第022話 霧が晴れて
御前での裁きから三日が経った。
その間に、事件の全容を記した布告が、王都の隅々にまで貼り出された。先王毒殺、香毒による王太子傀儡化、毒見役の家への冤罪――ダレン侯爵という名の下に埋もれていた真実が、初めて公の文字になった。連行されていく侯爵の背を見送ったのが、つい昨日のことのようにも、遠い昔のことのようにも思える。
「アッシュフォード伯爵令嬢、無実」
その一文を、私は貼り出された布告の前で、他人事のような気持ちで読んだ。あの夜から数えて、幾つの夕暮れを越えてきたのか、もう指を折る気にもならなかった。
評議の広間に呼ばれたのは、その日の午後だった。
正装した重鎮たちが左右に居並ぶ中、ボードワン侯爵の姿もあった。婚約破棄のあの夜、誰よりも大きな声で私を糾弾した人だ。今日は、俯いたまま身を縮めている。
「ボードワン侯爵」
陛下の名代を務める大法官モーリス様の声が、静かに響いた。
「そなたが主導した二度の糾弾――婚約破棄の夜と、家宅改めの折。いずれも、根拠はダレン侯爵の仕込みであったと明らかになった。要職を解き、当面の謹慎を申し付ける」
「……仰せの通りに」
ボードワン侯爵の声は、掠れて小さかった。かつての大声はどこにもない。あの夜、彼の糾弾に唱和して私を指さした重鎮たちが、今日は一人残らず、彼から目を逸らしている。
逃げ場を失った赤ら顔が、耳のふちまで朱に染まった。何か言おうと開きかけた口は、とうとう一言も継げず、そのまま閉じられた。ちらりとこちらを見た目には、詫びとも、恨みとも取れない色が浮かんでいたが、すぐに逸らされた。
白薔薇の立証で嘲笑が沈黙に変わったあの日と、同じ椅子に、彼は今日も座っている。あのとき彼を守った数の力は、もうどこにもない。私はただ、静かにそれを見ていた。彼の凋落は、彼が座らされたその椅子が、すでに雄弁に語っている。
広間を出る道すがら、これまでダレン侯爵に調子を合わせていた重鎮たちが、次々と歩み寄ってきた。
「アッシュフォード嬢、あの折はご無礼を」
「いやはや、あなたの舌があってこそ、この王宮は救われた」
手のひらを返したような言葉の群れに、私は一つずつ短く頭を下げるだけで応じた。怒りも、皮肉も湧いてこない。詰め寄って恥をかかせたところで、母は喜ばない。ただ、少しだけ疲れただけだった。
翌朝、私はユリウス殿下の私室を訪れた。
寝台の上ではなく、椅子に座って迎えるユリウス殿下の姿を見るのは、初めてだった。半年の霧を抜けた顔は、憔悴の色を残しながらも、以前よりずっと穏やかに凪いでいる。
「詫びの言葉は、もう十分に聞いてもらったと思う。だから今日は、礼を言いたかった」
礼、と私が問い返すと、ユリウス殿下は静かに頷いた。
「あの夜のことも、この舌が私を助けた道のりも――一生、忘れない」
私は、静かに首肯した。
「私も、忘れません」
一拍だけ置いて、まっすぐにユリウス殿下の目を見る。
「ですが、私が守りたいものは、もう定まっています。殿下の隣に戻ることではなく、この舌の使い道です」
顔を上げたユリウス殿下の目に、驚きはなかった。ただ、寂しさと、それを無理に隠さない穏やかさが同時に浮かんでいる。
「分かっている。もう、縋るつもりはない」
その言葉に、嘘はなかった。半年前の傲慢さも、目覚めた夜の縋る目も、もうそこにはない。ただ一人の、静かな人が座っているだけだった。
「これからは、殿下ご自身の足で、立たれてください」
ユリウス殿下は、努める、とだけ短く応じた。その声に、かつての尊大さの名残はもうない。私は深く一礼して部屋を辞した。扉が閉まる音が、これまでの半年に、静かに幕を引いた。
父との再会は、その日の昼だった。
護送を解かれた父は、王弟宮の一室で待っていた。頬はこけ、白いものが増えた髪が、以前より薄く見える。格子越しに言葉を交わした、あの対面からそう遠くない日々のことだった。それでも、扉を開けた私を見た瞬間、父の背筋がまっすぐに伸びた。
「リディア」
ただ名を呼ばれただけで、喉の奥が熱くなった。私は駆け寄り、父の胸に額を押し当てた。子どもの頃以来、していない仕草だった。
「……すまなかった。長いこと、お前一人に背負わせた」
私は顔を上げ、首を振った。詫びの言葉は、もう要らなかった。
「父上が黙っていた理由も、今は分かります。私と、家を守るためだったと」
父は、しばらく口を閉ざしていた。窓の外の光が、白髪の一筋に触れている。
「母さんは……」
やがて、父がぽつりと切り出した。これまで、決して自分から語ろうとしなかった名前だった。
「賢い人だった。お前と同じに、匂いだけで、庭の薬草の育ち具合まで言い当てた。お前が生まれてすぐ、あの子は私の舌より鋭いと、笑っていた」
「父上」
「訓練死などと、よく偽れたものだと、今さらながら腹が立つ。あれは、誰よりも生きることに、真面目な人だった」
父の声が、微かに震えていた。三年ものあいだ胸の底に沈めてきた重みが、今ようやく言葉になっている。私は父の手を取った。骨ばった、けれど温かい手だった。
「お墓に、報告に参りましょう。すべてが終わったら」
ああ、と父が頷いた。そして、初めて笑った。まだぎこちない、けれど確かな笑みだった。
夕刻、王弟宮の回廊で、私は王弟殿下と行き会った。
包帯の下の傷は、もうほとんど塞がっているという。それでも殿下は、まだ左腕を庇うような仕草を、時折見せる。
「父君とは、話せたか」
はい、ようやく母のことを――そこまで言って、言葉が続かなかった。殿下は、それ以上を問わず、ただ小さく頷いた。
回廊の向こうから、夕暮れの風が吹き抜けていく。調査役としての役目は、もう終わっている。これまで当たり前のように隣を歩いてきた理由が、今日を境に消えてしまったのだと、遅れて気づいた。窓の外の光が、殿下の横顔を赤く染めている。
殿下は、これからどうされるのか。私がそう尋ねると、返ってきたのは素気ない答えだった。
「陛下への報告と、後始末が残っている。しばらくは、忙しくなる」
短い返事の後、殿下は口を噤んだ。何かを言いかけて、思い直すような間が、いつもより長く続く。灰青の瞳が、一度こちらへ向いて、すぐに窓の外へ逸れた。
「……お前は」
私が小さく応えると、殿下は、いや、と一言だけ言って目を伏せた。柄にもなく、歯切れの悪い声だった。
「なんでもない。今日は、休め」
はい、と頷くことしか、私にはできなかった。役目という名の橋が外れた今、この人との間合いを、どう測ればいいのか分からない。婚約破棄のあの夜から、共に積み上げてきた信頼の重みは、確かにそこにある。
それでも、その先にある名を、まだ互いに知らない。もう舌の先も、次に進むべき道を教えてはくれない。互いに一歩を踏み出せぬまま、私たちはただ並んで、赤く染まる回廊を見つめていた。
その夜、床に就く前に、モロー様から報せが届いた。
ミレーヌ様の容体は、まだ峠を越えていない。ダレン侯爵が縛につき、あの名を口にする危険――いちばんの引き金は、もう遠ざかった。だが、体に眠る遅効の毒も、染みついた香毒の依存も、まだ抜けきってはいないという。眠り続ける小さな体を、あの夜、私がそうしていたように、モロー様が見守っているらしい。
「救うと決めたのなら、最後まで」
私は、燭台の火を見つめながら呟いた。積年のざまぁは、確かに晴れた。父も戻り、名誉も回復した。それでも、まだ癒えていない傷が、王宮のどこかに残っている。すべてが終わったとは、まだ言えなかった。
翌朝、王弟殿下からの使いが、短い書状を届けてきた。
『此度の働きについて、正式な沙汰を近く下す。心づもりをしておくように』
差出人の名だけが、いつもと変わらぬ端正な筆跡で記されていた。何が告げられるのか、書状には一言も記されていない。調査役の役目が終わった今、次に告げられるのが褒賞なのか、それとも本当の別れなのか、私には測りかねた。
役目があったから、あの人の隣にいられた。その役目が消えた今、私は何者として、あの回廊に立てばいいのだろう。
氷のようなあの人が、昨日、伏せたまま呑み込んだ言葉を、いつか私に向けてくれる日が来るのか――そんなことを願う自分が、柄にもなく怖かった。選ばれることを望むのは、私にはいちばん、慣れないことだった。
ただ、これまでとは違う何かが、静かに動き出す予感だけが、胸の奥に残った。




