第012話 香炉の底に眠るもの
「今日なら、話ができるそうです」
朝の回廊で、モロー様がそう告げに来た。目の下の隈は昨日よりも薄い。二晩詰めた甲斐があった、と言いたげな顔だった。
長くはならないこと、半刻が限度であること。モロー様は指を一本立てて、そう念を押した。
「心得ました」
ヴィンセント殿下が短く答える。私は懐の徽章に指を添え、頷いた。
オーギュストの捜索は、近衛が夜を徹して続けている。けれど、報せはまだ届かない。攫われたのか、灰の下に眠るのか、自らの足で消えたのか——三つの線は、どれもまだ切れていなかった。
切れていない糸を近衛が辿っているあいだに、私たちには私たちの番がある。今日は、目を覚ましたユリウス殿下ご自身に、語っていただく日だった。
回廊の窓から差す朝日が、大理石の床に長い影を落としている。数日前は近衛に囲まれ、疑いの目で歩いた同じ道を、今日は違う足取りで進んでいた。
扉をくぐった瞬間、鼻の奥に、何かが一筋触れた。
薬湯の湯気、煎じ薬の名残、糊の効いた寝具。病間らしい匂いの底に、そのどれでもない甘さが、ほんのかすかに沈んでいる。
すぐには、名前が浮かばなかった。私はその一筋を鼻の奥に留めたまま、寝台へ歩を進めた。
寝台に半身を起こしたユリウス殿下は、記憶の中の尊大な姿とは、別人のように痩せていた。頬はこけ、寝間着の襟から覗く鎖骨が、以前より鋭く浮いている。半年の傲慢さの下に、こんなに脆い体があったのかと、私は少しだけたじろいだ。
「……すまなかった」
私が座るなり、ユリウス殿下はそう切り出した。声に、以前の高圧さはない。
「婚約を、一方的に破棄した。理由を聞かれても、今の俺にはうまく答えられない」
「覚えておられないのですか」
掛布の上で、ユリウス殿下の指が所在なげに組み直された。
「覚えている、はずなんだ。あの夜、お前に言った言葉も、その前の半年も」
ユリウス殿下は額に手をやり、言葉を探すように黙った。落ち窪んだ目が、宙の一点を見つめている。
「だが、思い出そうとすると、霧の向こうの台本を読んでいるみたいだ。自分の声なのに、誰かが書いた台詞を読まされていた気がする」
台本、という言葉が、耳の奥に引っかかった。扉をくぐったときの、あの甘い一筋と、どこかで結び合う気がした。
「破棄を告げたときの、ご自分の気持ちは」
「分からない。腹を立てていたはずなのに、何に腹を立てていたのか、今はもう思い出せない」
隣に立つヴィンセント殿下が、私へ目配せをする。私は小さく頷き返した。同じ違和感を、たった今、二人で確かめ合ったのだと分かった。
聴取を終え、私はユリウス殿下の許しを得て、寝所の中を検分に回った。
胸の内で、私は刻を数える。モロー様が立てた指は一本、約束は半刻。聴取に使ったのは、まだその半分に満たない。残りの砂で、検分まで済ませなくてはならない。
鼻の奥の一筋は、聴取のあいだも消えなかった。出所を、この目で確かめなくてはならない。
甘さの糸を辿った先——寝台の脇、小卓の上に、青銅の香炉が置かれていた。彫り込まれた唐草模様の隙間から、細い煙が絶えることなく立ち昇っている。
「これは、いつからお使いに」
「香か? ……半年ほど前だ。眠りが浅くなった頃、侍医の勧めで焚き始めた」
半年前。私の中で、何かがかちりと音を立てた。半年前——ユリウス殿下の人柄が変わり始めたと囁かれ出した、あの時期と重なる。
「どの侍医が、お勧めしたのですか」
問いを重ねると、ユリウス殿下の眉が、苦しげに寄った。
「……顔が、思い出せない。侍医の誰かのはずなのに、そこだけ霧の向こうだ」
勧めた顔だけが、霧に呑まれている。それ自体が、答えの一部のように思えた。誰が勧め、誰が香油を納め続けてきたのか。次に引くべき糸として、胸の帳面に書き留める。
「少し、灰を検めても構いませんか」
ユリウス殿下が頷くのを確かめ、私は匙で香炉の灰をひとすくい、白い布の上に広げた。窓辺に寄り、光にかざして色を見る。灰そのものは、ただの木灰と変わらない。
布は、鼻先から拳一つ分だけ離して構えた。疑いのある煙を、深く吸う気はない。灰に残った移り香を短くひと嗅ぎ検めるだけなら、慣らされたこの鼻の、許しの内だ。
焦げた薬草の匂いの下に、蜂蜜を煮詰めたような甘さが、かすかに沈んでいた。
覚えのある匂いだった。喉の奥で、記憶が音もなく像を結んでいく。青みがかった煙のような、あの一滴と同じ後味の気配。ミレーヌ様の香水の底に沈んでいたのと、同じものだ。
「ユリウス殿下。この香には——香料ではないものが、混ぜられています」
ヴィンセント殿下の目が、鋭く細くなった。
「ミレーヌの香水と、同じか」
「同じ気配がします。ただの匂い付けではありません。人の意思をなだらかに操る、あの香毒です」
ユリウス殿下の顔から、血の気が引いていった。
私は香炉の蓋を閉ざし、火を封じた。唐草の隙間から漏れていた細い煙が、最後に一度だけ揺れて、途切れる。半年この部屋に立ち込めていた霧の、それが終わりだった。
「半年、殿下は毒の霧の中で暮らしておられました」
言葉を選ばずに告げた。今は、優しく包む場面ではない。窓を開け、朝の風を通す。一朝の煙で染まるほど人の意思は柔ではないけれど、回復へ向かう体に、これ以上は一筋も要らない。
寝間着の膝の上で、ユリウス殿下の拳が震えていた。
「では、俺が半年、傲慢になったのも、ミレーヌに執着したのも……」
「本当のご自分ではなかった、と申し上げます」
言いながら、頭の中で別の糸が繋がっていく。婚約破棄の夜、ユリウス殿下に盛られた銀糸草は、命を奪うにはあまりに少ない量だった。あのときは分からなかった問いの答えが、今、輪郭を持ち始めていた。
布の上の灰へ、もう一度目を落とす。答え合わせは、まだ終わっていない。
「銀糸草は、殺すための毒ではなかったのだと思います」
「どういうことだ」
ヴィンセント殿下が、短く問う。
「量を誤っただけ、という線は薄いのです。棘の塗り、手袋の粉、お体に入った分——三つを合わせても、匙半分の見積もりに収まりました。あの毒は、最初から量を測られていた」
そのうえで、と私は続けた。
「殺せば、疑いは黒幕へ向かいます。ですが眠らせて、その場に私を巻き込めば——冤罪の令嬢を追い出し、香毒の仕込みを誰にも気づかれずに続けられます。狙われていたのは、殿下の命ではなく」
「意思、か」
ユリウス殿下が引き取った。低い、乾いた声だった。
「婚約破棄そのものが、俺の意思ではなく、仕込まれた筋書きだったということか」
「おそらく」
答えながら、胸の奥が冷えていく。あの夜の理不尽は、ただの理不尽ではなかった。誰かが盤上に並べた、一手だったのだ。
ユリウス殿下は、しばらく口を開かなかった。やがて、寝台の上で深く頭を下げた。
「詫びて済むことではないと分かっている。それでも——すまなかった、リディア」
「謝罪は、受けます」
私は静かに答えた。
一拍だけ置いて、まっすぐにユリウス殿下の目を見る。
「ですが、婚約は戻しません」
顔を上げたユリウス殿下の目に、驚きが浮かぶ。
「殿下を、恨んではおりません。あの夜のことも、今のお言葉も。ですが私が守りたいのは、殿下の隣に戻ることではなく、この舌で、この王宮の毒を暴くことです」
言い終えて、隣に立つヴィンセント殿下の横顔を、思わず見上げていた。灰青の瞳が、ほんの一瞬、私を捉えて緩む。
「……よく言った」
私にだけ届く低さで、声が落ちた。それだけで、胸の奥が小さく波打った。
自分でも気づかぬうちに、この人の隣にいることを、当たり前のように望み始めている。この半年、誰かが仕組んだ理不尽の中で、私が本当に守りたいものは、いつのまにか形を変えていた。
ユリウス殿下は、静かに頷いた。
「……分かった。その舌に、俺の名誉も預ける。そのうえで、償わせてくれ」
顔を上げた目に、初めて、迷いのない光があった。
「この口が動くようになったら、あの夜の非は俺自身の言葉で公にする。仕組まれていたと、言い訳はしない。お前の名を汚した分だけ、俺が雪ぐ」
絞り出すようで、それでいて、この半年のどの言葉より、素の声に聞こえた。操られていた半年を盾にせず、その上でなお頭を下げ続けると決めた、人の声だった。
香炉の中身は、灰も香油も、証として封をして持ち帰る。油紙の上へ灰を移しながら、私はふと、指先を止めた。
灰の断面に、層がある。
下には、固く締まった古い灰が厚く溜まっている。半年、焚かれ続けた澱だ。その上に、色の淡い新しい灰が、うっすらと一枚だけ乗っている。そして二つの層の境目は、乾いて冷え切っていた。長く、火の絶えていた跡だ。
手が勝手に動いて、香油の壺を取り上げていた。振ると、まだ半分近くも重い。注ぎ足されて、間がない。
「新しい灰は、この一両日のものです。ですがその下は——長いあいだ、冷えています」
私は、自分の記憶を検算する。
ユリウス殿下が倒れられた翌日、私はこの部屋で処置を検めた。煎じ薬の匂いも、焦がした吐根の匂いも、一つずつ数え分けた。あの朝の空気に、この甘さは一筋もなかった。目を覚まされた夜も、なかった。私の鼻が二度も嗅ぎ逃したのではない。二度とも、焚かれていなかったのだ。
「殿下が倒れられた夜を境に、香炉の火は落とされていました。そして——目を覚まされたという報せの後で、誰かが火を入れ直しています」
ヴィンセント殿下の顔から、表情が消えた。
「兄上が倒れてから、この部屋に日々出入りしてきたのは、モローと限られた侍女だけだ。俺とお前が入ったのは、倒れた翌日の検分と、目を覚ましたあの夜——二度きりになる。火が入れ直された一両日に、この炉へ手の届いた者は多くない」
数える癖で、私は条件に触れる名を、頭の中に並べていく。理屈の上でだけなら、この場のヴィンセント殿下さえ条件には触れる。けれどこの方が指し手なら、私に王宮の毒を検める権を持たせるはずがない。数えて、消す。毒見役の検算に、聖域は作らない。
残るのは、モロー様と、数人の侍女。そして、私たちのまだ知らない出入りの経路。
「眠っているあいだは、焚く必要がなかったのです。意識のない方の意思は、操るまでもありませんから」
口にしながら、指先が冷えていった。
「殿下が目を覚まされて、霧から記憶が戻り始めた。それを知った誰かが、急いで火を入れ直した。——戻りかけた記憶を、もう一度霧の底へ沈めるために」
沈黙が落ちた。ユリウス殿下も、青ざめた顔でこちらを見ている。
テオは死んだ。花と手袋を運んだ手は、もう動かない。
けれど誰かの手が、昨日か今朝、この香炉に火を入れた。目を覚ましたばかりのユリウス殿下の枕元で、誰にも気づかれずに。
膝の上で、私は封をした油紙の包みを、そっと押さえた。
「駒はまだ——この王宮の内にいます」
香炉の火は、消した。煙は、もう立たない。それでも、これを焚き直した手は今もこの王宮のどこかにいて、次の火種を、静かに握っている。




