第017話 灰の下の造り手
石段の底に、蝋燭の炎がひとつ揺れていた。
湿った土の匂いに、すり潰した根と、火にかけた蝋の匂いが混じっている。焼け跡の下に隠された、もうひとつの工房。その奥に、痩せた影がうずくまっていた。
灯りに照らされたその顔は、頬がこけ、無精髭に覆われて土気色をしている。着古した上着の袖からのぞく手だけが、妙に生々しかった。爪の間まで、薬包紙の染みで黒く汚れている。長く火と薬草に向き合ってきた者だけが持つ、職人の手だった。
「動くな」
殿下の声が、湿った地下に低く響いた。剣の柄に手をかけたまま、一歩も動かない。男は逃げる素振りすら見せなかった。もう、その気力すら残っていないように見えた。
私は灯りの届く場所まで、静かに歩み寄った。棚に並ぶ小瓶、乾かしかけの葉、削られたばかりの木の匙。どれも見覚えのある手仕事だった。
薬師ギルドで検めた丸薬の継ぎ目と、寸分違わぬ手際だった。あの日、ギルド長のレニエ殿が「弟子にしかできない仕事だ」と唸った、あの技がここにある。灰の下にはいなかったのかもしれない――この身一つで確かめに来た予感が、静かに形を持ち始めていた。
「あなたが……オーギュスト殿、ですね」
問いかけた声に、男の喉がひくりと動いた。答える代わりに、その目に、ゆっくりと怯えが満ちていく。
「工房で仕立てられていた丸薬を、検めたことがございます。薬の層と、毒の層。継ぎ目に一分の乱れもない仕事は、王都であなた以外にはできないと、師のレニエ殿が仰っていました」
「……レニエ殿の、名を」
男の声が、初めて掠れて出た。長く使われていない喉の音だった。
「ご無事、なのですか」
「はい。あなたを案じておられます。工房が焼けた夜から、ずっと」
その一言に、男の膝から力が抜けた。崩れ落ちる体を、殿下が咄嗟に支える。
「殺しに……来たのでは、ないのですか」
「違います」
私は男の前に膝をつき、震える手を両手で包んだ。指先は氷のように冷たく、骨が浮くほど痩せていた。灯りの下で見る掌には、幾つもの古い火傷の痕が刻まれていた。
腕のいい職人の手は、たいてい傷の上に新しい傷を重ねて硬くなっていくものだと、幼い頃に見た薬師たちを思い出す。だがこの手は違った。古い火傷の上に、怯えだけが積み重なっていた。技はそのままに、心だけが磨り減っていく。そういう手だった。
「あなたは、駒にされたのですね」
問いかけると、男の目から堰を切ったように涙がこぼれた。声にならない嗚咽が、しばらく地下に響いた。
「初めは、ただ脅されるだけでした。妻子に指一本触れられたくなければ、言うとおりの薬を作れと。……半年のあいだ、あの工房で、言われるまま丸薬や香油を仕立てて、納めてきました」
半年。ユリウス様の御寝所で香油が焚かれ始めた時期と、寸分たがわなかった。
「けれど、ある夜――工房に火が放たれ、覆面の男が妻と子を攫っていったのです。従わなければ、二人とも殺すと」
声が、地の底から絞り出されるように震えた。
「灰の下で、私は死んだことになっている。誰も、私を探しはしない。そう言われて、この十日あまりは、ここへ移されて、同じ薬を作らされてきました」
攫われたのか、灰の下にいるのか、自らの足で消えたのか。先の調べで答えの出ないまま胸に留めていた三つの線が、この地の底で一つに束なった。工房が焼ける前から脅され、焼けた夜に攫われ、灰の下に隠されて、ここへ移された。三つとも真実で、いちばん重い答えだった。
テオも、ミレーヌ様も、そしてこの人も。この王宮に巣食う手は、いつも刃を持たない者の弱さを見つけて、そこへ静かに毒を差し込んでいく。家族という、誰よりも守りたいものを人質に取られれば、逆らえる者などいない。憎むべきは、震える手そのものではなく、その手を震わせ続けてきた者だと、私は奥歯を噛んだ。
「薬層と毒層の丸薬も、あなたが」
「はい。それだけでは、ありません」
男は、力なく首を振った。
「王太子殿下の御寝所に納める香油も、私が」
息が止まった。
小瓶の出所と、香炉の油の出所。別々に追ってきた二つの糸が、この地の底で、一人の造り手に重なっていく。ミレーヌ様を蝕んだ丸薬と、半年もの間ユリウス様の意思を霧の底へ沈めてきた香油。異なる二つの毒の陰に、同じ震える手があったのだ。
「注文は、いつも」
「覆面の使いです。決まって、月の見えない夜に、文が届きます。読んだらすぐ燃やせと」
デニスの証言と、同じ様式だった。この男もまた、盤上のどこにも顔を出さない指し手が動かす、名もなき駒に過ぎない。
「あなたも、指示していたのが誰かは」
「知りません。声すら、聞いたことがない」
男は、震える手のひらを見つめた。爪の間の染みが、灯りに黒く光る。
「ただ……この手は、もう二度と眠れないのです。何を作らされているか、分かっていながら」
その一言だけで、十分だった。望んで毒を仕立てたのではない。震え続けるこの手が、何よりの証だった。
殿下が、地下の棚に目をやった。乾いた薬草の束、すり潰した根、火にかけられたままの小鍋。作りかけの毒が、そこかしこに散らばっている。私はその一つひとつに目を這わせながら、棚の隅で萎れた一本の枝を見つけた。
手に取ると、切り口はまだ瑞々しく、樹液が乾ききっていない。葉の形は銀糸草によく似ていたが、葉脈の走り方がわずかに違う。銀糸草とは異なる、その近縁にあたる毒草だと、葉裏をなぞる指が告げていた。
「この葉は」
「香油の、原料の一つです。……その枝は、生木のまま届きました」
男は、力のない声で続けた。
「王宮の薬草温室でなければ、まともに育たない木だと聞いています。切って半日もすれば萎れて、香りが飛んでしまう。だから、いつも生木のまま」
私は、枝の切り口に鼻を近づけた。青い樹液の匂いは、まだ新しい。半日は経っていない、切ったばかりの匂いだった。
温室から切ったばかりの生木を、誰かがすぐさま城下まで運んでいる。人目を忍んで、しかも夜のうちに。それができる者は――温室を、いつでも人目を憚らず出入りできる者に限られる。頁を破られた管理記録簿の主も、名を秘して通う『お貴いお方』も、同じ場所を指していた。
これまで手繰ってきた糸は、いつも人の証言か、燃やされ損ねた紙切れだった。だがこの枝は違う。証言のように揺れることも、紙のように焼かれることもない、動かぬ物そのものの証だった。手のひらに残る青い匂いを、私は決して忘れないよう、深く胸に刻みつけた。
かつては別々に見えていた二つの点が、この枝一本を境に、同じ一人を指し始めていた。
「線が、また一本増えたな」
殿下の言葉に、私は静かに頷きを返した。切れかけていた糸が、また一本繋がっていく。
「あなたと、ご家族を、お守りします」
私は、オーギュスト殿の手を強く握った。冷え切った指に、少しずつ温もりが戻っていくのが分かった。
「どこに、囚われているか分かりますか」
「……分かりません。攫われたあの夜から、一度も」
声が、また震えた。
「私の腕を残すために、生かされているだけです。妻と子が、今も生きているかすら」
「必ず、探し出します」
殿下が、静かに言い切った。迷いのない声だった。近衛には知らせず、半刻で漏れる王宮を警戒して、自ら選んだ手勢だけで動くという。これまで幾度も先を越されてきた同じ轍を、二度と踏むまいとする構えだった。
オーギュスト殿は、何度も頭を下げた。乾いた目元に、久しく絶えていた光が戻りかけているように見えた。私は、その姿を見つめながら、テオやミレーヌ様のように口を封じられる前に、この人を見つけられたことを、静かに噛みしめた。
夜明けの道を、馬車で戻る。オーギュスト殿は保護のもと、王弟宮へ先に送られていた。二人分の空いた座席に、疲労だけが重く残っていた。窓の外には、白みかけた空が、灰色から淡い橙へと変わり始めている。
張り詰めていた糸が、ふいに緩んだ。膝の上で組んだ指先が、今さらのように震えているのに気づく。
誰かに手を差し伸べられることに、私はずっと臆病だった。婚約さえ、家の務めとしてしか受け止めてこなかった。それなのに、この人の隣にいる時だけ、守られることを素直に受け取れる自分がいる。その事実に、今さらのように戸惑っていた。
「殿下」
呼びかけた声が、自分でも驚くほど掠れていた。
「大丈夫か」
問い返す殿下の手には、いつもの手袋がなかった。地下で剣を構えたまま外れたのか、それとも自ら外したのか、私には分からなかった。
膝の上に無造作に置かれた手は、手のひらを上に向けていた。剣を執るその手のひらに、指の付け根から手首へと斜めに走る、白く盛り上がった古い傷があった。人前では決して晒さない、この人だけの傷だった。馬車の薄明かりの中で見るその傷は、思っていたよりも深く、長い年月を刻んでいた。
私は、迷いながら手を伸ばした。指先が、傷の上にそっと触れる。
「……リディア?」
「今度は、私からです」
これまでは、いつもこの人の手が、私を支えてきた。手袋越しに伝わる熱だけを、受け取ってきた。今日は違う。守られるだけの側から、少しだけ抜け出したかった。
「あなたの殻に、私も触れたい。それだけです」
傷の縁を、指の腹でなぞる。硬く引き攣れた皮膚の感触が、確かに伝わってきた。
殿下は何も言わず、ただ私の指を、もう一方の手でそっと包み込んだ。馬車の車輪が石畳を刻む音だけが、しばらく二人の間を静かに埋めていた。
王弟宮に着くと、書斎の灯りが、まだ落ちずに残っていた。近衛の一人が、急いた足取りで駆け寄ってくる。
「殿下。……先ほど、蔵から回収した綴りが届きました」
差し出されたのは、革表紙の擦り切れた帳面だった。温室の管理記録簿よりも、さらに古い綴じだった。表紙には染みが幾重にも重なり、綴じ糸のところどころがほつれている。蔵の奥深くに、長く眠っていた重みが手のひらから伝わってきた。
窓の外はすでに白く明け始めていたが、書斎の中だけは、まだ夜の続きのような静けさが残っていた。殿下が、それを受け取って一枚目を開く。私は、息を詰めてその手元をじっと見つめた。
指先が、頁の端で止まった。
「三年より前の頁が、残っていた」
低い声だった。
灯りに照らされたその頁には、私の生まれるよりも前の日付が、震える手で書き込まれていた。三年前の春どころではない。この綴じの根は、もっと深く、もっと古い場所まで伸びている。
温室の生木、消えた造り手、そしてこの古い綴じ。灰の下から拾い上げてきた糸の先に、ようやく名を持つ何かが見え始めている。三年前の春に始まったと思っていた影は、それよりずっと昔から、この王宮の芯に根を下ろしていたのだ。その名が、この擦り切れた綴じのどこかに、まだ眠っている。




