第002話 氷の王弟と三日の取引
連れて行かれた先は、地下牢ではなかった。
冷たい石段を下りる覚悟までしていた私の靴が、毛足の深い絨毯を踏んでいる。
「……ここは、どこですか」
「王弟宮だ」
先を行く漆黒の背中は、振り向きもしなかった。
王弟宮は、王宮の北の外れに静かに建っていた。装飾の少ない、石の色そのままの宮だ。
両脇の近衛は、いつのまにか私の腕から手を離していた。
逃げるとは思われていないのか。それとも、逃げられるはずがないと思われているのか。
たぶん、後者だ。
私が通されたのは、暖炉に火の入った客間だった。
手枷もない。縄もない。近衛は二人、扉の外に残っただけ。
「掛けろ」
ヴィンセント王弟殿下は自ら先に長椅子へ掛け、向かいの席を顎で示した。
被疑者の扱いとして、何かが根本から間違っている。
言われたとおりに腰を下ろす。間違っているのはおそらく、地下牢を覚悟した私の想定のほうだ。
暖炉の火が、王弟殿下の横顔に淡い橙を落としている。
氷の王弟、という呼び名は、火のそばでも溶けそうになかった。
侍女が音もなく現れ、湯気の立つ茶器を二つ置いて、下がっていった。
私は反射的に茶器を取り、香りを検めていた。茶葉と、干した果実の皮。それだけだ。
「毒見役に茶を出したのは、初めてだ。毒見をする者の茶は、誰が検める」
「私が検めます。いま、香りだけの略式を済ませました。この場は、それで足りると判断しています」
「知っている。見ていた」
灰青の瞳は笑っていない。けれど、咎める色もなかった。
王弟殿下は、ご自分の茶には手を伸ばさない。
慎重な方だ、とだけ思った。
「取引のお話の前に、一つだけ教えてください。王太子殿下のご容態は」
「峠は越えた。眠り続けている。医者は三人つけた」
三人、という数に、事の重さがそのまま出ていた。
呼吸が乱れたら体を横に向けさせるように、とだけお願いした。銀糸草の昏睡は、喉から落ちる。
王弟殿下は「伝えてある」と短く答えた。広間での処置を、見ていたらしい。
膝の上で手を重ねる。ここからが、本題だ。
「では、伺います。なぜ地下牢ではないのですか。私は、王太子殿下の毒殺未遂の——ただ一人の被疑者のはずです」
「お前が犯人なら、牢が妥当だ。だが違うなら、その舌を三日も牢で錆びさせるのは俺の損になる」
「広間での『だろうな』も、同じご判断ですか。まるで初めから、私の潔白をご存じだったように聞こえました」
「信じたわけではない」
王弟殿下は、こともなげに言った。
「計算しただけだ。千の毒を見分ける舌が本気で人を害するなら、満座の夜会で、真っ先に自分が疑われる形の毒を選ぶはずがない。今夜のお前は、犯人と呼ぶには出来が悪すぎる」
「……褒め言葉として、受け取っておきます」
「それにもう一つ、理由がある」
灰青の瞳が、初めて正面から私を射た。
「俺は三年前から、この王宮に棲みついた『毒の影』を追っている」
毒の影。聞き慣れない言葉を、私は胸の中で繰り返した。
「ここ数年、この王宮では人が死にすぎる。医者が病名をつけられない急逝。昨日まで壮健だった者の、理由のない衰弱。それから——病でもないのに、人柄だけが別人のように変わっていく者」
最後の一言に、心臓が小さく跳ねた。
この半年、人が変わったように傲慢になられていった、ユリウス殿下のお顔が浮かんだからだ。
「だが、証が立たない。毒は目に見えず、多くは跡も残さない。俺の目にも、近衛の剣にも、影は斬れん」
「——だから、毒を舐めて言い当てる舌が要る。それが三日の取引の中身ですか」
「そうだ。お前は三日で、己の潔白と真犯人を示す。俺はその舌が、影に届く得物かどうかを見極める」
得物、という言い方が、いっそ清々(すがすが)しかった。
同情でも憐れみでもなく、道具としての値踏み。
けれど生まれてこのかた、私はずっと王家の道具だった。道具には道具の誇りがあり——そして道具にも、値のつけ方くらいはある。
「一つだけ、条件があります」
「言ってみろ」
「この舌が辿り着いた真実が誰の名前であっても、殿下はそれを握り潰さないでください」
言い終えてから、指先が冷たくなった。
王族に条件を出す被疑者など、この国のどこにもいない。
「それが王族の名でも、か」
「王族の名でも、です」
短い沈黙が落ちた。暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
灰青の瞳が、値踏みするように細められる。
「——いいだろう」
拍子抜けするほど、あっさりと。氷の王弟は、確かにそう言った。
「代わりに三日のあいだ、この宮から勝手に出るな。出るときは、俺か近衛をつける」
「軟禁、ということですか」
「檻だと思うなら、そう思え。お前を今夜のうちに吊るしたがっている連中から離しておくには、都合のいい檻だ」
保護、という言葉を、この方は使わないらしい。
私は「承知しました」とだけ答えた。
それから、顔を上げた。訊くなら、たぶん今しかない。
「広間で殿下は、私に『相変わらず、良い舌だ』と仰いました。私は殿下と、言葉を交わした覚えが一度もないのです」
灰青の瞳が、すっと私から逸れて、暖炉の火へ向いた。
「……三日を生き延びたら、答えてやる」
はぐらかされた。そのくせ、嘘の気配だけはなかった。
口をつけていない私の茶は、いつのまにか冷めきっていた。長い夜は、まだ終わらない。
「では——銀糸草について、知っていることを全て話せ」
それが、王弟殿下の最初の命令だった。
卓の上の蝋燭は、いつのまにか指二本ぶんも短くなっていた。
私は背筋を伸ばした。牢の代わりに与えられた戦場が、ここだ。
「銀糸草は、絵物語では『月の雫』とも呼ばれる毒草です。葉の裏に、銀の糸のような葉脈が走ることからその名がつきました」
そこから私は、この毒草がどれほど我儘な草かを、順に語った。
花は十年に一度しか咲かず、種はほとんど実らないこと。株分けでしか増やせないこと。庭師が付きっきりで世話をして、ようやく生き延びる草であること。
王弟殿下は口を挟まなかった。ただ、要点に触れるたび、瞬きがわずかに減る。
「毒としての格は、この国で最上位です。乾かして粉にした葉は、肌に触れてから四半刻もかからずに人を昏倒させます。早ければ、数十を数える間もなく」
「触れるだけで、か」
王弟殿下の声に、初めてわずかな感情の色が混ざった。
「はい。口に入る品は、すべてこの舌が通しています。杯や皿も、縁と外側まで検めるのが毒見の作法です——乾杯の杯も、注がれる前に。ですから王太子殿下は、今夜口にされた何かではなく——触れた何かで倒れたのです」
王弟殿下の指が、長椅子の肘掛けの上でゆっくりと組まれた。
「一つ、訊く」
声の温度が、わずかに下がった。
「お前は広間で、幼い頃に銀糸草を舐めたことがあると言った。毒見役の家は、絵物語の毒草を手元に置けるのか」
穏やかな問いに聞こえる。けれど私は、これが刃であることに気づいていた。
——アッシュフォード家こそ、銀糸草を手に入れられる家だったのではないか。
遠回しの、けれど当然の疑いだ。曖昧に答えれば、取引は三日を待たずに終わる。
私は茶を一口含んで、舌を湿らせた。毒見役の舌は、こういうときのためにもある。
「良いご質問です」
私は、まっすぐに答えた。
「訓練に使う毒は、一匙残らず王家からの支給品です。王宮で計量され、封蝋を施され、必要な分だけが我が家に届きます。使い終われば空の瓶ごと返納し、すべてが王宮の台帳に残ります」
「毒見役の家は、毒を『持たされる』ことはあっても、『持つ』ことを許されていません。——ですからアッシュフォード家に、銀糸草は手に入りません」
王弟殿下が、短く息を吐いた。
今のが笑いだったと気づくのに、少しかかった。
「そして殿下。今の話は、そのまま裏返ります」
ここから先は、広間では口にしなかった札だ。あの場には犯人の耳がある。切り札は、確かな買い手の前でだけ切ると決めていた。
私は一拍おいて、続けた。
「株分けでしか増えず、素人には枯らすことしかできず、王家がその全てを管理している毒草。それがこの国でまともに育つ場所は、ただ一つしかありません」
「——王宮の、薬草温室です」
沈黙は、一拍で終わった。
王弟殿下は立ち上がり、扉に向かって短く命じた。
「薬草温室の管理記録簿を押さえろ。温室番を叩き起こして構わん。今すぐだ」
扉の外の気配が二つ、弾かれたように駆け出していった。
記録簿が届いたのは、窓の外の闇がわずかに薄れ始めた頃だった。
卓に置かれた重い革表紙の帳面は、長年の指の脂で飴色に光っていた。
付き添った近衛の書き付けに、王弟殿下が目を走らせる。
「温室番の老庭師は、夜半にも霜よけの炭を検めに温室へ入っている。その見回りを帳面に書きつけたときまで、頁は一枚も欠けていなかったそうだ」
私は一礼して、帳面を引き寄せた。
水やりと施肥の記録。株の数。立ち入った者の名と刻限。几帳面な細字が、頁の隅々まで詰まっている。
温室番の仕事は、確かだ。……確かだからこそ。
頁をめくる私の指が、止まった。
「殿下」
書き付けを検分していた王弟殿下が、顔を上げた。
「破られています」
先月の半ばから、昨日の日付で終わるはずの最後の頁まで。事件を挟んだ前後の記録だけが、綴じ糸の根元から破り取られていた。
私は破られた断面に、そっと指先で触れた。
破り方は乱暴なのに、選び方は正確だ。慌てた人間の仕事ではない。
「銀糸草の葉は、摘んでもすぐには毒になりません。乾かして粉にするまで、十日はかかります。採取の記録を隠すだけなら、破るのは古い頁だけで足りるのです」
「だが、昨日の頁まで消えている」
「はい。広間が封じられたのは、夜半より前です。温室番が夜半に見たとき、帳面は無事でした。頁が破られたのは夜半より後——つまり、広間の封鎖より後です」
王弟殿下が、私の言葉の先を引き取った。
「封鎖は、今も解いていない。兄上が倒れてから扉を封じるまでも、出入り口は近衛が固めていた。封鎖の後に出たのは、運び出された兄上と医者、近衛、お前と俺だけ——いずれも足取りは割れている。今夜、温室に寄れた者は一人もいない」
「ゆえに、頁を破ったのは——あの広間にいた人間では、あり得ん」
温室番が自分で破って白を切っている見込みは、と私は先に疑いを一つ潰しにかかった。
「裏は取る。温室番には近衛をつける。だが、薄い。あの証言は破られた刻限を狭め、温室番自身を含む『広間の外の人間』へ疑いを向け直す。破った当人が、己の首を絞める証言を差し出す道理がない」
道理だった。この方の疑いは、雪のように公平に降る。
頷いて、帳面へ目を戻す。指先が、ゆっくりと冷えていく。
犯人は間違いなく、この広間の中にいる——広間を引かれていくとき、私はそう結論した。
その結論は、半分だけ正しかったのだ。
銀糸草は、触れてから効くまでが早い。そして倒れる寸前まで、殿下の声は朗々と張っていた。毒の回り始めた体に、あの声量は出ない。毒が肌に触れたのは——長く見ても、婚約破棄の宣言の少し前からの、ごく短いあいだだ。
そのあいだの殿下から、私は目を離していない。破棄される当人だったから、皮肉にも、あの広間の誰よりも。
あの短いあいだ、殿下はご自分からは、床にも柱にも卓にも触れていない。殿下に新しく触れたものは一つ残らず、人の手から渡ったか——人そのものだ。
毒を殿下に届けた手は、封鎖の内に、必ずある。
温室の頁を破り取った手は、封鎖の外に、確かにあった。
同じ夜。同じ人間には、決して務まらない。
「——殿下。犯人は、一人ではありません」
「毒を届けた手に、届けた自覚がない場合もか」
「その場合は、駒を盤の外から指した者がいます。どちらにしても——この毒殺は、一人で為せる仕事ではありません」
王弟殿下は、すぐには答えなかった。ただ、灰青の瞳の奥で、何かが静かに研がれた気がした。
「手は、二つ。頭がいくつあるかは——これからだ」
低い声は、私よりも、この王宮のどこかに潜む影へ向けられていた。
窓の外で、約束の三日の一日目が、白々と明け始めていた。




