第024話 毒のない言葉
月明かりが、回廊の石畳に殿下の影を長く落としていた。すべての毒が始末された、その夜のことだった。虫の声だけが庭を埋め、風は思いのほか冷たい。私は、欄干にかけていた手を、そっと下ろした。
殿下は、庭のほうを向いたまま、しばらく口を開かなかった。号令を下すときのあの淀みのなさが、今はどこにもない。夜気が二人の間で静かに張り詰めていく。
「話が、ある」
短い一言だった。けれど、これまで聞いたどの号令よりも、殿下の声は掠れていた。
「氷の仮面の下に、ずっと伏せてきたことだ」
殿下は、右手にはめたままだった手袋に、もう片方の手を掛けた。指の先が、留め具にかかる。人前で決して外さないその手袋を、殿下は今、自らの手でゆっくりと外していった。
現れたのは、指の付け根から手首近くまで斜めに走る、古い傷痕だった。剣を執り続けた手の証。オーギュストを地下から連れ帰った、あの帰り道――張り詰めた糸が切れかけた私を支えたこの手に、私が初めて指先で触れた、その傷だった。
今は月の光の下に、隠すもののないまま晒されている。手袋という鎧を、殿下は自らの意思で脱ぎ捨てていた。
殿下は、傷を隠す仕草も見せなかった。その手のひらをただ月光にさらし、何かを確かめるように、ゆっくりと指を開いては閉じた。私は、何も言わず、その傷跡に目を落とした。ずっと絹の下に閉じ込められていたものが、今こうして夜気に触れているという事実だけで、胸の奥がわずかに軋んだ。
「十二の頃、父上主催の茶会で、毒の仕込まれた茶に手を伸ばしかけた俺を、幼い毒見役の娘が止めた」
殿下の声は、静かだった。普段の端的な号令とは違う、言葉を選ぶような間があった。
「あの日から、俺はお前の舌を知っていた。だが、知っていたのはそれだけじゃない。あの茶会のあと、俺はしばらく、まともに剣も握れなかった。毒がどこに潜んでいるか分からない王宮で、誰も信じられなくなった。そんな俺に、この手で剣を振れと言ったのは父上だった。強くなれ、いつか誰かを守れる手になれと」
殿下は、傷の残る手のひらを、私の方へ差し出した。差し出された手のひらの上を、月の光が滑っていく。私は、黙って続きを待った。夜風が、殿下の言葉を運んでくる。その一つ一つが、氷と呼ばれた人がどれほど長く言葉を選び、胸の底に沈めてきたものかを、間の長さが物語っていた。
「稽古で傷を作るたび、俺は思っていた。いつかまた、あの舌の持ち主に会えたらと。名も知らぬまま、その目だけを覚えていた」
殿下は、そこで一度言葉を切った。灰青の瞳が、まっすぐに私を見据える。夜の帳の中でも、その目だけは澄んで揺るがなかった。
「三日の猶予を切り出したあの夜、お前の顔を見た瞬間、分かった。捜していたのは、お前だったと」
十二年越しの答え合わせだった。あの取引の夜、氷の王弟と呼ばれる人が、なぜあれほど早く私の無実を確信していたのか。理由は、王宮の毒の影を追う執念だけではなかったのだと、今ようやく知った。あの日、私が名も知らぬまま止めた小さな手が、十二年をかけて、こうして目の前で傷ごと開かれている。
胸の奥が、静かに波立った。だが、すぐには言葉が出てこなかった。喜びだと言い切ってしまえるほど、私の胸は素直に出来ていない。
私が、殿下、と呼びかけたその最初の一音を、殿下は待たずに遮った。
「ヴィンセントと呼べ」
短く命じる響きだった。それでも、その声の底には、これまで聞いたことのない揺らぎがあった。命じる形をとりながら、その実、乞うているのだと、初めて分かった。
けれど、その名を口にするより先に、私は一度目を伏せた。喜びよりも先に、胸の奥から冷たいものがせり上がってくる。この三日、いや数か月、ずっと胸の底に沈めてきた不安だった。
「私は……この舌があったから、あなたの傍にいられました。調査役という役目があったから。もし、この舌がなければ」
言葉が、続かなかった。誰かに選ばれることに、私はずっと慣れていない。婚約さえも、家の務めと割り切って受け止めてきた。今度もまた、同じではないのか。舌のためではないと、どうして言い切れるのか。指先が、無意識のうちに冷えていく。
「もし舌を失えば、私はただの、何も持たない女です。それでも、隣にいられると――」
「舌が要るから、傍に置いたのではない」
殿下の声が、私の言葉を断ち切った。強い響きだったが、荒くはなかった。むしろ、これまでのどの言葉よりも、丁寧に置かれた声だった。
「三日の猶予を切ったあの夜、俺が欲しかったのは、犯人を暴く道具ではない。まっすぐに俺を見て、退かなかった、お前自身だ」
殿下は、傷のある手を、そっと私の頬に添えた。手袋越しでは幾度もあった。けれど素肌のまま、殿下の側からこの手で触れられるのは、これが初めてだった。
硬い皮膚の感触が、じかに頬へ伝わってくる。冷えているはずのその手が、なぜか温かい。
「舌を失っても、俺はお前を選ぶ。毒を見抜けなくなっても、お前がお前である限り、変わらない。務めが消えた今も、お前がここにいる理由を、俺が用意する。誰にも文句は言わせん」
喉の奥が、熱くなった。長年、自分の値打ちを舌の確かさに置いてきた。それを丸ごと外して、それでも欲しいと言われたのは、生まれて初めてのことだった。目の縁に、じわりと熱が滲む。
涙が、頬を伝った。拭う間もなく、次から次へとこぼれてくる。頬に添えられた手のひらの傷が、その涙を受け止めた。
「あなたは、いつも、いちばん欲しい言葉を、いちばん静かな声でくださいます」
私は、殿下の手に、自分の手を重ねた。硬い傷の起伏が、私の手のひらの下でわずかに動く。もう、その手はどこにも隠されようとしなかった。
千の毒を見分ける舌で、私は人の言葉ばかりを疑って生きてきた。務めだからと差し出され、務めだからと退けられ、その繰り返しの底に、この口癖はいつも沈んでいた。私は今、その言葉を初めて、毒のためではなく口にする。
「毒は嘘をつきません。嘘をつくのは、いつだって人間のほうです――母の、口癖でした。けれど今なら分かります。人の言葉にも、嘘のないものがあると。あなたの言葉に、嘘はありません。千の毒を知る舌が、誰よりもそれを分かっています」
殿下の目元が、わずかに緩んだ。氷と呼ばれた人が見せる、初めての笑みだった。
「では、答えを聞かせてくれ」
私は、重ねた手に力を込めた。母から受け継いだ舌ではなく、私という一人の女が、初めて自分の意思で誰かを選ぶ。その重みを噛みしめて、私は顔を上げた。
「はい――ヴィンセント」
初めて口にしたその名は、思っていたよりずっとやわらかく、夜気に溶けた。呼んでしまえば、なんということもない。ただ、これまで一度も呼べなかったのだと、呼んでから気づいた。殿下が、灰青の瞳をわずかに見開いた。名を返されることに、この人もまた慣れていないのだと分かった。
「あなたの隣に、これからもいさせてください。舌のためではなく、私自身として」
殿下は、傷のある手で私の手を包み込み、そのまま額を寄せてきた。夜風が、二人の間を静かに通り過ぎていく。婚約破棄のあの夜から数えきれないほどの夕暮れを越えて、ようやくたどり着いた場所だった。
触れ合った額から、この人の体温が伝わってくる。氷などではなかった。ただ、誰にも触れさせずに温めていただけだった。
殿下の声が、耳元で低く響く。
「ずっと、この手を隠して生きてきた。誰にも触れさせず、弱さごと鎧の下に閉じ込めて。お前にだけは、素手で触れたかった」
私は、その手を強く握り返した。傷の一つ一つを指先で確かめるように、ゆっくりと。もう、離す気はなかった。しばらく、二人とも動かなかった。虫の声が、また庭を満たしていく。言葉はもう、いらなかった。
遠くから、足音が近づいてきた。近衛の一人が、息を切らして回廊の角から現れる。私たちは、そっと手をほどいた。
「殿下。夜分に失礼いたします。陛下より、火急のお申し付けが」
殿下が、わずかに眉を寄せて振り返った。安らいでいた気配が、一瞬で王弟のものに戻る。今か、と低く問い返す声に、近衛は姿勢を正した。
「明日の御前にて、正式な沙汰をお下しになるとのことです。アッシュフォード嬢に――」
近衛の言葉が、そこで一度止まった。何かを言いよどむような、短い間があった。
「王家の毒見役としてではなく、新たな役目を仰せつかる由にございます」
私は、思わず殿下の顔を見上げた。殿下もまた、意外そうに片眉を上げている。
「褒賞なら、俺が沙汰を用意するつもりでいた。それを陛下が、御前へ引き上げられたか」
殿下が、低く呟いた。事件の始末を陛下へ奏上したのは、ほかならぬこの人だ。労いの沙汰があるとすれば、その手から下されるものと、私も思っていた。それを陛下自らが御前の沙汰へ引き上げたということは、褒賞では足りぬ何かを、私に与えるおつもりなのだろうか。
殿下の声には、驚きと、かすかに面白がるような響きが混じっていた。近衛は「詳しくは、明日の御前にて」とだけ答え、深く頭を下げる。
「新たな、役目」
呟いた声が、夜風にさらわれていく。母から継いだ「毒見役」の名は、明日、どんな言葉に変わるのだろう。傍らで手を握り直した殿下の指に、力がこもるのを感じながら、私はまだ見ぬ明日の御前を、静かに思い描いていた。




