第018話 お貴いお方の名
書斎の卓に広げられた綴じは、これまで検めてきたどの帳面よりも古かった。
墨の色は褪せ、紙は乾いて反り返っている。指先で触れるだけで、端がほろりと崩れ落ちそうだった。革表紙の縁には、幾重にも重なった染みが年輪のように刻まれている。
「三年より前の頁が、残っていた」
殿下の低い声に、私は頷きを返す。夜が明けきったばかりの書斎に、蝋燭の灯りだけがまだ点っていた。窓の外は白みかけているのに、この一角だけが、まだ夜の底にいるようだった。
一枚ずつ、慎重に頁をめくっていく。日付は古い書式で記され、読み解くのに時がかかった。それでも、繰り返し現れる一行があった。
『お貴いお方、おいでになる』
同じ筆跡、同じ文言。月に一、二度、人気の絶える夕暮れどきに記された一行が、頁を遡るたびに、幾度も、幾度も現れる。指先が、その文字の上を何度も往復した。
「これで、どこまで遡れます」
つぶやきながら、頁を数えていく。乾いた紙の匂いが、古い墨の匂いと混じって鼻の奥に残った。一番古い記入に行き着いたとき、私は思わず手を止めた。
「今から、三十年近く前です」
殿下が、わずかに息を呑む気配がした。
「俺が生まれる前だ」
その一言で、胸の中にあった一つの候補が、静かに消えていく。三十年前の温室に、生まれてもいない殿下が通えるはずはない。
条件に触れる名は、たとえ王弟であっても、一度は数えてから消す。母の口癖と同じ、迷いのない検算だった。
「殿下は、除きます」
「分かっている。数えるまでもないと思っていたが――お前がそう言うなら、数えたということだ」
殿下の口元に、わずかな苦笑が浮かんだ。
近衛が呼びに走らせたのは、ガストンだった。三十年のあいだ王宮の薬草温室で銀糸草を育て、名も知らぬ来訪者の足音までを覚えてきた、老いた温室番。
その彼が書斎の戸口に現れたのは、それからほどなくのことだった。土のついた前掛け姿のまま、寝間着の上に上着だけ引っかけて駆けつけたらしい。息を切らし、皺だらけの手で戸枠を掴んでいる。
「お貴いお方さまが……この帳面に?」
土の匂いの染みた指が、所在なげに前掛けの縁を握り込んだ。私は、その手の強張りが解けるのを待ってから、静かに口を開いた。
「見えなくてよい。声で答えてください」
私は綴じを開いたまま、ガストンの前に置いた。目の遠い彼には、文字よりも先に、記憶の方がずっと確かだった。
長年、葉の裏と土の匂いだけを頼りに生きてきた指が、そっと頁の上を撫でる。
「若い時分にも、お忍びの御方はいたのですだ」
ガストンが、遠い目をした。皺の奥の瞳が、若かった日の記憶をたどるように細くなる。
「今のお声よりずっと若かったが、歩き方だけは、今と変わらねえ。右の足を、わずかに引きずるような」
三十年、同じ足で。私は胸のうちで、その言葉の重みを静かに量った。
ガストンの声に、迷いはなかった。目は遠くとも、足音と気配だけは、三十年ぶんの確かさで刻まれているらしかった。
「ですだ。若い頃には、温室そのものをこしらえるための地割りに、御自ら立ち会っておられたと、先代の温室番から聞いたことがありますだ」
温室の設立に、自ら関わった人物。設定資料の中にしか存在しなかったはずの秘密が、老いた庭師の記憶から、初めて言葉になって零れ落ちた。私は、その一言を胸の帳面に刻みつける。
「近衛の検問記帳とは、別の話です」
殿下が、静かに補った。
「近衛の帳面には、検問の頭を下げさせるべき身分の者は、そもそも記帳しない。ガストンの帳面は、名も知らぬまま来訪の事実だけを記した、庭師個人の控えだ。片方は公の記録、片方は私の記録。どちらも欠かせば、この人影は消えたままだった」
私は、懐から古い帳面を取り出した。宰相への聴取の折に書き写した、封蝋の改鋳を差配した五名の名簿だった。
「改鋳を差配し得た者は、五名。うち三名は、既に世を去っています。存命は――オルタンス伯と、ダレン侯爵。お二人だけです」
指先で、頁をなぞる。宰相ロシュフォール様は、この時点でとうに白と証されている。残るは、この二人だけだった。
「温室に、三十年通い続けた形跡があるのは、このお二人のうち、どちらでしょうか」
帳面は、誰の名も書き残さない。『お貴いお方』と、ただそれだけを、三十年、書き写してきただけだった。
「名は、どこにもありません。ですが――」
私は、乾いた頁をそっと押さえた。
「この綴じが語っているのは、たった一人のこと。三十年、変わらぬ足取りで、人気の絶える夕暮れどきに通い続けた、ただ一人の御方です」
殿下が、綴じから目を上げた。右の足を引きずるように、と、私の言葉を低く引き取る。その横顔に、これまで見たことのない翳りがよぎった。
「――その足取りに、覚えがある。評議の広間へ向かう長い廊下で、幾度となく前を歩いた背中だ。右の踵が、いつも半拍だけ遅れる」
だが殿下は、それ以上を口にしなかった。名を告げるには、まだ一手足りない。その一手を並べるのは、私の役目だった。
そこへ、オーギュスト殿の証言を書き留めた紙が重なる。生木のまま届けられた枝。温室でなければ育たぬ木。
切って半日で萎れるがゆえに、いつも人目を忍んで、夜のうちに運ばれていたという証言だった。
「温室から生木を持ち出せる者。改鋳前の封蝋を持ち得た、生き残りの二名のうちの一人。そして――」
私は、父の言葉を思い出しながら続けた。
「母上を、あの温室に招いた御方」
殿下が、私の顔を見た。
「三つの条件を、全て満たすのは」
私は、小さく頷きを返した。喉の奥が、冷えていく。感情が動くほど、声は静かになる。母譲りの癖だと、もう何度も思い知った。
「オルタンス伯のお名前は、封蝋の名簿にこそ残ります。改鋳を差配し得た、生き残りのお二人。そこまでは、ダレン侯爵さまと並んでおられる。――ですが、温室と結ぶ糸は、あの方には一本もない。生木も、母上を招いた事実も。三つがそろって重なるのは――ダレン侯爵さま、お一人です」
言葉を切り、卓の上の三つの証を、順に指でなぞった。古い綴じ。名簿。父の証言を書き留めた紙。
「初日から、私を嗤わなかった。ただ一人。――その理由が、ようやく分かりました」
穏やかな声。皺の寄った目元の笑み。糾弾の場で庇い、任命式で祝辞を述べ、台帳の欠落にすら気づいていたあの人の顔が、母の仇の顔として、静かに定まっていく。
これまで安堵しか覚えなかったあの笑みが、今はもう、別の色を帯びて見えた。
「ダレン侯爵、か」
殿下が、低く名を口にした。三年ものあいだ、姿の見えぬまま追い続けてきた影に、初めて輪郭が付いた声だった。
「母上を、温室に招いたのも――あの春、蔵の錠が開いていたのも」
殿下が、私の言葉を静かに継いだ。
「同じ手だ。三年前の春、先王の御最期も、お前の母君も――そして今日まで、王家の中枢に居座り続けてきた男だ」
殿下の声に、これまで聞いたことのない重みが乗っていた。
「三年、追い続けてきた影に、ようやく名が付いた」
沈黙が、書斎に落ちた。窓の外では、朝の光が白く広がり始めている。ガストンは、私たちの間に流れる張り詰めた気配を察したのか、頭を下げてそっと下がっていった。
私は、ゆっくりと息を吐いた。憎しみとも、安堵とも呼べない、初めての感情だった。
長く探し続けていた答えを、ようやく手のひらに収めた実感だけが、静かに胸を満たしていく。母の墓の前で何度も繰り返してきた問いに、今、初めて名前で答えられる。
殿下の手が、私の肩にそっと乗った。何も言わず、ただ確かな重みだけを伝える手だった。
「だが――分からん」
殿下が、低く漏らした。
「なぜ、あの人なのか。先王を、お前の母君を手にかけ、王太子の心まで奪ってまで、あの人がいったい何を望んだのか。名にはたどり着いた。だが、その名がなぜ全てを壊したのかは、まだ何一つ見えてこない」
たどり着いたのは、影の輪郭だけだった。その奥にある、動機という名の闇には、まだ光が届いていない。
「御前で、この盤面を全て並べます」
卓の三つの証を、私は指先で揃え直した。殿下は一度だけ頷き、だがその目には、すぐに別の色が差した。
「ああ。だが、証を並べただけで、あの人が黙って裁かれるとは思えん」
殿下の目に、警戒の色が戻った。
「今日まで、一度も尻尾を出さなかった相手だ。名を突き止められたと知れば――」
その時、廊下を駆ける足音が近づいてきた。慌ただしく、いくつも重なる足音だった。
戸が乱暴に開き、近衛の一人が、蒼白な顔で飛び込んでくる。
「殿下。……デニスの様子が」
殿下が、帳面から顔を上げた。椅子を鳴らして立ち上がる気配が、書斎の静けさを断ち切る。何があった、と鋭く発した声に、近衛が震えながら答えた。
「昨夜の粥に、何か仕込まれていたようです。膳につけていた毒見の下役が、作法どおり先に匙を取っていたため、事なきを得ましたが……」
心の臓が、冷たく縮んだ。デニスは、王弟宮の最も奥、警備の最も厚い一角に匿われていたはずだった。
デニスの膳には、私の言いつけで、家で毒見の作法を仕込んだ下役を一人、付き添わせてあった。私はこの数日、殿下の傍と証人の間を行き来して、どちらの膳にも張りついてはいられない。
だから、口に入る品は必ず誰かの舌を先に通す――その手筈だけは、私の目が届かぬ間も崩させなかった。テオも、ミレーヌ様も、これまで幾人もの『駒』を口封じで失ってきた。
ようやく手にした生きた証人だけは、二度と失うわけにはいかなかった。その用心が、今、彼の命を拾っていた。
王弟宮の内で、それも今朝方までにか――殿下の声が、これまでにない鋭さを帯びる。近衛は、震える声で頷いた。
「はい。誰が、いつ、どうやって近づいたのか――手口は、まだ掴めておりません」
殿下が、低く息を吐いた。その横顔には、身内へ刃を向けるような苦さがあった。
「評議の中身が、半刻で社交界の扇の内まで回る。あの見えない口が、まだ塞がっていない。だが――今度は、社交界の扇ではない」
殿下の指が、卓の縁を一度、強く押さえた。
「王弟宮の奥、警備の最も厚い一角にまで、毒の匙が届いた。噂が漏れただけでは、こうはならん。この宮の内に、あの人へ通じた者がいる。膳に近づける立場の、生身の誰かが――俺の、すぐ傍にな」
私は、卓の上に並んだ古い綴じと、名簿と、父の証言の紙を見つめた。ようやく辿り着いた名を、まだ誰にも告げていない。
御前に諮る支度すら、これから整えるところだった。それなのに、敵は既に動いている。
「気づかれています」
声が、掠れた。
「私たちが、あの名に辿り着いたことを――あの人は、もう知っています」




