第019話_偽りの侍医
デニスの粥に毒が仕込まれていた報せは、私たちの足元を凍らせるのに十分だった。
幸い、毒見の下役が匙を先に取っていたおかげで、デニスの命に別状はない。だが、王弟宮の最も奥、警備の最も厚い一角にまで毒の手が届いた事実は、重く胸に残った。
近衛が総出で宮の内を検めているあいだ、私たちは書斎に留まっていた。卓の上には、蔵から拾い上げてきた古い綴じと、改鋳差配の名簿と、父の証言を書き留めた紙が、まだ広げられたままだった。ダレン侯爵という名に、ようやく手が届いた矢先だった。
「宮の内に、あの人へ通じた者がいる」
ヴィンセント殿下の声が、低く響いていた。証を並べる前に、まず内側の口を塞がなければならない。名を突き止めた高揚も、束の間だった。
「二つの条件を、重ねます」
私は、帳面を新しく開いた。数えて、消す。条件に触れる名を一人ずつ検算していく、母譲りの癖だった。聖域は作らない。
「一つ、香炉を焚き直せた者。ユリウス殿下が目覚められてから、この一両日のうちに、私室へ立ち入れた者に限られます」
殿下が、名を挙げていく。モローと、限られた侍女――そこまで口にしかけて、ふと目を細めた。
「――いや。あの香炉の夜、俺は確かにそう数えた。だが、その先を『まだ知らない出入りの経路』として残したはずだ。あの経路を、まだ詰めていなかった」
私は頷いた。あの夜、二人で数え残した一つが、今、名を持って立ち上がろうとしている。
「殿下が目を覚まされてから、その容体を日に幾度も検めに入る役目の者がいます。モロー様の名代として、交代で私室へ通う――当番の侍医です」
殿下が、先を促すように顎を引いた。
「評議の中身を、半刻で外へ運べた者。――これも、同じ役目の上で重なります」
私は、帳面の隅に、もう一本の線を引いた。
「当番の侍医は、殿下の容体を評議の場へ復命するため、控えの間に侍る定めです。この復命の役目は、殿下が寝台に沈まれたその日から――目覚めるより前、評議の言葉が半刻で社交界の扇へ漏れた、あの頃から置かれておりました」
線の先を、私は昏倒の日まで真っすぐに遡らせた。
「私室へ焚き直しに入れたのは、目覚めの後。ですが、評議の言葉を運べたのは、その前から。焚き直しの手も、あの日の漏洩も、この一つの役目の上でひと続きになります。二つの条件を同時に満たせる立場は、ほかにありません」
殿下が、腕を組んだ。指を折るように、名を一つずつ検めていく。
「モローは、ここ数日ほとんど眠らずにユリウスの傍に詰めていた。評議に出ていた形跡はないと、詰所の記帳が示している。侍女には、そもそも評議に近づく務めがない」
私は、帳面の上でその二つの名に、静かに線を引いた。残るのは、ただ一つの役目だけだった。
「残るのは、交代で診に入っていた侍医だけ、か」
「はい。当番の記録簿を、殿下が倒れられた日まで遡って検めました。焚き直しの起きた目覚め以降だけではありません。評議が半刻で漏れた、あのまだ昏睡の頃から――控えの間で殿下の容体を復命していた当番は、初めから今日まで、ただ一人きりでした」
名を、アンリという。モロー様の下で三年ほど働く、若い侍医だった。
顔を見れば、分かるかもしれない。私はそう言い置いて立ち上がった。ユリウス殿下に、思い出せずにいる「香を勧めた侍医」の顔を、確かめてもらうために。
回廊を急ぐあいだ、殿下は一言も発さなかった。ただ、腰の剣に添えた手だけが、いつもより強く柄を握っているのが分かった。
私の胸も、同じ拍動を刻んでいた。あの霧の夜から半年――ようやく、駒ではなく、駒を動かす手の側の一人に、指が届こうとしている。
ユリウス殿下の私室に着くと、当のアンリが、香炉の脇にしゃがみ込んでいた。細面で、まだ二十代半ばだろう。手には、封をしたはずの灰の壺があった。
――あの香炉の灰だ。香毒との照合を終えたあと、御前に原物として差し出すため、封のまま私室の証拠箱に留め、近衛の目を付けて保全してあった。その封が、今は切られている。
私が知る限り、これまで一度も言葉を交わしたことのない顔だった。
「何を、しているのですか」
私の声に、アンリの肩が跳ねた。
「これは……封の緩みを、直していただけです」
言い訳にしては、指先が震えすぎていた。
「ユリウス殿下。この方に、見覚えは」
寝台から身を起こしたユリウス殿下が、アンリの顔をじっと見つめる。しばらくの沈黙のあと、その目に、何かが灯った。
「……お前か。香を勧めたのは」
「い、いえ、私は……!」
「思い出した。眠れぬ夜が続くと訴えた俺に、安眠の香だと言って勧めた顔だ。ずっと霧の向こうにいたが――今、はっきり見える」
アンリの顔から、血の気が引いていく。
私は、なお言葉を続けた。
「ユリウス殿下の脈を、取ってください」
アンリの指が、ほんの一瞬、殿下の手首の上で止まった。どこに触れればいいのか、迷う指だった。医者なら、目を閉じていても迷わない場所だ。
「な……何を、今さら」
「取れないのですか。それとも、取り方を、知らないのですか」
沈黙が答えだった。
「あなたは、脈の取り方を知らない。あなたが診ていたのは、ユリウス殿下ではなく――香炉の火です」
アンリの顔が、はっきりと崩れた。灰の壺を抱えたまま、後ずさる。
ヴィンセント殿下が、低く捕縛を命じる。その声に、戸口の近衛が動いた。だがアンリの手が、壺を炉の中へ振りかぶった。
「駄目です――!」
叫んだ時にはもう遅かった。壺は炎の中へ落ち、灰と炭が混じり合う。殿下が腕を伸ばして止めようとした瞬間、アンリの懐から小さな刃――医術に使うメスだろうか――が閃いた。
とっさに、殿下の体が私の前に出た。
刃先が、殿下の腕を浅く裂く。血の玉が、白い袖に赤く滲んだ。
近衛がアンリを取り押さえるまで、ほんの数拍のことだった。だがその数拍のあいだに、封を切られた灰は炎に飲まれ、もう原形を残していなかった。
「殿下……!」
私は、震える手で殿下の腕を取った。傷は浅い。それでも真っ先に、傷口へ鼻を寄せた。血の匂いのほかに――あの焦げた砂糖の甘さも、青い煙の気配もない。刃に毒はない。とっさの凶行で、毒を塗る間などなかったのだろう。医術の刃を懐から抜いただけの、浅い一裂きだ。
そう見て取ってようやく、彼の血が私の指先を濡らす感触が、遅れて胸に迫ってきた。声が、続かなかった。
「これしきで、死にはしない」
殿下が、静かに言った。それだけの言葉に、これまでのどんな睦言よりも、深く胸を撃たれた。私は傷口に布を強く押し当てながら、ただ頷くことしかできなかった。
捕えられたアンリは、震えながら洗いざらいを語った。
三年前、思いがけない縁故で侍医団への席を得たこと。実家の借財を肩代わりする代わりに、決まった様式の文で指図を受けるようになったこと。
「安眠の香」を勧めたのも、目覚めの報せの後に焚き直したのも、すべて言われるままだったこと。容体の復命に侍った控えの間で耳にした評議の中身を、同じ様式の文で送り届けたのも――何もかも、顔さえ知らぬ相手の指図のとおりだったこと。
「顔は、一度も見ていません。誰なのかも……本当に、知らないのです」
同じ答えだった。テオも、ミレーヌ様も、デニスも、オーギュスト殿も。末端の駒は、誰一人としてあの人の顔を知らない。
アンリの声は、次第に嗚咽に変わっていった。
「席をいただいた時は、有難いとしか思いませんでした。田舎の三男坊に、王宮の侍医団など、望んでも得られる縁ではなかった。……差し出された恩に、裏があると気づいた時には、もう抜け出せませんでした」
三年、いや、もっと長く――この王宮の隅々にまで、名を伏せたまま毒を差し込んできた手の深さを思い知る。恩を装って人を招き入れ、借財で縛り、駒として使い潰す。ダレン侯爵という名の裏に、何人の人生が、同じ形で刈り取られてきたのだろうか。
「原物の灰は、焼かれた」
殿下が、包帯を巻かれた腕を見下ろしながら言った。
「香毒との照合は、お前がとうに済ませている。失ったのは、御前で手に取って示せる最後の一握り――それだけだ。あの男は、その一握りのために、命を賭けて炉へ手を伸ばした」
「はい。ですが、証はまだ、それだけではありません」
私は、静かに言った。
「生きた証人が残っています。それに――内通の口も、今日、塞ぎました」
デニスの居所が、王弟宮の最も奥にまで知れていたのも、この口があったからだ。塞いだ今、あの人の耳は、確かに一つ潰れた。
胸のうちに、長く二本のまま残していた線が、一本に減っていく。薬師ギルドで造り手の名が浮かんだ矢先、名簿の頁が破られ、工房が焼け落ちた、あの先回り。内側から漏れていたのか、それとも向こうが自らの手で痕跡を消していたのか――ずっと決めかねていた。
だが、工房が燃えたのは、私たちがギルドの門をくぐるよりも前の夜だった。この口を通した先読みでは、どうしても間に合わない。あれは内通の報せなどではなく、造り手を先に消しにかかった、あの人自身の後始末だったのだ。
その日のうちに、殿下は病床の陛下へ直訴した。デニスへの毒とアンリの一件を並べ、これ以上の遅れは新たな死を招くと訴える。半刻と経たぬうちに、返答が届いた。三日後、御前立証の場を正式に開く――陛下の允可には、そう記されていた。
証を揃える猶予は、もう三日しかない。だが、これ以上待てば、次に狙われるのが誰かは分からなかった。
オーギュスト殿、デニス、父――御前で声を上げてもらう証人たちの顔を、私は一人ずつ思い浮かべた。ミレーヌ様に名を語らせれば、あの毒がぶり返す。あの方の供述だけは、書き取って御前に伏せるほかない。原物は失ったが、彼らの声までは奪われていない。三日で、盤面をもう一度組み直す。
夜、包帯を替えた殿下の腕を、私は黙って見つめていた。三年前より前から、あの人はきっと、こうして静かに手を伸ばし続けてきたのだ。末端はいつも顔を知らず、指し手だけが、ずっと盤の外に立っている。そう思うと、背筋が冷えた。
「灰の下の造り手も、評議の内通も――末端はいつも、あの人の顔を知らない。用意周到に、己だけを盤の外に置いてきた」
殿下が、短く言った。その横顔に、これまでにない硬さがある。三日後、御前の盤であの人と正面から向き合うのだと、私は胸のうちで刻んだ。だが、それを口には出せなかった。証を並べれば大人しく裁かれる――そんな相手なら、三年も影のままではいなかったはずだ。
「あの人は、こちらが切り札を並べ終えるのを、むしろ待っている気がする」
殿下の目が、窓の外の闇へ向いた。
「御前という場そのものを、逆に使う手を――たとえば、また『王命』を騙るのか。お前の母君の名を、お前自身を、こちらへ突き返してくるのか」
私の背を、冷たいものが伝った。父を縛った、あの偽りの「王命」。同じ手が今度は、御前の盤の上で、私たちに向けて指されるのかもしれない。
低い声が、静まり返った部屋に沈んだ。
「まだ、伏せている手がある。三日のうちにそれを見つけ出さなければ――並べた証ごと、ひっくり返される」




