第023話 最後の毒
御前の裁きから五日が過ぎても、ミレーヌ様の瞼はまだ閉じたままだった。
寝台の傍らに置かれた燭台の灯りが、白い頬を静かに照らしている。指先はもう震えていない。眠っているだけの人の顔は、あの夜嘲笑された小悪魔じみた微笑みとも、脅えて震えていた娘の顔とも、少し違って見えた。
名を口にした瞬間に牙を剥く毒――あの引き金は、ダレン侯爵が捕らえられたことで、当分は引かれずに済むはずだった。けれど、体の底に眠る毒そのものと、香に馴らされた依存は、まだそこに居座ったままだった。
断罪が終わっても、この人の戦いはまだ終わっていない。私は、そのことを毎晩この部屋に来るたび思い知らされていた。
「根治するには、二つを同時に断たねばなりません」
灯りの下で、私は昨夜のうちに書き溜めた覚書を見返した。両方を一度に扱った前例は、どの書物にも載っていない。
私は、寝台の脇に広げた紙の上を指でなぞりながら言った。傍らには、まだ手の震えの癖が抜けきらないオーギュストが控えている。地下から救い出されて八日ほど、頬にはようやく血の色が戻り始めていた。窓辺には、モロー様が煎じ薬の入った鍋を静かに見張っている。
「毒だけを眠らせたままでは、依存が体を食い破ります。依存だけを断てば、今度は毒が牙を剥く。片方ずつでは、どちらも仕留められません」
オーギュストが、卓の隅の薬包を一つ手に取り、封の合わせ目にそっと鼻を寄せた。震える指でも、匂いで中身を確かめる手つきだけは、造り手のものだった。
「私が仕込んだものです。中和の道筋も、私がいちばんよく知っています」
オーギュストが、震える指で自分の書いた覚書を指し示す。地下に囚われていたあの十日あまり、隠れて書き溜めていた配合の記録だった。指の震えだけは、まだ元には戻っていない。それでも、その指は迷わず紙の上を辿っていた。
「薬層と毒層を、逆の手順で溶かせば――毒だけを先に、薄めながら引き剥がせるかもしれません」
「両方、一度に。それしか、道はないと」
オーギュストは、静かに頷いた。妻子を人質に取られ、望まぬまま毒を仕込み続けてきた男の手が、今は誰かを救うために動いている。その姿を見るだけで、胸の奥が少しだけ軽くなった。殿下ご自身が選ばれた手の者の探索で、彼の妻子は既に無事保護され、王都の外れで静かに暮らしていると聞いていた。
「では、やりましょう」
私は、卓の上に並べた薬包を数え直した。銀糸草の解毒に使う炭の粉、体の熱を支える強壮の根、そして香毒の依存を鎮める、これまで誰も配合したことのない一服。オーギュストの記録と、私の舌が確かめてきた毒の性質を、一つに束ねる作業だった。
窓の外では、日が傾き始めていた。今夜のうちに始めなければ、峠を越える体力そのものが持たない――モロー様の見立ても、それを裏付けていた。
峠は、明け方にやってきた。
薬を含ませてから半刻ほどで、ミレーヌ様の額に汗が浮き始めた。浅い息が、次第に速くなる。あの救命の夜と、同じ危うさだった。あのときは、生かして口を封じる毒に阻まれ、抑え込むことしかできなかった。今度は違う。根治するために、体の底の毒をあえて起こし、外へ引きずり出す賭けだった。
「脈が、乱れています」
モロー様の声が、緊張を帯びる。私は、細く開いた唇に耳を寄せ、匂いの変化を追い続けた。焦げた砂糖に似た刻印が薄れ、代わりに薬草の青い匂いが強くなっていく。毒が、確かに引き剥がされている証だった。
「もう少しです。眠っていたものを、今、全部連れ出しています」
声に出して、自分にも言い聞かせた。長い夜だった。汗を拭い、脈を数え、匙一つ分の薬を差す間隔を、幾度も舌の上で計り直す。一つ量を誤れば、引き剥がした毒がそのまま体を食い破る、逃げ場のない賭けだった。
オーギュストは寝台の脇に膝をつき、自分の仕込んだ毒の行方を、片時も目で追うのをやめなかった。窓の外が白み始めた頃、ミレーヌ様の呼吸が、ようやく凪いだ。
「峠は、越えました」
モロー様が、静かに息を吐いた。オーギュストの膝から、力が抜け落ちる音がした。
「良かった……」
震える声で、オーギュストがそれだけを繰り返した。人質に取られた妻子のために毒を仕込み続けてきた男が、今度は誰かを生かすために、夜通し手を貸し続けた。その指先の震えは、もう恐怖のものではないと分かった。窓の隙間から差し込む朝の光が、彼の頬を静かに照らしていた。
目が覚めたのは、その日の昼過ぎだった。
「……ここは」
初めて聞く声だった。舌足らずな甘え口調ではない、年相応の、まっすぐな声。ミレーヌ様は、ゆっくりと瞬きをして、私の顔を見上げた。
「王弟宮です。あなたは、もう大丈夫」
私は、寝台の脇に膝をつき、額に張り付いた髪をそっと払った。ミレーヌ様の目が、ゆっくりと焦点を結んでいく。何かを思い出そうとするように、眉根が微かに寄せられた。
「私……あの人の名を、言おうとして」
震える声で、そこまで言うと、ミレーヌ様の体がわずかに強張った。まだ、あの夜の恐怖が体の奥に染み付いているのだろう。私は、その手をもう一度、包み込むように握り直した。
「言わなくて、大丈夫。もう終わりました。あなたを縛っていた人は、裁かれました」
ミレーヌ様の目に、じわりと涙が滲んだ。声を震わせることも、上目遣いに媚びることもない、飾りのない涙だった。
「怖かった。ずっと、演技をしていないと、殺されると思って」
言葉の一つ一つに、これまで押し殺してきた歳月の重みが滲んでいた。舌足らずな甘え声の裏に隠れていた、本当の声だった。
「よく、耐えましたね」
ミレーヌ様は、小さく、けれどはっきりと私の手を握り返してきた。
「ありがとう、ございます」
初めて聞く、演技ではない礼の言葉だった。舌足らずな甘え声も、祈るような指先の震えも、もうそこにはない。ただ、年相応の少女が、寝台の上でまっすぐに私を見上げているだけだった。初めてあの四阿で向き合った日に見た涙とも違う、これから先を生きていく者の顔だった。
その日の夕刻、宰相ロシュフォール様が、王弟宮を訪ねてきた。灰色の長衣の裾を払いながら、慣れた様子で応接の間へ通される。手にした包みを、私の前でそっと開いた。
「ダレン侯爵の私室から、これが見つかった」
古びた革表紙の帳面だった。表紙の革は乾いてひび割れ、綴じ紐は幾度も掛け替えられた跡がある。温室が建つよりずっと前――三十年よりもさらに遡る代からの、王家の毒にまつわる記録だった。歴代、玉座の傍らに影のように控えてきた者たちの手が、代々書き継いできたものだという。
「そなたの母君が探していたのは、これだ」
宰相様の声が、静かに響いた。
「温室ができる前から、この王宮の毒を握ってきた手がある。母君は、その糸の先にダレン侯爵の名を見つけかけていた。だからこそ、消された」
頁の一つ一つに、見覚えのない古い筆致で、毒の名と、それが誰の手に渡ったかが淡々と記されている。ある一行には、銀糸草の名と、それが渡された先の位が、値の張る品の受け渡しでも記すように書き添えられていた。
功名心でも、恨みでもない、ただ王宮の陰を管理するための帳面――それこそが、ダレン侯爵という人間の正体そのものだった。
帳面をめくる指が、微かに震えた。母が最後に見ようとしていたものが、今、私の手の中にある。母の戦いと、私の戦いが、ようやく一本の糸につながった気がした。母は、答えにたどり着く前に消された。だが、その先を継いで答えにたどり着いたのは、他でもない私だった。
「母上は、正しかった」
呟くと、宰相様は静かに頷いた。
その夜、私は一人、回廊に立っていた。すべての毒が、始末された。ミレーヌ様は救われ、母の探していたものも、今は私の手の中にある。積み上げてきた戦いの、最後の一つが終わった夜だった。すべてが始まったあの夜からずっと、舌の先が次に向かうべき道を示してくれた。だが、その毒はもうどこにもない。
それなのに、胸の奥に残っているのは、安堵よりも、名前のつかない不安だった。役目が消えた今、私は何を頼りに、あの人の隣に立てばいいのだろう。回廊の欄干に手をかけ、夜風に冷えていく指先を見つめながら、私はまだ、その答えを持てずにいた。
灯りを落とした庭のずっと先で、虫の声だけが夜を埋めている。誰かに選ばれることを、これまでずっと避けてきた。務めがあるから隣にいられる、それだけで十分だと自分に言い聞かせてきた。だが、務めが消えた今も、この場所を離れたくないと願っている自分に、私は今夜、初めて正面から向き合っていた。
足音が、遠くから近づいてくる。聞き慣れた歩調だった。
「リディア」
振り返ると、王弟殿下が立っていた。灰青の瞳が、いつになく落ち着かない色を宿している。回廊の陰から現れたその姿は、包帯もようやく外れ、いつもの佇まいに戻っていた。それでも、纏う空気だけは、これまでと違っていた。
「話が、ある」
短い一言だった。けれど、これまで聞いたどの号令よりも、殿下の声は掠れていた。
「氷の仮面の下に、ずっと伏せてきたことだ」
回廊に、夜風が吹き抜けていく。殿下の指が、一度固く握られ、それからゆっくりと開かれた。何かを、ようやく手放す仕草のように見えた。殿下がその先を続けるまで、私は、息をするのも忘れていた。




