第020話 毒は嘘をつきません
御前の間に足を踏み入れた瞬間、床を這う冷気が肌を刺した。
高い天井から差し込む光の帯の下、玉座には陛下御自らの姿があった。ここ幾年も病の床を離れられなかったお方だ。今日は近習が輿ごと運び入れ、幾重もの褥をあてがって、ようやく背を起こしていらっしゃる。顔色は青白く、膝には寝所から運ばれた毛布がかけられていた。
自ら床を離れることさえかなわぬお体を、それでも御前へ運ばせたのは――先王を、御自らの父君を弑した者を、この目で裁くためだった。王命一つ御自ら発せられぬお方だからこそ、その御名は幾度も騙られてきた。その主が今、初めて裁きの座に就いている。掠れてなお衰えぬ光が、その双眸には宿っていた。
陛下の傍らには、まだ本復とはいかぬ王太子ユリウス殿下が控えていた。半年の霧をようやく抜けたばかりのその人は、今日は一言も発さぬ被害当事者だった。
左右に居並ぶ重鎮たちの中に、白髪頭のボードワン侯爵の姿もある。第一話で誰よりも大きな声で私を糾弾した人が、今は俯いたまま顔を上げようとしない。
灰色の長衣を纏った宰相ロシュフォール様と、白鬚の大法官モーリス様も、そろって陛下の傍らに控えていた。偽りの封蝋で濡れ衣を着せられ、私たちの手で潔白を晴らされた宰相。その裁きに立ち会い、御前の議事を束ねる大法官。二人とも、あの日の恩を、この場で返すつもりなのだろう。
そして――穏やかな笑みを湛えたダレン侯爵が、いつもと変わらぬ佇まいで、列の中ほどに立っていた。三日前と何一つ変わらない顔だった。名を突き止められたことなど、まるで知らぬ顔で。
私の隣には、包帯の下にまだ浅い傷を残す王弟殿下が立つ。三日という猶予の中で、私たちはできる限りの盤面を組み直してきた。焼かれてしまった香炉の灰の代わりに、証言と物証を幾重にも束ね直す。眠る間も惜しんで書き並べた紙束の重みが、今も腕の中にある。
「アッシュフォード伯爵令嬢リディア、発言を許す」
陛下の声は掠れていたが、静かな威厳があった。私は一歩前に進み出て、深く一礼した。
婚約破棄の夜から、ここまで長かった。舌一つを頼りに、幾つもの糸をたぐり寄せてきた。喉の奥が、いつもより渇いている気がした。
「三年前の春、先王陛下は銀糸草によって身罷られました。同じ春、私の母は、王宮から戻った夜に同じ毒の型で息を引き取りました。二つの死を結ぶ糸を、これより御前に並べます」
近衛が、卓の上に古い綴じを開いて置いた。
「王宮薬草温室の記録簿です。三十年にわたり、名を秘した『お貴いお方』が通っていた事実が記されています。温室番ガストンの証言では、その足取りは右の踵がわずかに遅れる、変わらぬ歩き方でした」
続けて、改鋳差配の名簿を広げる。
「封蝋の旧型を持ち得たのは、存命の者ではダレン侯爵さまとオルタンス伯のお二人のみ。ですが、温室と結ぶ糸は――オルタンス伯には一本もございません」
ここからは、人の口が語る番だった。
御前に立つはずの証人は、もう一人いた。ミレーヌ様――けれど、あの方の体には、名を口にした瞬間に牙を剥く毒が、まだ眠っている。名を語らせるわけにはいかなかった。脅されて駒にされた経緯だけを書き取った供述は、あらかじめ殿下が御前に伏せてある。今日この場で声を上げるのは、名を口にしても倒れぬ三人だ。
証言台に、痩せた影が進み出た。父だった。護送先から、この日だけ出廷を許されていた。頬はこけ、囚われの日々の疲れを隠しきれずにいたが、背筋だけは崩れていなかった。
「お前の母は、殺されたのだ」
父の声が、静まり返った間に響く。
「あの温室を見せたいと母を招いた御方は――ダレン侯爵さま、あなたでした」
続いて、オーギュストが証言に立った。地下から救い出されてなお、その手はまだ小さく震えている。
「丸薬も香油も、私が仕立てました。原料の生木は、いつも夜のうちに、温室からしか届かぬ枝でした。……妻子を人質に取られ、逆らえませんでした」
近衛が、証拠箱から白磁の丸薬を取り出し、卓に置いた。薬の層と毒の層を継ぎ目なく固めた、あの技だった。香炉の灰は炎に消えたが、これだけは焼かれずに残っている。
その後ろから、デニスが進み出て頭を下げた。
「文を運んでいたのは、私です。指図は、決まって月のない夜。差出人の顔は、一度も見ておりません」
三人の証言は、それぞれ別の場所、別の時期に交わされたものだった。それでも指し示す先は、ただ一点に重なっていく。父の言葉、オーギュストの震える指、デニスの伏せた目――誰一人として、示し合わせて嘘をつけるはずのない三人だった。
最後に、殿下が一歩前に出た。腕の傷を庇いながらも、その声には迷いがなかった。
「王宮の受領控えを」
殿下の一声で、控えていた文官が台帳を運び入れる。
「アッシュフォード領で見つかったという、未返納の毒瓶――王宮の受領控えには、毒の一瓶ごとに、支給の記と返納の記が対で並びます。ですがこの一行だけは、返納の対を欠いたまま、後から書き足されておりました。書き役の筆跡を、そっくり真似て」
私は、その頁を陛下の御前に掲げた。周りの記入がみな年月に茶けているのに、その一行だけ、墨が今も濡れたように黒い。似せた手の撥ねが、なぞり書きの震えを隠しきれずにいる。
「本物の支給など、どこにもございません。あるのは、この偽りの一行だけ。毒見役の家に『未返納の毒瓶』を仕立てるために、後から書き加えられたものです」
私は、卓の上に並んだ三つの記録を、順に指し示した。
「温室の記録簿と、薬師ギルドの名簿は、頁ごと根元から破り取られていました。この台帳だけは、破らずに、偽りの一行を書き足してある。――同じ一つの手が、記録ごとに手を変えているのです。こんな真似ができるのは、王宮の最も内側の記録に、思いのままに触れられる者だけ」
広間が、低くざわめいた。ボードワン侯爵が、自らの糾弾の根拠が崩れていくのを悟ったように、椅子の上で身を縮めている。
ダレン侯爵が、初めてゆっくりと口を開いた。
「よくお調べになった。だが、それだけの糸で私を名指しするのは、いささか性急ではありませんか。温室に通う影など、代々の重鎮の誰であってもおかしくない」
「その一人一人を、既に数えて消しました」
私は、静かに言葉を継いだ。
「殿下ご自身も、生まれる前の記入を理由に除いております。聖域は作りません。残ったのは、あなただけでした」
ダレン侯爵の眉が、わずかに動いた。だが、笑みは崩れなかった。
「見事な弁舌です、令嬢。しかし――老いた庭師の記憶と、破られた紙切れだけで、人一人の生涯を裁くには、些か心許ないのでは」
「では申し上げます」
私は、静かに息を吸った。感情が動くほど、声は静かになる。母譲りの癖だった。
「毒は嘘をつきません。嘘をつくのは、いつだって人間のほうです」
あの夜から幾度も口にしてきた言葉を、今、初めて母の仇へ向けて放つ。喉の奥が冷えていくのに、声は少しも震えなかった。
ボードワン侯爵の肩が、目に見えて縮こまった。かつて私を嗤った人々の間に、重い沈黙が落ちる。
かつて糾弾に頷いた重鎮たちが、今はダレン侯爵から目を逸らしていた。頁を破られた温室の帳面も、封蝋の名簿も、偽りの一行を継ぎ足された台帳も、指し示す先はただ一つきり。誰の口も、それを覆す言葉を持たなかった。
三年、盤の外から毒を差し続けてきた人が、初めて盤の上へ引きずり出されている。穏やかな笑みの奥で、その人はたしかに追い詰められていた――そのはずだった。
隣で、殿下がわずかに私を見た。目が合う。何も言わずとも、婚約破棄のあの夜から二人で積み上げてきたものの重みが、その一瞬に確かに通い合った。
「――なるほど」
ダレン侯爵の口元に、笑みが深くなった。追い詰められた者の顔ではなかった。
「では、少し伺っても?」
「何なりと」
「この場に並んだ証のすべてに触れ、毒か否かを告げてきたのは、いつも、あなたご自身だ。母君を殺されたと信じる令嬢が、憎い相手を陥れるために、その舌で偽りを紡がなかったと――どうして言い切れましょう」
間が、凍りついた。
「証人たちの言葉も、あなたが導き、あなたが書き留めたものばかり。老いた庭師の記憶違い一つで、いかようにも姿を変える証です」
穏やかな声のまま、ダレン侯爵は続けた。
「愛する母君を奪われた令嬢の舌が、真実だけを語ると――この場の誰に、証明できましょうか」
ダレン侯爵は、そこで一度言葉を止めた。ゆっくりと広間を見渡し、誰の目にも公平であるかのように、悲しげにさえ見える表情を作ってみせる。何十年もこうして、人の心を静かに操ってきたのだろう。その手練れさに、背筋が冷えた。
囁きが、広間にさざめき始める。第一話の夜と同じ速さで、疑いの色が私の周りに広がっていくのが分かった。社交界は毒よりも早くまわる――あの夜学んだことを、今また思い知らされる。
「戯言を」
殿下が、低く割って入った。
「彼女の舌が偽りを紡いだことは、これまで一度もない。三年、俺自身がこの目で確かめてきたことだ」
「殿下の目もまた、令嬢を想うがゆえに曇っているとしたら?」
ダレン侯爵の声は、少しも荒くならなかった。むしろ、労わるような響きさえ帯びている。
「私は、あなた方お二人を疑えと申しているのではありません。ただ、御前という場は、情ではなく、誰の目にも揺るがぬ証をもって裁くべきだと申し上げているだけです」
その物言いに、うなずく重鎮たちの顔がちらほらと見えた。理を説く声のほうが、剣幕よりもずっと厄介だと、私は今さらのように思い知る。ボードワン侯爵でさえ、俯けていた顔をわずかに上げ、風向きを窺うように目を泳がせていた。
殿下が一歩、私の前に出ようとする。私は、その袖をそっと押さえた。まだ、答えを持っていなかった。
陛下が、静かにこちらを見ていた。掠れた息の下で、裁きの天秤が、今まさに揺れている。
穏やかな笑みを崩さぬまま、ダレン侯爵の目だけが、静かに私を見据えていた。まるで、この一手こそが最初から用意されていた切り札だと言うように。
母の仇を、目の前まで追い詰めた。それなのに、勝ったという実感は、どこにもなかった。
広間に満ちる沈黙の重さだけが、これから起きることの大きさを物語っていた。




