第003話 薬草温室の切り株
夜は、白い朝に変わっていた。
一睡もしていないのに、頭の芯は冷たく冴えている。
王弟宮の玄関で外套を羽織る私に、ヴィンセント王弟殿下は最初の行き先を訊いた。
「薬草温室です。銀糸草の株を、この目で検めます」
「兄上の手袋と薔薇は、後回しか。触れた何かを探すなら、先に検める品だろう」
「あの二つは、近衛の方々が封じてくださっています。物証は、逃げも枯れもしません。——それに、疑われている私が真っ先に触れた物証を、誰が信じてくれるでしょう」
手袋と薔薇の検分には、侍医の立ち会いが要る。その席が整うまでに、私は毒の出所を固めておきたい。
「検分の席は、俺が整えさせる。——いいだろう。案内は俺がする」
軟禁の初日から、檻の主が自ら鍵を開けてくれるらしい。
薬草温室は、王宮の南庭のいちばん奥に建っていた。
白い鉄の骨組みに、硝子張り。
番は老庭師が一人きり、錠は古いのが一つきり。国で最上位の毒草の畑にしては、あまりに手薄な守りに聞こえる。
けれどこの温室へは、門を三つと近衛の詰所を二つ越えなければ、辿り着けない。王宮の奥に置くこと自体が、錠なのだ。
裏を返せば、この畑を荒らせるのは——王宮の深部を、誰にも咎められずに歩ける人間だけ。
扉の前には、昨夜から近衛が二人。その傍らに、腰の曲がった小さな老人が、所在なげに立っていた。
温室番の老庭師だ。夜半に叩き起こされ、それきり近衛の目の下に置かれている——と、王弟殿下が歩きながら教えてくれた。
「ガストンと申しますだ、お貴い方さま。……この温室の草の世話を、三十年しております」
老庭師は、皺に埋もれた目をしばたたかせて、深々と頭を下げた。
扉をくぐると、湿った土と緑の匂いが押し寄せてきた。
薄荷。甘草。乾いた根。通路の隅の炭壺はまだ温い。夜半の霜よけの見回りの、名残だ。
銀糸草の畝を訊ねると、老人は曲がった背をさらに丸め、私たちを温室の最奥へと導いた。
壁際の畝に、その草は静かに並んでいた。
大人の膝までの高さ。濃い緑の葉を裏返せば、銀の糸のような葉脈が走る。
「株は、十六ございますだ。三十年かけて、やっと十六で……」
その声には、孫の数でも数えるような響きがあった。この老人にとってあの草は、毒である前に、三十年の丹精なのだろう。
私は裾が汚れるのも構わず、畝の脇に膝をついた。
一株ずつ、葉を裏返し、茎の根元を検めていく。
三株目で、指が止まった。
「……殿下。刈られています」
壁際の、いちばん陰になる株だった。外側の葉だけが、根元から鋏で正確に落とされている。
隣の株も。そのまた隣も。
「刈られた葉は、三つの株から合わせて九枚。切り口は乾いて、飴色に固まっています。刈られたのは、少なく見ても十日より前です」
「帳面が破られ始めた先月の半ばと、重なるな」
「はい。それから——この刈り口を、見てください」
私は、切り株の一つを指先でなぞった。
「いちばん外の、古い葉だけを選んで落としています。内側の若い葉を残せば、株は枯れません。銀糸草の性質を知り抜いた手つきです」
「庭師の手つき、ということか」
ガストン老人が、ひっ、と喉を鳴らした。
「わ、わしではねえです、お貴い方さま……! わしは、決して……!」
「刈り方を知る者は、庭師だけとは限りません」
私は静かに言い添えた。この老人の昨夜の足取りは、夜のうちに近衛が寝所ごと検め終えている——道すがら、王弟殿下からそう聞いた。
それより、確かめておくことがある。
「ガストン。あなたを疑って訊くのではありません。この刈り跡に、気づいていましたか」
老人の皺深い顔が、くしゃりと歪んだ。
「……半月ほど前ですだ。西の壁際の株の、陰が薄うなった気ぃがして。けんど、わしの目はこの通り遠うて……数え違いかもしれねえと」
誰かに話したかと問えば、老人は激しく首を振った。わしのような者が、薬師さま方に疑いを口にできるわけがねえです——と。
それでも、帳面にだけは書き残したのだという。
「『西の壁際、葉数合わねえようだ』と、書きましただ。次に薬師さまが見えたら、お訊ねするつもりで……」
私と王弟殿下は、目を見交わした。半月前——破られた頁の、ただ中だ。
「その頁は、もうありません」
老人は、へえ、と力なく応えた。震えて細くなったその声に、嘘の色はなかった。
目の遠い老人が屈み込まない限り、まず気づけない刈り方。この手口は銀糸草の性質だけでなく、老いた番人の目と日々の癖まで知り抜いている。
そして頁を破った手は、採取の記録だけではなく——庭師のかすかな気づきごと、消していったのだ。
「殿下。それより、数のお話をします」
「数?」
「九枚の葉を乾かして粉に挽いて、得られるのはせいぜい匙に半分です。人ひとりを昏倒させるには十分で——人ひとりを殺すには、届かない量です」
灰青の瞳が、わずかに細くなった。
「昨夜の兄上に盛られた量と、合うか」
「盛られた量そのものは、まだ誰にも量れません。私に量れるのは、あの昏睡の深さから逆算した、見積もりだけです」
毒見役の見立ては、断定と推量を混ぜてはいけない。
「その見積もりと、匙半分は——過不足なく、重なります。少なくとも、殺すために採られた量では、あり得ません」
「採れるだけ採ったら九枚だった、という線は。単に、足りなかっただけかもしれん」
同じ問いなら、畝を検めながら私も自分に向けていた。答えは、目の前の株たちがすでに出している。
「株は十六。手が付いたのは、壁際の三株だけです。同じ刈り方を続ければ、残る十三株から、誰にも気づかれずに、まだ何十枚でも採れました」
「それでも、九枚で止めている」
私は立ち上がり、膝の土を払った。
「はい。目につかない株を選び、枯れない位置で刈り、一枚も余さず持ち去り——そして、足りたところで手を止めている。最初から、殺さない量だけが入り用だったのです」
「殺す気のない、毒盛りか」
王弟殿下は切り株を見下ろしたまま、低く言った。
「……昨夜のうちにお前を牢へ入れなかった判断は、どうやら正しかったらしい」
褒め言葉の出し方が、つくづく不器用な方だ。
それでも胸の奥が少しだけ軽くなったのは、癪なので黙っておく。
「ガストン。この温室に出入りする者を、覚えているだけ挙げろ」
「へ、へえ。薬師さま方と、侍医さま方。庭師見習いが二人。水汲みの下男が一人……」
老人はそこで、言いにくそうに口をもごつかせた。
「それから……時折、お貴い方が。お忍びで、おいでになりますだ」
「名は」
「名乗られません。帳面には『お貴いお方』とだけ書いて参りましただ。……近ごろの分は、みいんな、破られた頁の中で」
「顔は」
「わしの目は、もう遠くて……上背のある殿方、としか」
顔の証言は、そこで霧に溶けた。
三十年、人の顔より葉の裏を見て生きてきた老人だ。責めるのは筋が違う。
けれど——近ごろの分は、と老人は言った。それなら古い分は、まだ頁の上に残っている。
「殿下。帳面を」
供の近衛が、革表紙の帳面を作業台に置いた。
昨夜の私は破られた断面ばかりを見て、残された頁を読んではいなかった。
破られていない古い頁を、遡る。指は、すぐに止まった。
——『お貴いお方、おいでになる』。
几帳面な細字の中に、その一行は点々と埋まっていた。月に一度か二度。刻限は決まって、人気の絶える夕暮れどき。
頁を遡っても、遡っても、その客は途切れない。
「……この帳面の、一枚目からです」
帳面の始まりは、三年前の春。それより古い綴じは蔵にあるといい、王弟殿下は近衛に、すべて引き上げるよう短く命じた。
「三年、か」
三年前——この方が『毒の影』を追い始めたのと、同じ頃だ。
私はただ、胸の中に一行だけ書き留めた。
——名を残さずにこの温室へ通える人間が、この王宮にいる。少なくとも、三年前から。
温室を出ると、朝日はもう回廊の柱を白く照らしていた。
王弟宮への帰り道。回廊の角から、近衛に挟まれた小柄な人影が歩いてくる。
淡い水色のドレス。昨夜の夜会の装いのままだ。
——ミレーヌ・フォール男爵令嬢。
昨夜から王宮に留め置かれているのだと、王弟殿下が短く言った。倒れた殿下のいちばん近くにいた娘だ。
ミレーヌ様も、こちらに気づいた。
「あ……」
小さな悲鳴を上げて、彼女は近衛の陰に半分、身を隠した。
「リ、リディア様……どうして、牢にいらっしゃらないの……」
「おはようございます、ミレーヌ様」
「ち、近寄らないでください! 殿下にあんなことをしておいて、まだわたくしに、何かなさるおつもり……!」
まだ私を犯人と信じているのか。それとも——。
続きを考えるより先に、朝の風が回廊を通り抜けた。
蜂蜜を煮詰めたような甘い香りが、ふわりと私の鼻に届く。
昨夜の広間では、殿下の毒の香りに気を取られていた。けれど今は、遮るものが何もない。
「近寄りません。ここから、香りの話をするだけです」
ミレーヌ様が、濡れた瞳のまま怪訝そうに眉を寄せた。
「あなたの香水の話です」
私は目を閉じて、鼻に届くものを、ひとつずつ数え上げた。
「橙花の精油。白檀と、乳香がひとつまみずつ。蜂蜜をひと垂らし。砂糖漬けの菫と——熟した杏の皮を、ほんの少し」
数え上げるたび、ミレーヌ様の顔から血の気が引いていった。
近衛たちまでが、息をのむのが分かった。
「どうして……嗅いだだけで、そんな……」
「香りは、嘘をつきませんから」
「調合は……調合を知っているのは、これを作った方だけの、はずで……」
言いかけて、ミレーヌ様は両手で自分の口を塞いだ。
口を塞いだその指先が、昨夜と同じように、小さく震えている。
——作った方。
ご自分で誂えた香水では、ないらしい。
けれど、本当に確かめたかったのはそこではなかった。
甘い香りの、いちばん底。橙花にも蜂蜜にも紛れない深いところに、それは一滴だけ沈んでいる。
青みがかった、煙のような後味の気配。香料店の棚には、決して並ばない匂い。
「ミレーヌ様。最後に、ひとつだけ」
私は、できるだけ静かに訊いた。
「その香水を切らした夜——眠れなくなったことは、ありませんか」
ミレーヌ様の肩が、大きく跳ねた。
見開かれた瞳が私を見て、それから縋るように近衛を見た。
「し、知りません……! わたくし、何も知りません……!」
答えの代わりに、彼女は身を翻した。
近衛が慌てて一礼し、小さな背中を追っていく。
回廊には、甘い香りの尾だけが残された。
足音が聞こえなくなるまで、王弟殿下は何も言わなかった。
「……何を確かめた」
「あの方の香水には、香料ではないものが一滴だけ、混ざっています」
「毒か」
「今すぐ命を取る類では、ありません。……あれは、纏う者をゆっくり虜にしていく、常習性のある薬草です」
香りを吸い込むたび、少しずつ手放せなくなる。切らせば、眠りが壊れる。そういう草だ。
「香水に薬草を混ぜる香水師は、いません。あの一滴は、調合した誰かの——意思です」
「香りで、人を縛るか」
王弟殿下の声が、氷の温度に戻った。
灰青の瞳が見ているのは、もう私ではない。この王宮のどこかに潜む、姿のない影のほうだ。
私は、遠ざかった甘い香りの余韻を、もう一度だけ鼻の奥で確かめた。
殺すには足りない、量り取られた銀糸草。人を虜にする、香りの底の一滴。
この事件に現れた二つの毒は、どちらも——人の命を、取ろうとしていない。
命でないのなら、この影はいったい、何を欲しがっているのだろう。
考えかけて、ふいに、背筋が冷えた。
香水の底に薬草を一滴、沈める——その手間を惜しまなかった誰かが、瓶を一つだけ作って、満足するだろうか。
あの甘い香りを纏わされているのが、ミレーヌ様お一人だと、いったい誰に言い切れるだろう。
三日の期限の、一日目。この甘い香りを、次の誰かに纏わせて回る手が、どこかで動いている。私はまだ、その顔も、名も知らない。




