第016話 月のない夜
格子越しに父と言葉を交わした夜から、三日が過ぎていた。
ダレン侯爵の名は、まだ誰にも告げていない。証もなく口にすれば、疑いだけが独り歩きする。父の証言と、台帳への一言と、母の死。点はまだ、線にはなっていなかった。
だから今は、確かめられる糸から手繰る番だった。評議の噂は半刻で王宮を駆け巡るのに、指図の文の届け先だけは、誰一人その正体を掴めていない。ならば、こちらから網を張るしかなかった。
療養の間で身を起こせるようになったミレーヌ様を訪ねると、彼女は膝の上で指を組み、記憶をたどるように目を伏せた。頬にはまだ血の気が薄いが、あの夜の怯えた震えは、少しずつ落ち着きを取り戻しているように見えた。
「文が届いたのは……三度、覚えています。いつも、月の見えない夜でした。怖くて、日付だけは頭に刻んでおりました」
「その三つの日を、教えていただけますか」
「はい。……今も、あの家に届いているのですね。私が、ここにいるのに」
声が、かすかに揺れた。私は静かに首を振る。
「あなたのせいでは、ありません。あの文が届く限り、脅しはまだ生きているというだけのことです」
告げられた日付を、私はその場で帳面に書き写した。
王弟宮の書斎に戻り、古い暦の綴りを広げる。月の満ち欠けを記した表と、一つずつ突き合わせていく。
指先が、三つの日付の上を行き来した。どれも、月が完全に姿を隠す夜だった。
「――やはり、月のない夜です」
向かいに立つヴィンセント殿下が、腕を組み、間違いないかと問う。
「三度とも、一致しています。そして次に月が姿を隠すのは、暦のうえでは――今から三日後の夜。偶然が三度も重なるとは、思えません」
「では、その夜を狩り場にする」
殿下の声に、迷いはなかった。私は暦を閉じ、居住まいを正す。
「ですが、狙うのは文を差し込む手そのものではありません」
どういうことだ、と殿下が眉を寄せる。
「捕えたところで、末端の運び屋が黒幕の顔を知っているとは思えません。今、私たちが掴めていないのは――その文を、その先どこへ運ぶかです」
男爵邸の裏門は、いまも人目を忍んで見張りが立っている。ミレーヌ様の一件以来、あの家は表向き静かなまま、内側だけが張り詰め続けていた。指図の文は、彼女がこの王弟宮で療養する身になった今も、変わらず同じ場所へ届き続けているという。ご家族への脅しは、まだ生きたままなのだ。
「近衛は使わない」
殿下が、低く言った。
「半刻で漏れる王宮だ。今度こそ、こちらの動きを先読みされるわけにはいかん」
近衛を外すという判断に、私も異存はなかった。
「連れて行くのは、俺とお前。あとは、口の堅い者を三人だけだ」
見張りの数を絞ることに、迷いはなかった。これまで何度も、動きの先を読まれてきた。温室の帳面も、ギルドの名簿も、王宮の台帳も。同じ手に、また先を越されるわけにはいかない。
月のない夜は、暦の告げたとおり、三日の後にやってきた。
口の堅い者を選び、灯りは持たず、履物には布を巻いて音を殺す。支度に追われるうちに、その夜はもう塀の外まで迫っていた。
裏門に近い塀の陰に身を潜めてから、もうどれだけ経っただろう。空には星の光すらまばらで、闇が濃く塀の際まで這っていた。殿下の呼吸の音だけが、すぐ隣で規則正しく続いている。控えた三人の男たちも、息を殺したまま、それぞれの持ち場で気配を消していた。
「冷えるな」
囁くような声だった。私が小さく頷くと、殿下は自分の外套の裾を、音もなく私の肩へ回した。
「……殿下。動くわけには」
「動くな、とは言った。凍えろ、とは言っていない」
低い声に、逆らう隙はなかった。薄い温もりが、肩口からそっと伝わってくる。この張り込みで一番危うい場所に立つのは、匂いを利く私だ。殿下はそれを分かっていて、だからこんな夜でも、まず私を庇おうとするのだ。
「はい。ですが、私は、動くわけにはいきません」
夜風が、頬を掠める。冷たい石壁に背をつけたまま、私は裏門の隙間だけを見つめ続けた。それでも肩に残るぬくもりだけは、この暗がりで、確かに私のものだった。
一度、猫が塀の上を横切り、心の臓が跳ねた。それでも私は、影が動くたびに闇へ鼻を利かせていた。人が近づけば、汗や蝋や薬の匂いが、足音より先に届く。毒を嗅ぎ分けるための鼻は、こんな夜にこそ物を言う。
少し遅れて、通いの下女らしき影が裏道を通り過ぎた。石鹸と竈の煙の匂いだけ——運ぶ者の手ではない。私は、また息を潜め直す。殿下の手が、無言で私の腕を軽く叩き、すぐに離れた。落ち着け、というだけの合図だった。
どれほど待ったか、遠くで犬の遠吠えが一つ上がり、それきり静かになった。夜はどこまでも深く、月のない空はただ黒い布のようだった。
このまま何も現れなければ、暦の読みが外れたことになる。三日分の見張りを立てた甲斐もなく、次の月のない夜まで、また一月近く待つことになる。焦りが胸の奥をちりちりと灼くのを、私は息を整えて押し殺した。焦った先で見誤れば、これまで幾度も先手を取られてきた、あの轍を踏むことになる。
やがて、闇の中に一つ、人影が滲んだ。
足音がない。慣れた足取りだった。黒い外套に、頭まで覆う布。裏門の隙間に、白いものが差し込まれる。
その瞬間、殿下が動いた。
音もなく駆け寄り、外套の襟を掴む。私も遅れず後を追った。
「動くな」
低い声に、覆面の男が凍りついた。だが、次の瞬間――男の顎が、小さく動いた。
奥歯を、噛みしめようとしている。
「駄目です」
叫ぶより早く、体が動いていた。男の顎を両手で挟み、無理に開かせる。つんと鼻を刺す刺激と、潰した杏の種に似た匂いが、鼻の奥を突いた。
テオの死体で嗅いだ、あの安価で残酷な毒とはまた別の、けれど同じ「口封じの型」の匂い。ひと嗅ぎで喉の奥が灼け、噛めば数える間もなく事切れる——そういう毒だと、匂いがはっきり告げていた。
「その毒は、飲ませません」
私は男の口の中に指を差し入れ、頬の内側に隠れていた小さな包みを弾き出した。かちり、と硬いものが石畳に落ちる。
男の目が、驚愕に見開かれていた。
「あなたは、生きて話す最初の一人になります」
膝から崩れ落ちる男を、殿下が支えた。テオも、ミレーヌ様も、口を封じられる寸前だった。だが今夜、初めてその手を止められた。喉の奥から、こみ上げていた息を、私はようやく一つ吐き出した。
「……なぜ」
震える声だった。
「殺されずに、済んだ……?」
「私は、毒を知る者です。あなたの顎が動いた瞬間から、何を企んでいるかは分かっていました」
男は、しばらく声も出せずにいた。松明の灯りの下に引き出されると、案外まだ若い顔をしていた。
どのくらいこの役目をしているのか。私が問うと、男は肩を縮めた。
「一年ほどです。……借りた金の形に、断れませんでした」
やはり、駒だった。ミレーヌ様や、テオと同じ型の脅され方だ。堰を切ったように、彼は喋り出す。
「俺は、ただの運び屋です。文を渡された場所も、託した相手の顔も、名も声も知りません。決まった夜に、決まった路地の暗がりで、覆面の相手から渡されるだけで――」
その先は誰に渡すのか、と殿下が問う。男は、震える指で裏門を指した。
「ここに差し込むだけです。受け取るのは、あの家の中の誰かでしょう。俺はそれ以上のことは、知らされていません」
末端の、そのまた末端。だが、無駄ではなかった。この男を通した先に、また一つ先の手が繋がっている。渡す場所、渡し方、月のない夜という周期――今夜掴んだ細い糸を、私は一つずつ頭の帳面に書き留めた。
「内側で受け取る誰かが、まだ分かっていない」
殿下が、低く呟いた。
「だが、下端は掴んだ。文が消える先を、これで一つ絞れる」
「他に、何か知っていることは」
私が重ねて問うと、男は少し迷ってから、声を落とした。
「……一つだけ。近ごろ、焼け落ちた工房の裏で、夜だけ人の出入りがあると聞きました。誰も住んでいないはずの場所です」
私と殿下は、思わず顔を見合わせた。
「オーギュストの工房か」
「はい……そう、名を聞きました。俺は、それしか知りません」
男は、デニスと名乗った。命を助けられた驚きが、まだ顔に貼りついたままだった。震える声で、何度も礼を繰り返す彼を、殿下は監視付きで王弟宮へ移すよう指示した。
「灰の下に、まだ何かが眠っているかもしれん」
殿下の声には、これまでにない硬さがあった。あの夜、工房が焼け落ちてから、ずっと行方の知れなかった調薬師。攫われたのか、灰の下にいるのか、自らの足で消えたのか――話末に残していた三つの線が、今夜また一つ動き始めていた。
「今から向かうぞ。夜が明けきる前に」
頷いた私に、殿下は低く念を押した。
「無理はするな。相手の正体も、数も分からん」
「分かっています。ですが、確かめないままでは、また先を越されます」
私は迷わず頷いた。デニスの証言が新しいうちに、この足で確かめておきたかった。
夜が明けきらぬうちに、私たちは焼け跡へ向かった。
黒く炭化した梁が、朝靄の中に沈んでいる。工房が焼け落ちたあの夜以来、ここで一人の調薬師の行方は絶えたままだった。灰の下に、彼はいなかったのかもしれない――そんな予感が、胸の奥で疼いていた。
崩れた壁の隙間から、地下へ続く階段が覗いている。焼け落ちた瓦礫の陰に、隠されるようにして。誰かが上から瓦礫を寄せ、わざと隠したような跡だった。
殿下が、灯りを低く構えた。
「下りるぞ」
「はい。……足音を、殺してください」
短い一言に、私は頷きを返す。焦げた木の匂いの奥に、微かに別の匂いが混じっていた。乾いた薬草の匂い――ここでまだ、誰かが何かを作り続けている証だった。テオの死体で嗅いだ苦い匂いとも、ミレーヌ様の丸薬の甘さとも違う、もっと生々しい調合の気配だった。
階段を下りる足音が、静けさに沈んでいく。石段の一段ごとに、心の臓が重く鳴った。
石段は湿って滑りやすく、壁に手をつくたび、指先に冷たい水の膜が残った。下りるほどに、あの調合の気配は濃さを増していく。
その先の暗がりに、微かな灯りが見えた。蝋燭の火だろう、揺れる橙色が、湿った土の壁を舐めている。
淀んだ空気の底で、幾つもの匂いが折り重なっていた。すり潰した根、火にかけた蝋、青いままの葉。死んだはずの工房の続きが、この地の底で、まだ息をしていた。
かたり、と小さな音がした。棚に、何かを置いた音。人の呼吸の気配が、灯りの奥からかすかに伝わってくる。
誰かが、いる。
「殺すな。生かして、話を聞く」
殿下が、腰の剣に手をかけたまま、低く言った。私は息を止め、灯りの向こうへ目を凝らす。工房が焼けて以来、行方も知れなかった一人の男の影が、そこにあった。
「造り手は」
私は、囁くように言った。
「灰の下には、いなかったのかもしれません」




