。空きっ腹は舌を研ぐと、母に躾けられた。気がかりなのは、眠っていないことのほうだ。疲れた舌は、時々嘘をつく。使いどころを、選ばなければ。
本宮へ向かう回廊は、南庭よりずっと格式が高い。すれ違う侍女や文官たちが、私の顔を見るたびに足を止め、遠巻きに囁き合った。
犯人が、なぜ王弟殿下と並んで歩いているのか。誰もがそう思っているのが分かる。
構わない。事実は、私の舌が知っている。噂は、いずれそれに追いつくしかない。
十八年、毒見役として鍛えられてきた矜持だけが、今の私の足を支えていた。
歩きながら、私は昨夜から喉に引っかかっていた骨を、一つ口にした。
「殿下。温室の出入りは、近衛の記録には残らないのですか。名も残さない方が、三年も通い続けられるものでしょうか」
「残らない。温室は薬草庫の管轄で、詰め所の検問より内側にある。あそこまで通される身分の者を、近衛はいちいち記帳しない。俺の警備は、上へ行くほど素通りになる仕組みだ」
即答だった。では、あの『お貴いお方』は。そう問い返すより早く、王弟殿下は続けた。
「つまり奴は、検問のほうが頭を下げる側の人間だ。三年追って影も踏めなかった理由が、昨夜ようやく分かった」
吐き捨てるような声には、自分の城の造りそのものへの苛立ちが滲んでいた。穴は警備の目ではなく、身分の側に空いていた。それ自体が、犯人の輪郭を一回り狭めている。
王太子殿下が寝かされているのは、王弟宮ではなく本宮の奥、歴代の当主だけが使う寝所だった。扉の前には近衛が四人。物々しさが、事の大きさをそのまま語っている。
扉をくぐると、煎じ薬の匂いが鼻を刺した。
苦い根の匂い。吐根だ。それも、煮詰めすぎて焦がしている。誰かが、よほど慌てて火にかけた証だった。
寝台には、婚約破棄の夜の覇気が嘘のように、ユリウス殿下が横たわっていた。金糸の髪は乱れ、白い頬にはまだ死人のような影が差している。夜会の華やかさを剥がされた寝顔は、意外なほど幼く見えた。
その傍らで、白髪まじりの壮年の男が、湯気の立つ器を王太子殿下の口元へ運ぼうとしていた。侍医長モロー。王宮医術院の頂点に立つ人物だと、王弟殿下が歩きながら耳打ちしてくれた。恰幅のいい体に、金糸の縁取りが入った長衣。その地位に見合うだけの自負が、背筋に張りついている。
「モロー、手を止めろ」
「殿下……! これは吐根を煎じたものにございます。毒を胃から出さねば」
「その手を、止めてください」
私は声を上げた。モローの視線が、値踏みするように私を上下させる。
「お前は昨夜、殿下に毒を盛った疑いのある娘だな。医術に口を挟む立場か」
「立場はどうあれ、殿下のお命に関わります」
「戯言を。毒を盛られたのなら、吐かせるのが道理だ」
長年の権威を、小娘に崩されてたまるかという顔だった。
「殿下は、口から毒を盛られたのではありません」
言い切ると、モローの太い眉が寄った。
「ならば、なぜ倒れられた」
「触れた毒です。銀糸草——絵物語にしか出てこない、稀少な毒草です。肌から入り、血に乗って回ります。今の殿下の胃には、吐き出すべき毒など残っていません」
「そのような毒草、聞いたこともないわ」
「聞いたことがないのが、当然です。市井の書物には載らず、市場にも出回らない毒草ですから」
どこで育つ草かまでは、言わない。この部屋の誰の耳が犯人へ繋がっているか、まだ誰にも言い切れないのだから。
物心つく前から、母に舌ではなく耳で毒草の名を叩き込まれた。銀糸草も、烏頭も、痺れ根も。医術院の書架には載らない知識ばかりだ。
モローの手が止まる。器の中の煎じ薬が、小さく波打った。
「では、どうしろというのだ」
「今、殿下に必要なのは、胃を空にすることではありません。血の巡りを緩め、毒が心の臓に触れるまでの時を稼ぐことです。体を冷やしすぎず、頭だけを高くして、呼吸の通りを保ってください」
「小娘の見立てで、殿下の治療方針を変えろというのか!」
「モロー」
低い声が割って入った。ヴィンセント王弟殿下だ。
「お前の見立てで、兄上は今朝までに二度、咳き込んで喉を詰まらせかけている。看病の侍女から、その都度届けが上がった。この宮の報せは、全て俺のもとへ集まる」
モローの顔が、赤くなったり青くなったりした。反論の言葉を探しても見つからず、口が半端に開いては閉じる。
「彼女の見立てを聞け。異論があるなら、後で俺に言え」
有無を言わせぬ声だった。モローは屈辱に唇を噛みながらも、器を脇へ置いた。
部屋の空気が、ようやく私のものになった。近衛も侍女も、息を詰めてこちらを見ている。誰も彼も、犯人と疑われている娘に王太子の命が委ねられていく様を、瞬きもせずに見届けようとしていた。
私は寝台に近づき、殿下の瞼を指で開いた。瞳の奥、白い部分にうっすらと黄色みが差している。銀糸草が血の中で分解され始めている証だ。昨夜より、進んでいる。
「頭を高く。枕をもう一つ」
侍女が慌てて枕を運んでくる。私は殿下の顎を持ち上げ、喉の通りを確かめた。呼吸の音が、わずかに軽くなる。
「脈は。乱れていないか」
王弟殿下の問いに、私は殿下の手首へ指を這わせた。
「速いですが、乱れてはいません。峠は、越えたままです」
「……本当に、越えているのか」
「越えています。ただ、まだ薄氷の上です」
しばらく、誰も口を利かなかった。煎じ薬の匂いが、少しずつ薄れていく。
モローが、ようやく絞り出すように言った。
「……お前の見立てが正しければ、私は殿下を、危うく死なせるところだった」
「間違った知識で殿下を害する気だった方は、ここにはいません。ただ、銀糸草を知らなかっただけです」
慰めのつもりはなかった。事実を言っただけだ。それでもモローの肩から、目に見えて力が抜けた。
「侍医長として、礼を言う。……この後の指図には、ひとまず従おう。ただし、殿下のご容態が少しでも傾けば、その時は私のやり方に戻させてもらう」
私は頷いた。構わない。それが、正しい疑い方だ。
近衛の一人が、驚いたように顔を上げたのが分かった。昨夜まで犯人と罵られていた娘に、王宮医術院の長が頭を垂れている。
その光景を、ヴィンセント王弟殿下は何も言わずに眺めていた。
寝所を出ようとしたとき、殿下が近くの侍女に短く命じた。
「毒見役に、腰を下ろす場所を。それと、水を一つ」
私は思わず殿下を見上げた。次はどこを検める、と急かされるものと構えていたのに。
「……検分の前に、膳は摂りません。空きっ腹のほうが、舌はよく利きます」
「膳を出せとは言っていない。丸一日、寝ずに立ちどおしの舌だろう。使う前に、少しだけ休ませておけ」
言い置いて、殿下はもう背を向けている。私の舌が役に立つかを測る声では、なかった。道具ではなく、疲れた人間の体を案じる声だった。
運ばれた椅子に、私は素直に腰を下ろし、ほんの束の間、目を閉じた。気遣われたぶんだけ、舌の芯が静かに冴えていく気がした。
寝所を辞す頃には、日はもう中天に近かった。殿下の呼吸は落ち着き、モローの指図する侍女の声にも、さっきまでの棘がなくなっている。小さな戦いに、一つ勝った。そう思っていいはずなのに、胸の底はまだ晴れない。犯人の名は、まだ何一つ分かっていないのだから。
「殿下。もう一つ、確かめたいことがあります」
寝所を出たところで、私は切り出した。
「約束の、検分の席のことか」
「はい。ワインの残りと、手袋と薔薇です」
「整えてある。来い」
案内された小部屋には、布を敷いた卓の上に、三つの品が並んでいた。
飲み残しのワインの入った瓶。白い絹の手袋。そして、萎れかけた一輪の白薔薇。
近衛が二人、卓の両脇に立って見張っている。昨夜のうちに封じられたまま、誰の手も触れていないという。
窓のない部屋だ。壁際の燭台が、三つの品にそれぞれ影を落としている。あの夜会の熱気が嘘のように、空気は冷え冷えとしていた。
これから舌に乗せるのは、証拠であると同時に、私自身の潔白の残り時間でもある。指先が、自分でも分かるほど冷たくなっていた。
検分の前に、近衛に白湯を一杯もらい、口を漱いだ。丸一日、寝ずに使い続けた舌だ。整えてから使う。それも母の躾だった。
王弟殿下は卓の向かいに立ち、腕を組んで待っている。急かす言葉は一つもない。ただ、灰青の瞳がじっと私の手元を追っていた。
私はまず、ワインの瓶を取り上げた。栓を抜き、香りを検める。舌先に一滴だけ乗せる。
「……無毒です。昨夜、私が確かめた通り」
王弟殿下は、静かに頷いただけだった。予想通りだ、という顔だった。
瓶を卓に戻す。次は、あの真新しい手袋だ。
素手では触らない。銀糸草が絡んでいるなら、これは触れるだけで人を倒す品だ。微量なら私の耐性の内だとしても、検分の途中で自分の舌を鈍らせるわけにはいかない。
私は手巾を広げ、布越しに手袋の縁をつまみ上げた。
布越しにも分かる、真新しい絹の張り。縫い目はまだ固い。仕立てられて、幾日も経っていない品だ。
指先から、手首へ。手巾の上で裏返し、縫い目の内側まで検める。
鼻を近づけたとき、指が止まった。
焦がした砂糖のような甘さと、錆びた鉄を舐めたときの後味。
昨夜、殿下の指先から漂っていたのと、同じ香り。
見間違いであってほしいと、一瞬だけ思った。舌はそういう甘え方を許してくれない。もう一度、同じ場所を確かめる。答えは変わらなかった。
「殿下」
私は、声を落とした。
「手袋の、指の内側です。ここに——銀糸草の粉が」
王弟殿下の灰青の瞳が、細くなった。
「絹の繊維に、白く……ごく薄く。目では、ほとんど分かりません。毒見役の鼻でなければ、見逃していました」
王弟殿下が卓に身を乗り出し、手袋を覗き込んだ。近衛たちも、思わずといった様子で一歩詰め寄る。誰の目にも、そこにあるのはただの白い布にしか見えないはずだった。
残っていたのは、ごく薄い付着だけだ。殿下の肌に移った分と合わせても、刈られた九枚——匙半分の見積もりからは、はみ出さない。数は、合っている。
「新品の手袋に、なぜ毒がある」
「分かりません。ですが——」
私は手巾ごと手袋を持ち上げ、光にかざした。
「粉は、縫い目の内側にまで入り込んでいます。昨夜の広間で、外から付いた汚れではありません。仕立てられてから殿下のお手に渡るまでの、どこかで仕込まれた——そうとしか考えられません」
沈黙が、部屋に落ちた。
燭台の火が、風もないのに小さく揺れた気がした。
王弟殿下が低く呟いた。
「兄上が、自分でこの手袋を選んだと思うか」
「王太子殿下ほどのお方が、手袋一つを、ご自分で選ぶことは滅多にないはずです」
「では、誰が選んだ」
答えは、まだ私の舌の上にはなかった。
代わりに、朝の骨よりずっと嫌なものが、喉の奥に刺さっていた。私は手巾ごと手袋を卓に戻し、口を開く。
「殿下。一つだけ、どうしても合わないことがあります」
王弟殿下が、目だけで先を促した。
「銀糸草は、肌に触れてから四半刻と保たずに人を倒します。ですが殿下がこの手袋を嵌められたのは、夜会の始め——乾杯よりも前のはずです。毒が最初から手袋にあったのなら」
言葉にしながら、指先がまた冷えていく。
「殿下は、婚約破棄を仰るより、ずっと前に倒れていなければおかしいのです」
王弟殿下の灰青の瞳が、手袋から私へ移った。
「毒は、確かにここにありました。けれど手袋だけでは、あの時刻には倒れません。——何かが、引き金になった。眠っていた毒を、あの瞬間に起こした何かが」
私は、卓の端で萎れかけている白薔薇に目をやった。棘の先に何があるかを確かめるのは、この続きだ。あれに触れるなら、次はもっと慎重に、道具を揃えてからにしたい。ただ、予感だけが先に、喉の奥で疼いていた。
この手袋を、殿下の手に届けた誰かがいる。
そして、眠っていた毒を起こした何かがある。
その両方を、この舌で暴かなければならない。




