第001話 婚約破棄の夜に
王太子殿下が、毒で倒れた。
満座の夜会で、私との婚約破棄を高らかに宣言した——その、直後に。
「……ユリウス殿下?」
誰かの手からグラスが滑り落ち、大理石の床で砕けた。
一拍おいて、悲鳴が大広間を満たした。
金糸の髪の王太子ユリウス殿下は、緋色の絨毯の上に崩れ落ちたまま、ぴくりとも動かない。
その傍らで、殿下に寄り添っていた男爵令嬢——ミレーヌ様が、白い喉をのけぞらせて叫ぶ。
「誰か! 誰か来て、殿下が、殿下がっ……!」
私は走り出していた。
考えるより先に、体が動いていた。
当然だ。
私はリディア・アッシュフォード。代々王家の毒見役を務める、アッシュフォード伯爵家の娘。物心つく前から匙一杯の毒とともに育てられ、千の毒を舌で見分けるよう仕込まれた、十八歳の毒見役だ。
今夜も殿下の御膳はすべて、この舌が先に通している。
未来の王太子妃に毒見をさせるのか、と眉をひそめる向きは今もある。
けれどこの婚約はそもそも、毒見役の家の娘を殿下の食卓の最も近くに置くための、政略だった。
私は殿下に選ばれた妃候補ではない。この舌ごと、王家に召し上げられただけの娘だ。
——もっとも。その婚約者の座すら、つい今しがた、この場で捨てられたばかりだけれど。
『リディア・アッシュフォード! 余は本日この時をもって、そなたとの婚約を破棄する!』
ほんの数分前。殿下は真新しい白手袋の手でミレーヌ様の肩を抱き寄せ、高らかにそう宣言なさった。
胸元には、彼女から捧げられたばかりの白薔薇が一輪。
破棄の理由として読み上げられたのは、身に覚えのない『ミレーヌ様への数々の嫌がらせ』だった。
反論の機会は与えられなかった。
けれど今は、そんなことはどうでもいい。
毒見役の目の前で、守るべき方が毒に倒れた。それがすべてだ。
「近寄るな!」
殿下の前に膝をつこうとした私を、近衛騎士が槍の柄で遮った。
「お通しなさい。毒見役です」
「毒見役だと? その毒見役がついていながら、殿下は——」
「問答している間にも、殿下の命が削れています。どきなさい」
私が声を低くすると、騎士は気圧されたように半歩引いた。
その隙間に体を滑り込ませ、殿下の傍らに膝をつく。
「殿下。失礼いたします」
答えはない。私は殿下のお体を横向きに支え、喉が塞がらないよう顎を上げさせた。
唇の端が、うっすらと青い。
呼吸は、ある。浅く、速い。額には玉の汗が浮き、白手袋に包まれた指先が小さく痙攣している。
おろしたての、真新しい絹の手袋。今夜のために、誰かが用意したのだろう。
吐いた跡はない。杯や皿から入った毒なら、まず胃の腑が暴れるはずなのに。
顔を近づけると、微かな香りが鼻の奥に触れた。
焦がした砂糖に似た甘さ。その奥に、錆びた鉄を舐めたときのような、冷たい後味の気配。
——銀糸草。
間違えようがない。幼い日の訓練で、水に千倍に薄めたこの毒を、私は舌に載せたことがある。一度知れば、生涯忘れられない後味だ。
世間では、絵物語にしか出てこない稀少な毒草。栽培は極端に難しく、この国でまともに育つ場所を、私は一つしか知らない。
けれど——香りの出所が、絞れない。
襟元か、手元か、それとも傍らの絨毯に落ちた白薔薇のあたりか。倒れた殿下の周りに、甘さが薄く漂っているだけ。
口から入った毒ではない。なら殿下は、いつ、どこから、これを?
考えは、背後の怒声に断ち切られた。
「その女を殿下から引き離せ!」
振り向くと、恰幅のいい壮年の貴族——ボードワン侯爵が、真っ赤な顔で私を指さしていた。
「毒見役がついていながら殿下が毒に倒れるなど、あり得ん! ——いや、違う。毒見役だからこそ、盛れたのだ!」
ざわ、と人垣が揺れた。
「そういえば殿下は今夜、この女との婚約を破棄なさったばかり……」
「捨てられた恨みで、まさか」
「王家の食卓を任された家の娘が、毒殺だなんて」
「ああ、恐ろしい」
扇の陰のささやきが、さざ波のように広がっていく。
ミレーヌ様が、濡れた瞳で私を見上げた。
「リディア様……嘘、ですよね? 殿下に捨てられたからって、こんなこと……」
細い両手が、胸の前で祈るように組まれている。
その指先が、小刻みに震えていた。
彼女が身じろぎするたび、蜂蜜を煮詰めたような甘い香りが、ふわりと揺れる。
殿下から漂っていた、あの毒の甘さと似ている——いや、違う。似ているだけで、別のものだ。
随分と甘い香水をつけるお嬢さんだ、と頭の隅に書き留めて、私は立ち上がった。
大広間を、ゆっくりと見渡す。
「殿下が今夜口にされたものは、食前酒から数えて十一品。すべて、私がこの舌で検めました」
声は、自分でも驚くほど平らに出た。
「乾杯のワインも、です。殿下の杯に注がれる前に、同じ瓶から取り分けた一杯を、私がこの舌で確かめています。ですが、ご覧の通り私は立っている。——毒は、ワインにはありませんでした」
「では殿下はなぜ倒れた! 貴様が毒見のふりをして盛ったのだろう!」
「私が盛ったのなら、真っ先にワインを疑わせるよう仕向けます。ご指摘の手口は、毒見役のものとしては杜撰にすぎます」
「へ、屁理屈を……! おい、この女を捕らえよ!」
侯爵が唾を飛ばした、そのとき。
大広間の扉が、重い音を立てて開いた。
「——全員、その場を動くな」
低い声だった。
叫んでもいないのに、悲鳴もささやきも、一瞬で凍りついた。
漆黒の近衛の制服。夜の色の髪に、冬の湖を思わせる灰青の瞳。
ヴィンセント・ロア・ヴァルテール王弟殿下。
王宮の警備と近衛のすべてを統べ、社交界で「氷の王弟」と呼ばれる方が、抜き身の刃のような空気を纏って歩いてくる。
貴婦人たちが波の引くように道を空けた。あのボードワン侯爵でさえ、口を閉じて一歩下がる。
「扉を封じろ。誰一人、この広間から出すな」
短い命令に、近衛たちが弾かれたように散った。
王弟殿下は兄君の傍らに片膝をつき、手早く脈と呼吸を確かめると、顔も上げずに言った。
「毒見役。所見を」
「銀糸草と思われます。唇の変色、発汗、指先の痙攣、そしてこの香り。すべて一致します」
「銀糸草。根拠は香りだけか」
「舐めれば確定できます。お望みでしたら、この場で」
「不要だ」
即答して、王弟殿下は兄君の襟元を緩めた。
「昏睡は深いか」
「深いです。ですが——量は、致死には届いていません。今夜は越えられます。殿下は、死にません」
言ってから、私は自分の言葉に眉を寄せた。
そう。それが、さっきから胸に刺さっている小さな棘だった。
銀糸草ほどの稀少な毒を用意しながら、量は致死に満たない。
犯人は手加減を誤ったのか。
それとも——最初から、殺すつもりなどなかったのか。
「……相変わらず、良い舌だ」
え、と顔を上げる。
王弟殿下は、もう私を見ていなかった。
相変わらず?
私はこの方と、言葉を交わしたことなど一度もないはずだ。
「ヴィンセント殿下! その女こそが下手人にございます、今すぐ縄を——」
「黙れ」
ボードワン侯爵の声が、たった一言で潰された。
「リディア・アッシュフォードを拘束しろ。身柄は俺が預かる」
近衛が二人、両側から私の腕を取った。
人垣から、それ見たことかというどよめきが上がる。
抵抗はしなかった。ただ、まっすぐに王弟殿下の目を見た。
「私は、盛っていません」
「だろうな」
——今、なんと仰った?
聞き返す間もなく、王弟殿下は私の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「三日やる。三日のうちに、その舌で、お前の潔白と真犯人を毒ごと暴いてみせろ。できなければ、毒見役の首が飛ぶ」
「……随分と、乱暴な取引ですね」
「嫌か」
「いいえ」
私は、静かに息を吸った。
胸の奥で、亡き母の口癖が響く。毒見の訓練の果てに死んだと、私が聞かされて育った、母の口癖が。
「お受けします。——毒は嘘をつきません。嘘をつくのは、いつだって人間のほうですから」
氷の王弟が、ほんの一瞬だけ笑った——ような、気がした。
「連れて行け」
両腕を取られたまま、私は大広間を横切っていく。
十八年、家のために毒を舐めて生きてきた娘の花道としては、上出来ではないか。
婚約を破棄され、罪を着せられ、罪人として引かれていく。それでも不思議と、足は震えなかった。
好奇と侮蔑の視線。扇の陰の嘲笑。倒れたままの元婚約者と、泣き崩れる男爵令嬢。
その一つひとつを順番に見ながら、私は考えていた。
ワインにも、料理にも、毒はなかった。口から入った毒でもない。
そして銀糸草は、体に触れてから効き目が出るまでが早い毒だ。あの深い昏睡から逆算すれば、毒が殿下に届いたのは——この広間に入られてから。
つまり、犯人は間違いなく、この広間にいた。
そして王弟殿下は、まだ誰一人、ここから外に出していない。
——殿下に毒を盛った犯人は、今も、この広間の中にいる。




