第021話 毒を知る者
沈黙の重さに、喉が詰まりそうだった。
御前の間に満ちるざわめきが、潮のように私の周りへ押し寄せてくる。第一話の夜と同じ、疑いの色をした波だった。あの夜は、ただ立ち尽くすしかなかった。今は違う。
けれど、ここで俯くわけにはいかない。私は一度、深く息を吸った。冷えた空気が、喉の奥まで届く。
「私の舌を、信じてくれとは申しません」
広間が、わずかにざわめいた。誰もが予想しなかった言葉だったのだろう。玉座の傍らで、殿下が一歩だけ半身を引き、私に場を譲る。目は合わせなかったが、その気配だけで、後ろに立っていると分かった。ダレン侯爵の目にだけ、かすかな驚きがよぎった。
「舌は、どれほど鍛えても、この身一つのものです。信じるか信じないかは、聞く方の心が決めること。ですから、私が何を言うかではなく――並んだ証そのものを、もう一度お確かめください」
私は、卓の上の紙束を一枚ずつ指し示していった。指先が触れるたび、これまで歩いてきた道のりが、紙の重みとなって手のひらに返ってくる。
「封蝋の旧型の突合は、宰相ロシュフォール様と大法官モーリス様のお立ち会いのもと、お二人ご自身の目で確かめられたものです。私の舌は、そこに関わっておりません」
灰色の長衣の宰相様が、静かに頷きを返す。
「温室三十年の記録簿と、庭師ガストンの証言も同様です。声で答えるのは、彼自身」
近衛の一人が、古い綴じの頁をそっと開いて見せる。
「そして――温室の記録簿と、薬師ギルドの名簿は、頁ごと根元から破り取られ、王宮の台帳は、破らずに偽りの一行が書き足されておりました。同じ一つの手が、記録ごとに手を変えている。これは、目のある者なら誰でも確かめられる、物としての証です」
一つずつ数えるたび、広間の空気が、わずかに変わっていくのが分かった。先ほどまでの疑いのざわめきが、次第に息をひそめていく。
「生木を運んだ経路は、オーギュスト殿の証言。月のない夜の文は、デニスの証言。いずれも、私の舌を一切通しておりません」
私は、そこで一度言葉を切った。証人たちの顔を、一人ずつ目に留める。震えた指、伏せた目、それでも顔を上げて立つ姿。彼らの分まで、声を届けなければならない。
「私が舌か否かを一言も申さずとも、これらの糸は、あなた一人に集まります」
ダレン侯爵の口元の笑みは、まだ崩れていなかった。
崩れないまま、その目だけが、値踏みするように私を見つめている。何十年も、こうして人の隙を探してきた目だった。
「なるほど。しかし――丸薬が、確かに毒であるという判定そのものは。あれだけは、あなたの舌以外に、確かめる術がないのでは」
痛いところを突いてきた。白磁の丸薬。薬の層と毒の層を継ぎ目なく固めたあの一粒だけは、私自身が舌で検めた判定に頼っている。
「仰る通りです」
私は、静かに認めた。
「ですから、私の舌が信じられぬのであれば――侍医長モロー様に、私とは別に、お確かめいただきましょう」
控えていたモロー様が、名を呼ばれて一歩前に出た。白い眉の下の目が、私を一瞥する。あの日、王太子の容態を巡って私に面子を潰されて以来、この人は私のやり方を、渋々ながらも認めてきた人だった。杖を突く手の甲に、幾筋もの皺が刻まれている。
「よろしいので。あなたの判定が、覆るかもしれませんぞ」
「構いません。舌は、正しいことだけを言うために鍛えたのではありません。正しいと証すために鍛えたのです」
モロー様は、しばし私を見据えたあと、近衛から丸薬を受け取った。断面に鼻を寄せ、指の腹でわずかに削る。舌に乗せる量を見極めるその手つきに、私は口を挟まなかった。侍医長ほどの者なら、粉を舌先に乗せる際の量の頃合いは、私が言うまでもなく心得ている。
口には含まず、削り取った粉のごく僅かだけを舌先へ乗せる。広間の誰もが、息を詰めてその指先を見つめていた。長い沈黙が、広間に落ちた。
「――薬の層の奥に、毒がある。継ぎ目のない、二層固めだ」
モロー様の声は、迷いなく響いた。
「私は、アッシュフォード嬢の判定を聞かずに検めた。だが、同じ結論に行き着いた」
杖を突いたまま、モロー様が一歩、卓から離れる。その背中に、迷いはなかった。
権威主義の人だった。だからこそ、私に借りを作ったままにはしたくなかったのだろう。その意地が、今は何より確かな裏書きになっていた。宰相様も大法官様も、静かに頷いてそれを見届けている。誰かの心証ではなく、確かめられる者が確かめた事実だけが、卓の上に積み上がっていく。
ダレン侯爵の笑みが、初めて、静かに消えた。
「……見事です」
低い声だった。今までの、労わるような響きは消えていた。
「私の最後の一手すら、あなたは見越していた」
私は、そこで一つ、息を整えた。ここからが、本題だった。
「あなたが何を望んでいたのか、私にはまだ分かりません。ですが、母は死ぬ少し前、宰相府を訪ねています。『温室より古い、毒の記録』を探して」
広間が、静まり返る。
「温室が建つより前から、この王宮の毒を握ってきた者がいる。母上は、その原点に触れたから消されたのですね」
ダレン侯爵は、答えなかった。ただ、私を見つめる目だけが、これまでと違う色を帯びていた。
「三十年、あなたはただ、盤の下に手を敷いていればよかった。動く必要など、どこにもなかった」
私は、母が死んだ春を、そのまま口に乗せた。
「けれど三年前、先王陛下は――ご自分の手で、温室の毒を検め直そうとなさっていたのではありませんか。誰の目にも触れさせずにきた三十年の盤が、その一手で、根こそぎ覆るところだった。だから、あなたは動いた。先王陛下を退け、同じ春、原点に手を伸ばした母を消した」
ダレン侯爵の指が、卓の縁で、ほんのわずかに強張った。答えは、返ってこなかった。
「あなたは、玉座そのものを望んだのではない。玉座を、動かす手でありたかった」
ダレン侯爵の肩が、わずかに揺れた。笑みの下に隠れていた何かが、初めて表に滲み出た瞬間だった。
「――ほう」
初めて、侯爵の唇が、笑み以外の形に動いた。
「先王陛下を銀糸草で退け、次代を香で操り、ご自分は盤の外に立ち続けた。殺さず、操る。それが、あなたのやり方でした」
長い沈黙のあと、ダレン侯爵は、静かに肩の力を抜いた。まるで、長年着込んだ鎧を、ようやく脱ぎ捨てるかのように。
「王とは、器だ」
低く、澄んだ声だった。
「誰が中身を注ぐかで、国は決まる。玉座に座る者の器量など、誰が座っても大差はない。ならば――注ぐ手を握った者こそが、真に国を動かす者だ」
「先王陛下も、母上も、その理のために消されたと」
侯爵は、ゆっくりと首を横に振った。悔いも、迷いも浮かんでいない仕草だった。
「消したのではない。導いたのだ」
侯爵の声は、最後まで穏やかだった。だが、その言葉こそが、御前における自白だった。
陛下が、褥に沈めていた背を、わずかに起こした。近習が慌てて肩を支える。それでも、掠れた声には、揺るがぬ重みがあった。
「――ダレン侯爵。並べられた証は、既に足りておる。そのうえで、その方自らが口にした。もはや、これ以上は聞くに及ばず」
裁きの言葉が、広間に落ちた。断罪。三年、いや三十年越しの断罪だった。誰も、声を上げなかった。ただ、天井近くの高い窓から差す光が、静かに床を滑っていくのが見えた。
その瞬間、ダレン侯爵の指が、懐へと滑った。ほんのわずかな仕草だった。周りの誰もが、断罪の重みに気を取られ、その手の動きに気づいていない。
私の鼻が、その動きよりも早く捉えていた。つんと鼻を刺す刺激と、潰した杏の種に似た匂い。あの月のない夜、裏門の使いが奥歯で噛もうとした、口封じの毒と同じ匂いだった。
「――させません」
体が、考えるより先に動いていた。私は、駆け寄りながら手巾を広げ、侯爵の口元ごと押さえ込んだ。指の先に、小さな包みの感触がある。それを、力ずくで奪い取った。侯爵の腕が、なおも喉元へ伸びようとするのを、私は両手で押さえ込んだ。
「あなたには、生きて償っていただきます」
声が、震えていた。だが、退きはしなかった。
「死んで逃げることは、許しません」
侯爵は、しばし私を見つめたあと、ふっと息を吐いた。抵抗の力が、その体から抜けていく。
「……そこまで、見抜くか」
近衛が両脇を固め、侯爵の体を引き立てていく。振り返ったその顔に、もう笑みはなかった。
引かれていく足音が、遠ざかっていく。長く王宮の陰に潜んでいた影が、ようやく光の下に引きずり出された瞬間だった。それでも、勝ち鬨のような高揚は、どこにも湧いてこなかった。
隣で、殿下が短く息を吐く気配がした。
「これまで、駒たちの誰一人として、生かして口を割らせてこなかった相手だ」
私は、まだ震えの残る指を握りしめたまま、小さく頷きだけを返した。
「それを、お前が初めて――向こう側からも、逃がさなかった」
殿下の目に、これまで見たことのない色があった。安堵とも、誇らしさとも呼べる、静かな光だった。
思えば、負傷したあの夜、殿下は一つの伏せ手を案じていた。証のすべてをこの舌で検めてきた私自身が、いつか偽りの舌と疑われる――と。だからこの数日、多くを語り合わずとも、二人でモロー様に検分の筋道を通しておいた。
侯爵が最後に切ってくるであろう一手を、殿下も私も、同じ形で読んでいたのだ。二人の呼吸が、ここまでの数日で、確かに一つに重なっていたのだと、今さらのように思い知る。
陛下の宣告のもと、広間はゆっくりと解けていった。重鎮たちのざわめきが、これまでとは違う響きを帯びている。ボードワン侯爵は、まだ椅子の上で身を縮めたままだった。
すべてが終わったはずなのに、勝った実感は、思っていたより静かだった。
広間の外に出ると、渡り廊下に差す光が、いつのまにか夕暮れの色に染まっていた。婚約破棄のあの夜から数えて、幾つ目の夕暮れになるのだろう。母の仇は、確かに裁かれた。冤罪も、もう晴れたも同然だった。それなのに、胸の底に残るのは、安堵よりも、名の付かない不安だった。
体に毒を残したまま、まだ目覚めきらないミレーヌ様のこと。
そして――事件が終われば、王弟宮付き調査役という役目も、殿下の隣に立つ理由も、静かに消えてしまうという予感。これまでは、舌の先が次に向かうべき道を、いつも示してくれていた。
毒はもう、私に嘘を教えてくれない。
これからは、何を頼りに、この人の隣にいればいいのだろう。夕暮れの光の中、隣を歩く殿下の横顔を見上げながら、私はその答えを、まだ持っていなかった。




