第011話 灰の中の頁
朝の光が、王弟宮の回廊に長い影を落としていた。
胸元の徽章にそっと指を添え、私はもう一度、その重みを確かめる。王弟宮付き毒見役――兼、調査役。肩書きが本物になったのは、昨日の今日だ。
昨夜、ユリウス殿下は半年ぶりに目を覚まされた。本当なら、真っ先にお話を伺うべき方だ。
けれど今朝早く、モロー様が申し渡した。目覚めたばかりの殿下は、まだ長い問いに耐えられる容態ではない、と。半年の霧は、一晩では晴れない。
だから今日は、物に語らせる番だった。
懐には、あの銘のない白磁の小瓶。中の丸薬が、歩くたびに微かな音を立てる。糸口は、これしかなかった。
「支度は済んだか」
殿下が、回廊の先で待っていた。今日は近衛を三人だけ連れている。軟禁の身だった数日前なら、私のために近衛が三人も割かれることはなかった。
「はい。行き先は、王都の薬師ギルドで間違いありませんね」
「ああ。だが、その前に話しておくことがある」
馬車に乗り込むと、殿下は窓の外へ目をやりながら切り出した。
「宰相府から、内々に使いが来た。封蝋の疑いを知って、実物の型を突き合わせたいと」
「潔白を、自ら証してこられた、ということですか」
窓の外の景色を映したまま、殿下の横顔は動かなかった。
「疑われたままでは、動きが取れんのだろう。突き合わせは昨夜のうちに済んだ」
殿下の声に、わずかな硬さが混じった。
「テオの燃え残りの封蝋――あれは、二年前の改鋳で型を廃した、古い紋様だった。今の宰相府では、押せない」
息を呑んだ。仕立てだ。誰かが、宰相府の名を借りて、疑いだけを走らせた。
「宰相府は、白ということですね」
「白だ。だが、白だと分かったことで、黒い手がどこかにいることだけは、確かになった」
私は膝の上で、指を組み直した。夜会の夜から数えて、いくつも並んだ謎のうち、一つがようやく形を持った。
封蝋は仕立て。ならば追うべきは、廃された古い型を手にできた誰かだ。
「燃え残りと、古い型の実物は――後で、私の目でも検めます。あの欠片に最初に疑いを立てたのは、私ですから」
「そのつもりで、両方とも封をして預かってある」
馬車の車輪が、石畳の継ぎ目を拾って小さく跳ねた。窓の外を、王都の家並みが流れていく。
「疑いの目で見られる側ではない、と仰ったこと、忘れておりません」
沈黙を破ったのは、私だった。
「ですが今度は、疑う側に回ります。宰相府の潔白を証すのと、真の黒い手を探し当てるのとでは、話の重さが違います」
殿下は窓の外へ向けていた目を、私へ戻した。
「重さが違うと分かっているなら、心配はいらん。分からぬまま突っ込む者のほうが、よほど危うい」
短い言葉に、頷き返す。信を置かれている、と分かる声だった。それだけで、懐の小瓶が、少しだけ軽くなった気がした。
薬師ギルドは、王都の職人街の一角にあった。木の看板に、乳鉢と匙を組んだ紋章が刻まれている。
軟禁の身で王宮から出られなかったこの数日を思うと、往来を歩く自分の足取りが、まだどこか他人のもののように感じられた。誰も、私を指差さない。誰も、扇の陰で囁かない。ただの通行人として道を行き交う人々の中を、私は殿下と並んで歩いた。
出迎えたのは、白髪交じりの髭を蓄えた大柄な男だった。丈夫な前掛けの胸元に、無数の焦げ跡と染みが刻まれている。長年、火と薬に向き合ってきた手だと、一目で分かった。
「ギルド長のレニエです。王弟殿下自らのお越しとは……して、御用向きは」
「この丸薬の出どころを、調べたい」
私は懐から小瓶を取り出した。栓を抜く前に、レニエ殿の目を見て告げる。
「先に申し上げます。中の丸薬には、毒が固められています。割った断面には、決して素手で触れませんように」
レニエ殿の顔色が、変わった。
長年火と薬に向き合ってきた者の顔から、客あしらいの柔らかさが消えていた。
彼は無言で頷くと、作業台から清潔な布と小刀を取ってきた。布を敷いた掌に丸薬を一粒受け取り、眼鏡越しにしばらくそれを眺める。
やがて小刀の先で、丸薬が静かに割られた。
断面が、二層に分かれているのが見える。
「……これは」
「表と裏で、色味が違います。薬の層と、毒の層。継ぎ目に、乱れがありません」
私は割れた断面に鼻を寄せた。乾いた薬草の匂いの奥に、あの重い苦みが沈んでいる。
「継ぎ目を境に、香りの立ち方まで変わっています。溶ける速さを、層ごとに変えている証です」
レニエ殿の眉が、ぐっと寄った。彼は布ごと丸薬を作業台に置き、断面から目を離さないまま、低い声で言った。
「二層に固めるだけなら、ギルドにも数人おります。ですが――」
太い指が、断面の継ぎ目を、触れない距離でなぞる。
「この継ぎ目の乱れのなさ。層ごとに溶ける速さを変える仕事。ここまでやれる手は、一人しかおりません」
「その方の、名前を」
私が問うと、レニエ殿は少しの間、言葉を選ぶように黙った。
「オーギュストです。王宮御用の看板を掲げる、唯一の調薬師です」
その名を口にした瞬間、周りで手を止めていた職人たちが、誰からともなく静かに道を空けた。誰も、口を挟まなかった。
「オーギュストは、いつからこの仕事を」
「かれこれ、二十年になります。私の下で修業して、十年前に王宮御用の看板を賜りました。腕は、私よりも上です」
レニエ殿の声には、誇らしさと不安が入り混じっていた。長く見てきた弟子の名が、こんな形で王弟殿下の口に上る意味を、彼はもう察している様子だった。
「今朝、本人の姿は」
殿下の問いに、レニエ殿は首を横に振った。
「まだ見ておりません。昨夜が月々の納めの期日でしたが、品が届かず……夜のうちに人をやったところ、工房に灯りはあったと。それきりです」
そのとき、ギルドの扉が乱暴に開いた。
若い職人が、転がるように駆け込んでくる。煤に汚れた顔のまま、彼は息を切らして叫んだ。
「ギルド長! オーギュスト様の工房が――燃えました。昨夜のうちに、丸ごと!」
レニエ殿の手から、小刀が落ちた。
石の床で跳ねる硬い音が、静まり返った仕事場に、いやに大きく響いた。
「その工房へ、案内しろ」
殿下が、短く命じた。
工房は、ギルドから半刻ほどの通りにあった。私たちが辿り着いたとき、そこにあったのは、焼け落ちた黒い骨組みだけだった。
まだ、白い煙が薄く立ち上っている。
「火の手が上がったのは、真夜中を過ぎた頃だそうです」
先に駆けつけていた職人が、青ざめた顔で言った。
「近所の者が総出で水を掛けましたが、火の回りが早すぎて……オーギュスト様の姿は、どこにも」
殿下の目が、灰の山を鋭く見渡す。
「不注意な火か」
私は焼け跡に踏み込み、崩れた棚の残骸に膝をついた。炭化した木片の中に、竈の跡がある。だが、焼け方が違った。
「竈は、外側が焦げているだけです。火は、そこから広がっていません」
指の先で、焼け残った棚板をなぞる。灰の匂いに混じって、油の焦げた匂いが鼻の奥に残った。
「火元は、薬棚です。油を含んだ薬品の焼け方――一度に、燃え広がっています」
殿下の目が、細くなった。
「人の手か」
「はい。証拠を、消すための火です」
口にすると、その言葉は自分の耳にも冷たく響いた。
近衛たちが、焼け残った梁を退けながら、奥まで残骸を検めていく。しばらくして、一人が首を横に振った。
「亡骸は、見当たりません」
生きているのか、どこかに運ばれたのか、それとも灰の下にまだ埋もれているのか。今はまだ、どれとも言えなかった。
ギルドへ戻った私たちを、レニエ殿が青ざめた顔で迎えた。
「名簿を、確かめました。オーギュストの頁が……ありません」
差し出された台帳を、私は自分の手でめくった。綴じ糸の際が、乱暴に千切れている。それでいて、抜かれた頁は、その一枚だけだった。
指先が、止まった。
この破り方には、覚えがある。王宮の薬草温室の管理記録簿――事件の前後だけを破り取られた、あの帳面と、同じ癖だ。乱暴に、けれど狙いだけは正確に。
また、同じ形。
温室の帳面、そして今度はギルドの名簿。手口を変えないのは、隠す気がないからか。それとも、これが一番確実だと知り尽くしているからか。
どちらにせよ、この破り方は、もう署名のようなものだった。
「同じ手が……私たちの一歩先を、歩いています」
呟いた声に、殿下が振り返った。
「小瓶が、ミレーヌの部屋に残っていたこと自体、先に読まれていたということか」
「かもしれません。あるいは――」
言葉を切った。もう一つの線が、頭の中にある。あの評議の話が、半刻で社交界を回った、見えない口。同じ口が、私たちの動きを、ここまで運んだのか。
けれど、それだけでは腑に落ちない。名簿を破り、工房を焼いたのは、昨夜のうちのことだ。私たちがこの丸薬を手に薬師ギルドの門をくぐるより、先に済んでいる。
「二本、線があります」
そう言って、指を二本立てた。
「一本は、私たちの動きが、内側のどこかから漏れている、という線。それとも――もう一本。ミレーヌ様を救い出したあの夜を境に、向こうが自分の痕跡を、自分の手で消し始めた、という線です。誰かに読まれるまでもなく、消すべきものを一番よく知っているのは、それを作らせた側なのですから」
まだ、どちらとも言い切れない。断定するには、糸が細すぎる。
殿下は答えなかった。灰色がかった目が、窓の外、焼け跡のある方角へ静かに向けられている。
「捜す。生死を問わず、必ず見つけ出す」
低い声だった。これまで聞いたことのない、静かな怒りが滲んでいた。
私は焼け残った台帳を、そっと胸に抱いた。灰の匂いを吸いながら、考える。
テオは、こちらの捕縛の手が届く前に消された。ミレーヌ様は、名を言いかけた瞬間に倒れた。二人とも、毒と知らされずに使われた駒だった。駒は、用が済めば捨てられる。
けれど、薬と毒を二層に固めた当人だけは、中身を知らずに作れるはずがない。オーギュストは、駒ではない。造り手だ。
そこまで考えて、指先が冷えた。
攫われたのか。灰の下に眠っているのか。自分の足で逃げたのか。三つの線は、まだどれも切れていない。ただ、造り手だという一点が、そのどれよりも重く思えた。
造り手なら、生かして使う値打ちがある。同じ手を、もう一度作らせるために。ならば、まだ息があるかもしれない。
もっとも、その造り手が、進んで毒を練った黒い手の一人なのか、それともミレーヌ様のように脅されて練らされた者なのかは、まだ分からない。分からないからこそ、亡骸になる前に、こちらの手で問い質さねばならなかった。この事件で初めて、毒を知る側の証人に、手が届くかもしれないのだ。あの見えない手が造り手を要らぬと決めるより、半歩でも早く。
台帳を抱く腕に、力がこもった。頁を破った同じ手は、いつも私たちの半歩先を歩いている。次にその半歩先で待っているのが、造り手の亡骸なのか、それとも――王宮の内から伸びて、まだ一度も姿を見せない、あの手そのものなのか。




