第013話 宰相の白、母の問い
宰相府の扉は、思っていたより飾り気がなかった。
木目を活かしただけの重い扉に、彫刻の一つもない。権勢の座にしては、ずいぶんと質素だ。
昨日、王太子ユリウス殿下の寝所から、香毒を見つけ出したばかりだった。火は消し、灰も香油も封をして預けた。けれど、その炉を焚き直した手は、まだこの王宮の内にいる。
寝所は近衛の監視下に置かれ、出入りした侍女への聴取も、モロー様への確認も、今この時も続いている。焼け落ちた工房のオーギュストの行方は、いまだに知れない。
手掛かりは、どれも糸が細い。そんな中で宰相府への聴取が先に組まれたのは、立ち会う大法官モーリス様のご都合が、今日を措いて他になかったからだ。
懐には、封をした二つの包み。テオの燃え残りの封蝋と、宰相府の旧型の見本蝋。数日前の夜、殿下が先に検められたものを、今日は大法官の立ち会いのもと、私自身の目で検める番だった。
白か、黒か。今日の突き合わせ一つで、宰相府への疑いの重さが変わる。息を整え、包みを抱え直した。
「緊張しているのか」
隣を歩く殿下が、横目でそう言った。
「宰相様に会うのは、初めてですから」
殿下は前を向いたまま、事もなげに言った。
「白か黒か、確かめに行くだけだ。物は変わらん」
短い言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
宰相府の中は、外観よりさらに静かだった。書類の山も、行き交う文官の姿もない。権謀術数の府とは思えぬほど、時が止まったように張り詰めている。
扉をくぐると、大法官モーリス様がすでに待っていた。白い鬚に埋もれた口元が、私たちを見て小さく動く。
「双方の言い分を、公平に聞く。それが私の役目だ」
奥の机から、初老の男が立ち上がった。痩せた背に、灰色の長衣。宰相ロシュフォール様だった。声を発する前から、顔に疲れの色が滲んでいた。
「王弟殿下。……そして、噂の毒見役殿か」
値踏みするような声だった。私は一歩前へ出て、名乗りを上げる。
「リディア・アッシュフォードにございます」
膝を軽く折り、頭を下げる。ロシュフォール様の目が、探るように私の顔から爪先まで動いた。
「疑いをかけられた身で、律儀に名乗ることもあるまいに」
ロシュフォール様は皮肉ともつかぬ調子でそう言い、深く息を吐いた。
「内々に白と分かったところで、公の場で晴れぬ限り、私は謀反人の疑いを着たままだ。この歳になって、な」
その言葉で、今日この場が要る理由がはっきりと立った。私は懐から二つの包みを取り出し、大法官モーリス様の見ている前で、一つずつ封を切った。
「一つは、テオが燃やしかけていた文の、燃え残り。もう一つは、数日前に殿下が宰相府からお預かりした、旧型の見本蝋です。改めて、この場で検めさせていただきます」
まず、燃え残りの紋に拡大鏡をかざした。唐草の縁取りの端に、小さな欠けがある。刃物で削れたのではない、鋳型そのものの傷だ。
続けて、見本蝋の紋を、同じ光の下に置いた。
同じ位置に、同じ形の欠けがあった。
「一致します。これは、旧型でなければ出ない傷です」
言い切ってから、私は拡大鏡を置いた。手のひらに、じわりと汗が滲んでいる。ここからが、本題だった。
私は顔を上げ、机の上に置かれた宰相府の現行の印章へ目をやった。
「今の印を、押していただけますか」
ロシュフォール様は、少しの間ためらった。試されているのだと、遅れて気づいたのだろう。それでも、拒む理由はどこにもなかった。
ロシュフォール様は、黙って蝋を溶かし、印章を押した。固まるのを待って、私はもう一度拡大鏡を当てる。
唐草の縁は、滑らかだった。欠けは、どこにもない。
「改鋳で、型の傷が直っています。今の宰相府の印では、この欠けは出ません」
言い切ると、ロシュフォール様の肩から、目に見えて力が抜けた。
「……では、私は」
声が、掠れていた。私は拡大鏡を下ろし、はっきりと告げた。
「白です。テオの文にあった封蝋は、二年前に廃された型で押されたもの。宰相府の名を騙った、何者かの仕立てです」
大法官モーリス様が、重々しく頷いた。白い鬚の下で、口元が初めて緩む。
「私も、今の突き合わせをこの目で見た。宰相府への疑いは、これにて晴れたものとする」
ロシュフォール様は、しばらく声を出せずにいた。長衣の肩が、わずかに震えていた。
「感謝する。この歳になって、謀反の疑いで首を落とされるのかと、夜も眠れなかった」
絞り出すような声だった。私は小さく首を振る。
「宰相府は白。ただし、あなたを黒く見せたい者が、どこかにいます」
その言葉に、ロシュフォール様の顔が、また硬くなった。
「旧型は、廃棄されたのでは」
殿下が、鋭く問いを重ねた。
「本来は、そうだ。だが記録のため、鋳型そのものではなく、蝋に押した見本を一つだけ、金庫に残す慣例がある。……今、あなた方の手にあるのが、その一つだ。先日、内々の突き合わせのために、私が封をして殿下へお預けした」
「その金庫を、検めても」
殿下の問いに、ロシュフォール様は静かに頷いた。私たちは、奥の間へ通された。
厚い鉄扉の金庫に残っていたのは、見本を包んでいた油紙と、持ち出しを記す古い帳面だけ。見本そのものは、今は私の手にある。
私は、空になった油紙を拡大鏡で検めた。封じ目に、切り直した跡がある。一度切られ、また糊で閉じ直された線が、薄く積もった埃の下に隠れていた。
「この包みは、一度開けられて、閉じ直されています。……それも、ずいぶん古い跡です」
殿下の目つきが、鋭くなった。
「先日、あなたが封を解いた折の跡では」
ロシュフォール様は、はっきりと首を振った。
「いや。あのときは、殿下の御前で私が封を切り、その場で改めて封をした。近衛も見ている。この埃は、たかだか数日で積もる量ではない」
私は帳面を繰った。持ち出しの記録は、先日の一件を除けば、改鋳のあった年で途切れている。
「記録に残らない持ち出しが、一度あったのです。型を写し取るだけなら、見本を一晩借りれば足ります」
「鍵を、預かっていたのは」
殿下が問う。ロシュフォール様は記憶をたぐるように、天井へ目を上げた。
「改鋳の直後までは、差配に関わった者たちが持っていた。事が済んでからは、鍵は宰相府預かりに戻り、以後は私と、副官の管理下だ」
「では、この古い跡は、改鋳の頃のもの。手を触れられたのは、その差配の面々ということになる」
殿下が引き取ると、ロシュフォール様は机の引き出しから、もう一冊の古い帳面を取り出した。
「差配したのは、五名。鍵の在り処も、見本の慣例も知る者たちだ」
指が、頁をなぞる。
「そのうち二名は、改鋳のあった年のうちに、相次いで亡くなった。内蔵頭を務めた老臣も、後に病を得て身罷った。今も息災なのは……財務府のオルタンス伯と、ダレン侯爵。このお二人だけだ」
オルタンス伯は足腰を悪くし、領地に籠もって久しい――ロシュフォール様はそう付け足した。
私は、ダレン侯爵の名を、ただ胸のうちに書き留めた。任命式でただ一人、私を嗤わなかった人だ。名を見ても、特別な感慨は湧かなかった。
「では、今この金庫の鍵を持つのは」
殿下の目が、細くなった。ロシュフォール様は、額に浮いた汗を拭う。
「私と、副官の二人だけだ。副官は先月から病で臥せっているゆえ、この鍵に触れられるのは、今のところ私一人と言っていい」
鍵は改鋳の後ずっと宰相府の預かりで、今これを握る者に、古い切り直しの跡をつける隙はない。追うべきは、改鋳を差配した五名――もう二人しか残らぬ、古い手のほうだ。
ロシュフォール様は誓約書に署名し、金庫の管理を近衛の監視下に置くことで、話がまとまった。
「これで、宰相府の白は動かない」
大法官モーリス様がそう締めくくった。書き終えた誓約書に、ロシュフォール様が改めて署名を重ねる。
席を立とうとした、そのときだった。
「アッシュフォード……」
ロシュフォール様が、帳面を閉じながら、ふとつぶやいた。
「その名で、王宮の毒を私に問うた者が、昔にもいた」
私は、足を止めた。窓から差す夕日が、帳面の背表紙を赤く染めていた。
「そなたの母だ」
心臓が、一つ大きく跳ねた。喉の奥が、急に狭くなる。
「母を、ご存知なのですか」
ロシュフォール様は閉じた帳面を机の端へ押しやり、遠い日を思い出すように目を細めた。
「一度きりだ。亡くなる少し前、ここへ訪ねてきた。温室より古い、毒の記録が残っていないかと」
初めて知る、母の足跡だった。
「温室より、古い……」
繰り返した声が、自分でも驚くほど掠れていた。
「王宮薬草温室ができる以前の、毒に関する記録だ。何のために探しているのか、聞いても答えなかった。私も、深くは詮索しなかった」
胸の奥で、陛下の声が蘇る。良い答えだ、母君譲りか。あれは、社交辞令ではなかったのだ。
「その後、母は」
声を絞り出す私に、ロシュフォール様はゆっくりと首を振った。
「二度目は、来なかった。しばらくして、亡くなったと聞いた」
言葉が、出てこなかった。毒見役として死んだと聞かされて育った母は、この王宮の暗がりで、何を探し、何を見て、そして――
殿下の手が、私の肩に軽く触れた。それだけで、崩れかけていた息が、かろうじて保たれた。
「記録は」
殿下が、ロシュフォール様に問う。
「宰相府には、ない。もっと古い保管先を探すべきだろう。……力になれず、すまない」
深く頭を下げるロシュフォール様に、私は静かに首を振った。
「いいえ。教えていただいただけで、十分です」
宰相府を出ると、日はほとんど沈みかけていた。石畳を踏む足が、行きよりも重かった。
「母が、何を探していたのか」
呟いた声は、誰へ向けたものでもなかった。殿下はしばらく黙って歩調を合わせ、それから前を向いたまま口を開いた。
「分からん。だが、繋がる糸が、また一本見つかった」
殿下は指を折るように、一つずつ数え上げた。
「宰相府は白。旧型の見本には、記録にない持ち出しの跡がある。そして、お前の母は、温室より古い記録を探していた。全部、まだ点でしかない」
「点でも、繋げなければなりません」
そう答えた声は、自分でも驚くほど静かだった。感情が動くほど、声が凪いでいく。母譲りの癖だと、初めて自分で気づいた。
殿下が、ふと足を止めた。私も立ち止まる。灰青の瞳が、暮れ残りの光の中で、まっすぐに私を捉えていた。
「お前は、母君の分まで気負いすぎる」
咎めるようで、その底に、案じる響きがあった。
「点を繋ぐのは、俺も一緒に負う。お前一人の肩に、全部は載せさせん」
その言葉は、母の謎とも宰相府の白とも関わりがなかった。ただ、私という人間だけを見て零れた言葉だった。胸の奥が、じんと熱くなる。母のことでこわばっていた息が、少しだけほどけた。
「……はい」
短く返すと、殿下は小さく鼻を鳴らし、また歩き出した。全部は無理でも、半分なら誰かに預けてもいい――そう思えたのは、初めてだった。
王弟宮へ戻る頃には、日はとうに落ちていた。灯りの並ぶ回廊を歩きながらも、記憶の中の母は静かに微笑むばかりで、何を探し、何を恐れていたのかは、教えてはくれなかった。
遅い夕餉を終え、ようやく一日の疲れが肩に落ちてきたころ、廊下の向こうから慌ただしい足音がした。
「殿下! アッシュフォード家より、早馬にございます!」
近衛の声に、殿下が席を立つ。私も続いて廊下へ出た。
灯りに照らされた近衛の顔は青白く、差し出す手が震えていた。ただごとではないと、ひと目で分かった。
差し出された文には、乱れた字でこう記されていた。
――本日未明、王命により、アッシュフォード伯爵の身柄が検められ、王都へ護送されることと相成り候。
指先から、血の気が引いていく。
文字が、目の前でにじんで見えた。
「王命……? どうして、父が」
文を持つ手が、震えた。
母の死の話が立った、その日のうちに。父の沈黙が、まるごと押さえ込まれたかのように。
殿下の灰青の瞳が、文の文字を静かになぞる。
「陛下は、床から起き上がることもかなわぬお体だ。その御名を借りて、誰が父君を動かした」
低い声に滲む苛立ちだけは、隠しきれていなかった。
「――誰が動いたか、今夜のうちに調べる」
灯りの落ちた廊下に、しばらく二人分の息の音だけが響いていた。
私は文を握りしめたまま、その場から動けなかった。母の名を口にした途端、父が沈黙ごと連れ去られた。
まるで、誰かが聞き耳を立てていたかのように。




