第010話 毒見役、王宮に返り咲く
「先王もまた、銀糸草で死んだ」
殿下の声は静かだったのに、朝日より先に部屋の隅々まで染み渡った。
白磁の小瓶を握る指に、知らず力がこもる。三年前から殿下が追ってきた「毒の影」の、いちばん最初の一手が、そこにあった。
「……確かなのですか」
「表向きは、急な心の臓の発作だった。だが、最期の場に居合わせた先王付きの老侍従から、後になって密かに聞き取った話がある」
殿下は指を折るように、一つずつ挙げていった。
「倒れる間際、父上の周りに焦がした砂糖に似た甘い香りが漂っていたこと。その夜、父上は杯にも皿にも指一本触れていなかったこと。それなのに、糸が切れたように前触れなく昏倒されたこと」
私は頭の中で、その三つを並べ直した。飲まず食わずのまま、直前に漂う甘い香り、急な昏倒——あの夜会の広間で、王太子殿下が倒れた型と同じだ。
「……口からではなく、触れて入る毒の倒れ方です。銀糸草と見て、矛盾しません」
「ああ。だが、あるのは証言一つだ。物証がない。疑いだけで先王の死を暴けば、国が割れる。だから三年、誰にも言えなかった」
灰青の瞳が、窓の外の白む空へ向く。
「今は、疑いを繋ぐ糸があります」
私は小瓶を殿下へ差し出した。
「この小瓶が証すのは、ミレーヌ様に盛られた毒のことだけです。それでも——テオの死、ミレーヌ様の毒、そして先王陛下の御最期。三つを同じ手の仕業と疑うだけの糸には、なります。ここまで来れば、これはもう伯爵令嬢一人の冤罪の話ではありません」
殿下は、しばらく黙って小瓶を見下ろしていた。
「陛下に、直訴する」
迷いのない声だった。
三日の期限のことは、もう頭の隅にもなかった。テオの死で事が国家の陰謀へ広がったあの朝、殿下は「取引は破棄する。お前の首は、これより俺が預かる」と言い切っている。首を求める声は、広間での実演のあと、とうに立てなくなっていた。
「それでも、囁く口だけは残っています」
「その囁きも、陛下がこの糸を認めてくださればやむ」
殿下は小瓶へ目を戻した。
「残っているのは、俺の側の戦いだ。今日、決着をつける」
隣室では、ミレーヌ様がまだ眠り続けている。付き添いは口の堅い侍女一人とモロー様に絞ってあった。
「目を覚ましても、名を問うことだけは、誰にも許すな」
殿下がそう申し渡すのを、私はこの耳で聞いていた。それだけ、あの一言は固かった。
丸薬をいつ、誰の手から受け取ったのか——訊きたいことは山ほどあったけれど、名の際に触れる問いは、まだ許されない。
辿れる糸は、小瓶の出所だけだった。
「謁見は昼だ。それまで、一刻でも眠れ」
言い返しかけた私を、殿下は一瞥だけで封じた。
「二日眠っていない毒見役に、陛下は権を預けん。御前で倒れる気か」
そう言われては、退けなかった。横になると体は言葉より正直で、瞼はすぐに落ちた。夢も見ない短い眠りから覚めると、日はもう高かった。
侍女が運んできたのは、軟禁の身では袖を通せなかった、伯爵家の色を織り込んだ一着だった。着替えを終えて廊下に出ると、殿下が待っていた。
「今日は、疑いの目で見られる側ではない」
短く頷いた私に、殿下は畳みかけた。
「胸を張って歩け。俯く癖は、もう捨てろ」
短い一言に、背筋が自然と伸びた。
その日の昼、私は殿下に伴われ、陛下の御前へ上がった。数日ぶりに熱が引いて床を上げられた、と今朝がた報せが届いたのだという。殿下が幾日も待ち続けた、小康の一日だった。
回廊を歩く足の下で、床の大理石が朝より冷たく感じられた。緊張のせいだと分かっていても、鼓動は速いままだった。
寝所の隣に設えられた謁見の間で、陛下は寝椅子に半身を起こしていた。分厚い毛皮を膝にかけ、傍らには薬湯の椀が湯気を立てている。頬はこけ、声には隠しようのない疲れがあったが、目だけは澄んでいた。
壁際には、宰相府ではない王家直属の文官が二人だけ控えていた。この場に立ち会う人間の数さえ、殿下が選び抜いたのだと分かる少なさだった。誰の耳を通さず、誰の口も挟ませない。今度こそ漏れてはならない部屋だった。
「お前が、噂の毒見役か」
「はい。リディア・アッシュフォードにございます」
「舌一つで、宰相府まで揺らしたと聞いた」
毛皮の上の指が、試すように一度だけ動いた。責める声ではなかった。
「揺らしたのは、私ではなく毒そのものです。私はただ、それを言い当てただけにございます」
短い沈黙のあと、陛下の口元がわずかに緩んだ。
「良い答えだ。母君譲りか」
その一言に、胸の奥が小さく波打った。だが今は、聞き返す場ではない。
殿下が一歩進み出て、これまでの経緯を淀みなく奏上した。銀糸草の出所、白薔薇の経路、テオの口封じ、宰相府の封蝋の疑い、ミレーヌ様の証言、そして先王陛下の御最期に符合する疑い。最後に殿下は、三年のあいだ、たった独りでこの影を追ってきたことまで、隠さず言葉にした。
聞き終えた陛下は、長く息をついた。
「宰相府へ踏み込む裁可を、求めに来たのだと思うていた」
「今は、あえて求めません」
陛下の眉が、わずかに動いた。殿下は静かに続ける。
「封蝋の欠片は、燃やし損ねたにしては形が残りすぎています。宰相が黒である線と、宰相に見せかけたい者がいる線。どちらとも決まらぬうちに踏み込めば、仕掛けた側の思う壺になりかねません。願いは、別に一つだけです」
陛下は目だけで、先を促した。
「リディア・アッシュフォードの疑いを晴らし、王宮のいずこでも毒を検められる役を、この者に」
陛下の声が、初めて鋭さを帯びた。
「一介の令嬢に、王宮の毒を検める権を与えよと申すか」
玉座に届かぬ寝椅子の上でも、王の重みは変わらないのだと分かった。殿下は目を伏せもせず、深く頷いた。
「反発は大きいぞ。毒見役の家が、調査の刃まで持てば――お前を庇っていると見る者も出よう」
殿下は、微塵も揺らがなかった。
「見られて構いません。この舌を疑わず使ったのは、俺が最初で最後にはしたくない」
陛下は答えず、毛皮の上で骨の浮いた指を、ゆっくりと組み替えた。長い沈黙のあとで、絞り出すような声が落ちた。
「三年も、独りで抱えさせたか。……すまなかった」
「陛下のせいでは」
「王の言葉を、遮るでない」
穏やかな叱責に、殿下が口をつぐんだ。陛下は寝椅子の肘掛けに手をつき、私へ視線を戻す。
「アッシュフォード嬢への疑いは、この場で晴れたものとする。三日の期限も、初めからなかったことにせよ」
思わず、顔を上げていた。陛下は構わず続ける。
「加えて、王弟宮付き毒見役――兼、此度の調査役に任ずる。以後、王宮のいずこにあっても、疑わしき毒を検める権を持て」
御前に控えていた文官が、慌てて筆を走らせる音がした。夢ではないのだと、その音が教えてくれた。
陛下は最後に、私へまっすぐ目を向けた。
「舌を、大事にせよ。それがこの国を救うことも、あるらしいからな」
深く頭を下げる私の視界の端で、殿下がわずかに口の端を上げるのが見えた。頭を上げても、まだ実感が追いついてこなかった。
その言葉は、日が傾く前に大広間の隅々まで届いていた。
耳をすませて、私は静かに数えた。回っているのは任命の報だけ。先王の御名は、どこからも聞こえてこない——あの部屋は、守られた。噂の速さを数える癖が、今日は初めて、安堵の形で答えを返してきた。
夕刻、大広間に呼び出された私は、居並ぶ貴族たちの視線を一身に浴びながら、殿下の隣に立った。燭台の灯りの下、誰の顔も、あの夜と同じくらいよく見えた。
正面には、あの夜いちばん大きな声で私を糾弾した、ボードワン侯爵の姿もある。
「陛下の詔により、アッシュフォード伯爵令嬢リディアへの疑いは、すべて晴れたものとする」
大法官モーリスの重い声が、広間に響いた。
ボードワン侯爵の赤ら顔が、見る間に色を失っていく。あの夜「毒見役だからこそ盛れたのだろう」と真っ先に声を上げたのは、この人だった。
「加えて、アッシュフォード伯爵令嬢リディアを、王弟宮付き毒見役兼調査役に任ずる」
証しとして、大法官モーリスが小さな銀の徽章を私へ手渡した。王弟宮の紋が刻まれている。受け取る指が、わずかに震えた。
ざわめきが、波のように広がった。誰も、声には出さない。それでも扇の陰の目が、忙しく動いているのが分かった。
廊下で扇の陰から声を投げていた令嬢たちの姿も、その中にある。目が合うより先に、扇がすっと下がり、視線が床へ落ちた。あの日のように交代で囁く声は、もうどこからも上がらなかった。
「異存のある者は」
殿下の低い声に、広間が水を打ったように静まった。ボードワン侯爵が、何かを言いかけて、飲み込む。喉仏だけが、大きく上下した。
誰も、何も言わなかった。広間を満たしていたのは、静けさというより、竦みだった。
ダレン侯爵だけが、一歩進み出た。
「大慶にございます。冤罪の霧が晴れたこと、これほど喜ばしいことはございません」
この方だけは、初日から私を嗤わなかった。そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
「アッシュフォード嬢の舌が、この国の毒を追い出してくれることを、心から願っております」
穏やかな声に、いくつかの頷きが続いた。その中に紛れて、私は小さく頭を下げるにとどめた。
嗤われた側から、嗤われなくなった側へ。立場は変わった。それでも、心のどこかは、まだ醒めたままだった。毒は嘘をつかない。だが人は、掌を返す速さでいくらでも嘘をつく。
その中にただ一人、私の父はいなかった。領地から出られない身の父に、この光景は届かない。届いたとしても、母のことを話さない父が、何を思うのかは分からなかった。
胸元の徽章に、そっと指を添える。毒見役として生まれ、毒見役として名を汚され、また毒見役として立っている。ただ一つだけ違うのは、今この舌を信じてくれる人が、隣にいることだった。
広間を出たところで、殿下が短く声をかけてきた。
「顔が晴れないな」
「勝った気が、しないだけです。何も、終わっていませんから」
殿下は小さく頷いた。それ以上、何も言わなかった。並んで歩くその歩幅が、初めて出会った日より、少しだけ近かった。
夜になって、モロー様から報せが届いた。王太子殿下の脈がこの数日で持ち直しており、今夜あたり、目を覚まされるやもしれません——と。
私は殿下とともに、王太子殿下の寝所を訪ねた。軟禁の身では近衛の付き添いなしに踏み込めなかった部屋へ、任命の詔が下ったその日に、堂々と入れるようになった。それだけでも、この数日の重さが分かる。
眠り続けるユリウス殿下の顔に、この数日でわずかに赤みが戻っている。モロー侍医長の見立てどおり、峠は疾うに越えている。あとは、目を覚ますのを待つだけだった。
寝台の脇に膝をつき、脈を確かめる。今夜は、いつもより力強い。婚約破棄を告げたあの声を最後に、私はこの方の意識ある姿を、まだ一度も見ていなかった。
名を呼びかけると、閉じていた瞼が、かすかに震えた。
ゆっくりと、瞳がこちらへ焦点を結んでいく。
「……ここは」
かすれた声だった。尊大だったあの声とは、別人のように弱々しい。
半年間、人が変わったように傲慢だったこの方が、今はただ怯えた子供のような目をしていた。
「王宮です。もう危険は去りました」
私が答えると、ユリウス殿下の瞳が、ゆっくりと私の顔をとらえた。困惑が、その奥に滲んでいく。
隣に立つヴィンセント殿下が、身じろぎもせず兄の顔を見下ろしていた。灯りに照らされた横顔が、いつになく張り詰めている。
最初から殺すつもりなどなかった、あの毒の量。今なら分かる。狙われたのはユリウス殿下の命ではなく——
「リディア……?」
呆けたような呟きだった。
「なぜ、お前が、ここに」
言葉を継ごうとして、ユリウス殿下の眉が、苦しげに寄る。
「俺は……なぜ、お前を捨てたんだ……?」
答えを求める目ではなかった。自分自身にすら、理由が見えていない目だった。
病でもないのに、人柄だけが別人のように変わっていく者がいる——いつか殿下が口にした、あの言葉が耳の奥で蘇った。
半年前、この方に何があったのか。いつ、誰の手で。それはまだ、誰にも答えられない問いだった。
私は、何も言えなかった。灰青の瞳が、隣で静かに険しくなるのが分かった。




