第015話 訓練死という嘘
格子の向こうで、父の声は掠れていた。
「お前の母は――訓練で死んだのではない」
灯りの炎が、小さく揺れる。
格子の外の廊下は、灯りも人の気配も乏しい。窓のない部屋に、蝋燭一本の明かりだけが、父の顔に深い影を刻んでいた。
私は言葉を失ったまま、格子を握りしめる父の手を見つめていた。指の節が、白くなるほど強張っている。旅装の裾に乾いた土埃、頬に刻まれた深い皺。この数日ですっかり老け込んだその顔に、長年、誰にも打ち明けられなかった重さが滲んでいた。
夜がどれほど更けたのか、もう分からない。牢番の足音も、遠くの鐘の音も、今はどこか遠くに感じられた。
「では――母上は」
問う声が、自分でも驚くほど掠れた。
答えを待つ間、心の臓の音だけが、耳の奥で大きく鳴っていた。
父は深く息を吸い、ようやく続きを口にした。
「あの夜、母さんは王宮から戻ってきた。いつもと変わらない顔で、疲れた、とだけ言って」
食堂の卓に着いたところまでは、いつもの晩と同じだったという。灯りを絞った部屋で、召使いが膳を運んでくる、ただそれだけの夜だった。
父の声に導かれるまま、私はその晩の食堂を思い描いた。記憶にある母の椅子、いつも同じ場所に置かれていた燭台。何一つ変わったところのない、ただの夕餉のはずだった。
「膳には、まだ手をつけていなかった。杯も、皿も。なのに、母さんは突然膝から崩れて――そのまま、目を覚まさなかった」
隣で、殿下が息を詰めるのが分かった。私は父の言葉を、一つずつ胸の帳面に書き写していく。
「口に、何も入れていなかったのですね。医者は、何と」
父は、当時を思い出すように、遠い目をした。
「不思議がっていた。前触れなく倒れる病など、聞いたことがないと。だが翌日には、王宮から人が来て、こう告げていった。毒見の訓練中に誤って毒を過ごした、そういうことにしてくれ、と」
杯にも皿にも触れず、前触れなく崩れる。その型には、覚えがある。
「触れて、入る毒です」
私は静かに言った。
「王太子殿下が倒れられた夜と、同じ倒れ方です。指先か、襟元か。肌のどこかに、毒が仕込まれていたのだと思います。銀糸草の型に、酷似しています」
三年前の毒の香りは、もうどこにも残っていない。確かめられるのは、父の記憶に刻まれた症状の型だけだ。それでも、幾つもの毒を見分けてきたこの舌と目に、迷いはなかった。
父の目に、初めて光が宿った。長く一人で抱えてきた疑いに、ようやく言葉が追いついたという顔だった。
幼い頃、母は私に毒草の見分け方を教えながら、よくこう言った。毒は嘘をつかない、嘘をつくのはいつも人間のほうだと。あの口癖の意味を、私は今まで、ただの矜持の言葉としてしか受け取っていなかった。母自身が、人の嘘に命を奪われていたのだとは、考えたこともなかった。
「母上が亡くなったのは、何年前になりますか」
父は、記憶をたどるように目を閉じた。
「三年だ。ちょうど、三年前の春だった」
その一言に、殿下が静かに口を開いた。
「先王が身罷られたのも、三年前の春だ」
心の中で、点と点が結ばれていく。
「温室の帳面が始まったのも、同じ春です。ガストンの記す『お貴いお方』の記入も、一枚目から途切れず、三年前の春まで遡れました」
殿下が、指を折るように数え上げる。
「先王の崩御。温室の帳面の始まり。そして――お前の母君の死。三つが、同じ季節に重なっている」
「偶然で片づけられるものでは、ありません」
言い切ると、喉の奥が冷えていった。銀糸草を育て始めた季節に、先王が銀糸草で命を落とし、同じ季節に母もまた、同じ毒で倒れている。何者かが、あの春を境に動き出したのだ。
三年という歳月を、私はただ、母の不在として数えてきた。だが今は違う。三年前のあの春に何が起きたのか、その答えの輪郭が、少しずつ見え始めていた。
「王宮筋の圧力で、訓練死と届けたのですね」
父は、深く頷いた。
「逆らえば、お前まで疑いの目に晒されると言われた。毒見役の家の恥を、公にするなとも。……お前を守るためだと、自分に言い聞かせてきた」
父の声が、初めて震えた。
格子を握る手の甲に、青い筋が浮いている。指の先が、小刻みに揺れていた。
「だが、それは言い訳だ。私は、怖かっただけだ。娘に真実を告げる勇気より、家を守る臆病を選んだ」
沈黙が落ちた。私は、膝の上で手を握り締める。責める言葉は、出てこなかった。ただ、長い歳月、父がどれほどの重さを一人で抱えてきたのかを思うと、胸の奥が軋んだ。
領地で病床にあると聞かされていたのも、この重さのせいだったのかもしれない。娘の窮地に駆けつけられなかった父を、私はどこかで恨んでいた。今はもう、その気持ちさえ持てなかった。
「毒瓶の話を聞いて、思い出したことがある」
父が、ふと顔を上げた。
「母さんが死んだ、あの春――蔵の錠が、朝、開いていたことがあった。中を検めたが、何一つ失せてはいなかった。使用人の不始末だと、その時は思って、誰にも告げなかった」
「今にして思えば」
私が言葉を継ぐと、父は目を伏せて頷いた。
「あれは、不始末ではなかったのかもしれん。何も盗まぬまま、蔵に手を入れる者がいたのだとしたら――今度の毒瓶も、その気になれば、いくらでも仕込める」
一つの証言に過ぎない。王宮の受領控えと突き合わせ、あの毒瓶が我が家に届いた記録そのものにないことを示すまでは、まだ反証とは呼べない。それでも、糸が一本増えた。
温室の管理記録簿。薬師ギルドの名簿。王宮の支給台帳。そして今度は、我が家の蔵。あるものは破り、あるものは書き換え、手を変えながら、証となる記録を一つずつ潰してきた。それも尽きれば、次は人の記憶にまで手を伸ばすのだろう。長きにわたり、誰にも気づかれずに動いてきた手の周到さに、背筋が冷えた。
「その錠のこと、正式な場でお話しいただけますか」
父は、迷いのない目で頷いた。三年前には持てなかった強さが、その顔に戻っていた。
「無論だ。今度こそ、隠しはしない」
父の声に、初めて力が戻った。長く俯いたまま生きてきた人の顔が、少しだけ、真っ直ぐに私を見ていた。
「母上は」
私は、一度言葉を切った。感情が動くほど、声は静かになる。母譲りの癖だと、もう何度も思い知った。
「母上は、殺されたのです」
言葉にした途端、格子の冷たさが、握りしめた指から胸へ這い上がってきた。
自分の声が、驚くほど平らに響いた。長く探し続けていた答えが、ようやく言葉の形を得たのだと思った。
「訓練の果てでも、事故でもありません。誰かが、母上の口にも杯にも触れずに、命を奪った。銀糸草を使って」
父が、堪えきれぬように顔を覆った。肩が、小さく震えている。
「三年、私は……娘にすら、真実を言えなかった。母さんの墓の前に立つたび、詫びる言葉さえ持てずにいた」
「父上を、責めはしません」
私は格子越しに、父の手へ自分の手を重ねた。冷え切った指が、かすかに温もりを取り戻していく。幼い頃、頭を撫でてくれた、あの大きな手だった。
「私も、今日まで気づけませんでした。訓練死と聞かされて、それを疑ったことすらなかった。ですが、これで分かりました。私が晴らすべきなのは、家の汚名だけではありません」
隣に立つ殿下を見上げる。灯りに照らされた灰青の瞳が、まっすぐに私を映していた。
「母上の、仇です」
言い終えた声が、わずかに揺れた。堪えていたはずの何かが、ここへ来て初めて溢れた。目の縁が、熱くなる。
「リディア」
低い、けれど確かな声だった。
殿下が、初めてその名を呼んだ。
肩書きでも、毒見役でもなく、ただの名前だった。それだけで、喉の奥に詰まっていたものが、音を立てて崩れていく。
「お前の戦いは、俺の戦いでもある。一人で背負わせはしない」
低い声が、揺れる肩にそっと触れた。私は、父の前でだけは崩さずにいた息を、ようやく一つ、大きく吐いた。目元を拭う指先が、自分でも驚くほど冷たい。
父は、しばらく黙って私たちを見ていた。それから、格子を握る手に、もう一度力を込めた。
「リディア。もう一つ、話しておかねばならないことがある」
父の声に、新たな硬さが混じった。私は、身構えながら問い返す。
「まだ、何か」
「母さんが死ぬ少し前――『あの温室を見せたい』と、王宮に招いた御方がいた」
父の声が、そこで一段低くなった。
「ダレン侯爵さまだ。護送の道中、牢番までが噂しておった。お前を庇うてくださる、数少ない御方だと」
灯りが、また一つ揺れる。
初日から、誰よりも私を嗤わなかった人の名だった。糾弾の場で庇い、任命式で祝辞を述べ、台帳に書き足された一行にすら気づいていたあの人が、母を温室へ招いた張本人だという。
穏やかな声。皺の寄った目元の笑み。あの人の顔を思い浮かべるたび、これまでは安堵しか覚えなかった。今はもう、その笑みの記憶さえ、素直には思い出せない。
私は、何も言えないまま、格子の向こうの父の目を見つめ返した。
「必ず、真実を突き止めます。父上の分も、母上の分も」
声を絞り出すと、父はゆっくりと頷いた。目には、まだ拭いきれない悔いが浮かんでいたが、それでも、初めて娘に何もかも語り終えた者だけが持つ、静かな安らぎも滲んでいた。
牢を出る道すがら、殿下も一言も発しなかった。並んで歩く足音だけが、静まり返った回廊に、いつまでも重く響いていた。
石段を下りきったところで、殿下がようやく口を開いた。
「ダレン侯爵の名が、これで二度目だ」
低い声に、私は頷きを返す。
「はい。台帳の一件と、母のこと。偶然と呼ぶには、重なりすぎています」
殿下は、しばらく黙り込んだ。石段を照らす灯りが、その横顔に長い影を落としている。
「まだ、証はない。だが、探る価値は十分にある」
灰青の瞳が、夜の闇へ静かに向けられる。私は、頷くことしかできなかった。母の死、父の告白、そしてダレン侯爵の名。一晩で積み上がった重さに、足取りは自然と鈍っていた。
初日から嗤わなかった、あの穏やかな声の主が、母の死の傍らに立っていた。そう思うだけで、指先の震えが、いつまでも収まらなかった。
王弟宮へ続く道の先で、篝火の灯りだけが小さく揺れている。
これまで、あの人の穏やかな顔だけを見て、疑うことすらしなかった。その怠りの分だけ、母の死は遠ざけられていたのかもしれない。あの人の笑みの奥に何が隠れているのか、私はまだ、何一つ知らない。




