第014話 毒見役の家の咎
評議の間に足を踏み入れた瞬間、空気が変わったのが分かった。
いつもより多くの貴族が席を埋めている。誰も彼も、こちらを見ない振りをして、こちらだけを見ていた。
昨日までの視線とは、質が違う。同情でも好奇でもない。獲物を品定めするような、静かな冷たさだった。
重鎮たちの顔も揃っていた。その中に、いつも穏やかなダレン侯爵の白髪頭を見つけて、強張っていた肩がわずかに緩む。だがその隣、赤ら顔の一団の中に、この数日、私を槍玉に挙げては黙らされてきた顔も並んでいた。今日は、目の色が違っている。
胸元の徽章に、指をそっと添える。王弟宮付き毒見役――兼、調査役。この肩書きすら、今日は盾にならないかもしれない。
昨日の未明、領地で家宅改めがあったのだと聞かされた。王命の名のもとに、父が連れ去られたのだという。その報せが王弟宮に届いたのが、昨夜遅く。一睡もできぬまま、私は今朝この場に立っている。父を奪われたばかりの家の、たった一人の娘として。
「アッシュフォード嬢、前へ」
大法官モーリス様の声に、私は促されるまま議席の中央へ進んだ。ヴィンセント殿下が、半歩遅れて隣に並ぶ。
「先の宰相府の一件は、すでに聞き及んでいる。だが今日は、別の議題がある」
進み出たのは、恰幅のいい赤ら顔の男だった。ボードワン侯爵だ。これまでの評議で幾度も声を上げては沈黙させられてきた人だが、今日は違う色を目に宿していた。
「毒見役の家系こそ、銀糸草を入手し得たのではないか」
声が、議場に響いた。
「訓練毒は王家からの支給品。だが支給と称して、多めに得ていたとしたら。空瓶を返さず、手元に残していたとしたら――」
「証拠もなく、口にされるのですか」
私は静かに問い返した。声は揺れなかった。母譲りの癖――感情が動くほど、声は凪いでいく。
「証拠なら、ある」
ボードワン侯爵が、懐から一枚の紙を取り出した。
「昨日未明、王命による家宅改めで、アッシュフォード領の蔵から未返納の毒瓶が見つかった。空ではない。銀糸草の残りが、瓶の底にわずかに沈んでいたそうだ」
議場が、どよめいた。扇の陰で交わされる囁きが、波のように広がっていく。
私の膝の裏が、冷たくなる。そんなはずはない。訓練で使った毒は、家では一滴も余さず返納してきた。空瓶一つ手元に残せば、家名にかけて咎めを受けると、幼い頃から言い聞かされて育った。
けれど、ここで怯えを見せれば、それだけで罪を認めたことになる。私は一つ息を整え、まっすぐにボードワン侯爵を見た。
「ならば、その瓶を、この場へ」
指先は冷えていたが、それを声には出さなかった。
「私が検めます。銀糸草かどうかは、舌が言い当てます。よしんば銀糸草であったとして、その瓶が我が家に元からあったものか、外の手で持ち込まれたものか――瓶は、それも語ります」
これがこの家の作法だ。疑わしい物は、紙の上の言葉ではなく、この舌で確かめる。
ボードワン侯爵の眉が、ほんのわずかに動いた。
「……現物は、証拠として王都へ回している。この場にはない。検分は、追って正式な手続きを経てからだ」
出せないのではない。出さないのだ。私が舌で真偽を裂く前に、紙の上の『毒瓶』だけを、この議場に残しておきたいのだ。
「銀糸草の毒瓶が、なぜ我が家の蔵に。心当たりが、ございません」
声を絞り出すと、ボードワン侯爵の赤ら顔が、勝ち誇るように緩んだ。
「心当たりがないと言えば、済む話か」
議場の視線が、いっせいに私へ集まる。反論を待つというより、崩れ落ちる様を見物する目だった。
「その『王命』の出所を、先に聞かせてもらおうか」
割って入ったのは、ヴィンセント殿下だった。低く、鋭い声だった。
「陛下は、床から起き上がることもかなわぬお体だ。昨夜のうちに、俺の名で確かめさせた。この家宅改めは、陛下の御手を煩わせたものではない。評議の緊急発令、その体裁を借りただけのものだ」
議場が、静まり返った。
「起草したのは、この糾弾を持ち出した側の誰かだろう。陛下の允可は、あくまで形だけの押印にすぎん」
ボードワン侯爵の顔が、赤みを増した。だが、言葉は返ってこなかった。
殿下の一言で、偽りの允可は暴かれた。けれど、暴けるのはそこまでだった。一度撒かれた疑いの種だけは、氷の王弟の権をもってしても引き抜けない。この場ではいつだって、疑わしいという事実のほうが、真実よりも重いのだ。
「では、検めましょう」
私は顔を上げ、議場を見渡した。
「毒は嘘をつきません。嘘をつくのは、いつだって人間のほうです」
母の言葉を、初めて公の場で口にした。声は静かなまま、けれど一語ずつに力を込める。
「王宮には、支給と返納の記録が、代々の台帳に残っているはずです。該当の年の頁を、この場で開いていただければ、瓶が家に残るはずのないことが分かります」
モーリス様が頷き、文官に台帳を持ってこさせた。分厚い革表紙の帳面が、机の上で開かれる。
議場じゅうの目が、私の指先に集まっているのが分かった。ここで台帳が味方をしてくれれば、糾弾は根こそぎ崩れる。
祈るような気持ちで、頁を繰った。年号を辿り、アッシュフォード家の記載を探す。
該当の年の頁は、そこにあった。切り取られても、破られてもいない。
支給と返納が、一行ずつ対になって並んでいる。幼い頃から叩き込まれた通り、出した数と戻した数は、寸分も違わず揃っていた。
――一行を、除いては。
頁の半ば、他の記録に紛れて、たった一行。「アッシュフォード家へ、訓練毒一瓶を支給」。その行にだけ、返納の対がない。出したまま戻らなかった瓶が、我が家に一つあることになる。
膝の裏が、また冷たくなった。こんな記録に、覚えはない。
けれど、ここで顔色を失えば、それで終わりだ。私は帯に挟んだ拡大鏡を抜き、その一行へ、そっとかざした。
毒見役は、舌だけの者ではない。色を見、艶を見、乾きを見る。それも、この家の作法だ。
拡大鏡の下で、その一行だけが、浮いて見えた。
墨の黒が、違う。周りの記録は年を経て茶に沈みかけているのに、この一行の墨だけが、まだ濡れたように黒い。下ろされて、幾日も経っていない筆だ。
運びも、違った。前後の頁を書いた手をよく似せてあるが、似せた手は必ずどこかで揺れる。撥ねの尻がわずかに震えているのは、なぞって書いた者の、迷いの跡だ。
私は顔を上げた。
「この一行は、後から書き加えられたものです」
議場が、どよめいた。
「支給の記録を一つ偽って足せば、返らぬ瓶が一つ、我が家にあったことになる。――そういう細工です」
ボードワン侯爵の赤ら顔が、こわばった。
「言いがかりを。その台帳は、王宮が代々つけてきたものだぞ」
「その王宮の台帳にまで、他人の手が入っている。私は、そう申し上げているのです」
言い返しながら、頭の中で別の記憶が繋がっていく。温室の管理記録簿。薬師ギルドの名簿。あのときは、どちらも頁ごと、乱暴に破り取られていた。
けれど、今度は破っていない。破れば、無くなったことだけは知れてしまう。だから破らずに、一行を書き足した。
同じ狙い、違う手。記録ごとに、手を変えてくる。
敵は、王宮の最も内側の記録にまで、手を届かせている。私たちがどれだけ先へ進んでも、いつも半歩先に、同じ影が待っている。
けれど、と私は拡大鏡を握り直した。
手を変えるということは、それだけ器用な手が、三つの記録すべてに届いているということだ。温室、ギルド、そして王宮の台帳。この三つに手を伸ばせる者――その範囲は、決して広くない。むしろ、狭まっていく。三度、姿を変えて見せられて、まだ偶然だと思うほど、私は愚かではない。
「静粛に」
穏やかな声が、議場の喧噪を割った。
進み出たのは、物腰の柔らかい初老の男だった。ダレン侯爵。議席の間を歩むその足取りは、右の踵だけが半拍遅れる、いつもの穏やかな歩調だった。
「アッシュフォード嬢の申し立てにも、一理ある。見知らぬ一行が紛れ込んでいるというのは、むしろ何者かの作為を疑うべき話ではないかね」
その一言で、ざわめきが少しだけ収まった。ダレン侯爵は続けて、ボードワン侯爵へ穏やかに目を向ける。
「毒瓶の一件も、正式な検分を経るまでは、断じるべきではない。糾弾は今しばらく、預からせてもらおう」
ボードワン侯爵が、渋々と引き下がる。議場の熱が、少しずつ冷めていくのが分かった。
「感謝いたします、ダレン侯爵様」
私は深く頭を下げた。この方だけは、初日から私を嗤わなかった人だ。今日もまた、救われた。
「なに、道理を通しただけのことだ」
ダレン侯爵は、穏やかに笑んでそう言うと、机上の台帳へ目をやった。
「――しかし、本物の筆をそこまで似せておきながら、墨の乾きだけが新しいとはな。手慣れているようで、詰めの甘い仕事よ」
何気ない一言だった。だが、私の指先が、ふと止まった。
私はまだ、墨が新しいことも、筆を似せてあることも、口にしていない。ただ、後から書き加えられたものだ、とだけ申し上げた。台帳は今も机の上。ダレン侯爵の座る場所からでは、一行の墨の乾きまで見通せる距離ではない。見た者にしか、分からない細部のはずだった。
断定できるほどの糸ではない。ただ、小さな引っかかりとして、胸の帳面の隅に書き留めた。この方だけは違う、と思いたい気持ちごと。
議場を出ると、廊下の空気がやけに重く感じられた。
「大丈夫か」
ヴィンセント殿下が、隣に並んで問う。
「はい。……いいえ、正直に申し上げれば、少し」
膝が震えているのを、今さら自覚した。証拠もなく糾弾された恐怖より、あの場で誰も味方につかなかったら――そう思うと、指先まで冷える。
「一人ではない」
殿下の声が、いつもより低く落ちた。
「お前の疑いは、俺の疑いだ。二度と、お前一人で立たせない」
言いながら、殿下の手が、私の手を包んだ。
薄い革の手袋越しに、その熱が伝わってくる。この人は、人前では決して手袋を外さない。剣を執る手の傷を晒さぬためだと、以前、近衛の一人が話していた。その一枚を隔ててなお、この人の体温は分かるのだと、初めて知った。
「殿下……」
「今日のように、お前だけが矢面に立つことは、もう許さん」
短く言い切ると、殿下はすぐに手を離した。名残惜しさを隠すように、視線だけを窓の外へ向ける。
私は、まだ熱の残る手を、そっと握り直した。
夕餉も喉を通らないまま、私は自室で懐の徽章を握りしめていた。評議の熱は冷めても、あの書き足された一行の、濡れたような墨の黒だけが、まぶたの裏から離れなかった。
その夜遅く、王弟宮に急報が届いた。
「アッシュフォード伯が、王都へ護送されてまいりました」
近衛の報告に、私は立ち上がった。
「面会は――」
「牢へは入れておりません。王都の別邸に留め置く形です。ただし、格子越しの面会のみ、殿下のお許しで叶うとのこと」
ヴィンセント殿下が、私の肩に軽く手を置いた。
「行くか」
「はい。すぐに」
馬車を飛ばして辿り着いた別邸は、灯りも少なく、静まり返っていた。石段を上る私の歩調に、ヴィンセント殿下の足音だけが寄り添っていた。
鉄格子の向こうに、父の姿があった。
領地で床に伏していたはずの父は、思っていたよりも痩せて、この数日で一気に老け込んだように見えた。旅装の裾には、まだ土埃が乾いたまま残っていた。
「父上」
駆け寄った私に、父は格子の隙間から、震える手を伸ばした。
「リディア……無事だったか」
「はい。私は、大丈夫です。それより、父上こそ」
「案じるな。ただの家宅改めだと思っていたが……」
父の声が、そこで一度途切れた。目の奥に、長く堪えてきた何かが揺れている。
「お前の口から、母の名が出たと聞いた」
私は、息を止めた。
「宰相様に、お聞きしました。母上が、亡くなる少し前に、王宮の古い毒の記録を探していたと」
父の顔が、大きく歪んだ。堰を切ったように、声が絞り出される。
「リディア……よく聞いてくれ」
格子を握る父の手に、力がこもった。
「お前の母は――訓練で死んだのではない」
その一言が、静まり返った部屋に落ちた。
灯りの炎が、小さく揺れる。
心臓が、耳の奥で音を立てていた。父の目には、長年誰にも打ち明けられなかった者だけが持つ、静かな覚悟が浮かんでいる。
隣で、ヴィンセント殿下が息を詰めるのが分かった。
私は、言葉を失ったまま、ただ格子の向こうの父の目を見つめ返すことしかできなかった。




