第025話 毒見役の伯爵令嬢
御前の間に呼ばれたのは、あの回廊の夜から一夜明けた朝だった。
まだ夜露の匂いが残る廊下を歩きながら、私はヴィンセントと目を合わせた。互いに、昨夜の続きを言葉にする間もないままだった。
正装した重鎮たちが左右に居並ぶ中、陛下は寝椅子のまま、それでも背筋だけはまっすぐに、私を見据えていた。
「アッシュフォード伯爵令嬢リディア。此度の働き、王家として正式に労いたい」
細い声だったが、一言一言に確かな重みがあった。
「王家の毒見役という役目は、此度をもって除く。代わりに――」
広間の誰もが息を詰める間があった。
「新たに『王宮薬毒監』の任を授ける。王宮に巣食う毒を見張り、二度とこの国を蝕ませぬための役目だ。加えて、王弟ヴィンセントの妃に迎えることを許す」
どよめきが広間を渡った。私は深く頭を垂れた。母から継いだ「毒見役」の名が、ここで初めて別の言葉に変わった瞬間だった。誰かの毒を舐めて確かめる役目から、この国そのものに毒を近づけさせない役目へ。長い戦いの果てに、ようやく手にした場所だった。
隣に立つヴィンセントの手が、そっと私の手を探り当てる。人前でそんな仕草を見せたのは、初めてだった。指先が、あの回廊の夜よりも、ずっと落ち着いていた。
「――謹んで、お受けいたします」
声は静かに、けれど揺るがずに響いた。
あの夜会の夜からずっと、私を支えてきた矜持が、静かに報われた気がした。
それから、季節が二つ巡った。
婚礼の日、私は毒見役の地味な装束ではなく、白い衣を纏った。
参列した貴族の末席には、謹慎を解かれたばかりのボードワン侯爵の姿もあった。もう大声で誰かを断じることもなく、ただ風向きを窺うように、静かな会釈だけを寄越してきた。要職を退いた今の彼にできるのは、それだけだった。
あれほど声高に私を告発した口が、今はこんなにも静かなのだと思うと、勝ち誇る気持ちよりも、むしろ胸の奥が凪いでいくのを感じた。
ヴィンセントの隣で誓いの言葉を口にしたとき、隣の彼の手にも力がこもるのを感じた。あの夜の傷跡は、今はもう誰の目にも隠されていない。
「これで、逃げ場はなくなったな」
誓いの直後、耳元で囁かれた低い声に、私は思わず噴き出しそうになった。氷の王弟と呼ばれた人が、こんな軽口を叩くようになったことに、誰よりも私自身が驚いている。
「王宮薬毒監」の名で新設された小部屋には、王宮中の薬草・毒物の管理台帳が集められた。もう二度と、頁を破られて泣き寝入りすることのないように、写しを二重に取り、片方は必ず私の手元に残す決まりを、真っ先に定めた。
月に一度は温室にも足を運び、ガストンの帳面と突き合わせる。頁の欠けは、もう一枚もない。
ユリウス殿下は、素の穏やかさのまま王太子の座にとどまり、陛下の傍らで政務を学んでいる。時折この部屋を訪ね、書類の山越しに近況を交わすだけの、あっさりとした間柄になった。
「香を焚く許可は、今後は薬毒監の判こなしでは下りぬそうだ」
殿下がそう笑うたび、私は「それでよいのです」とだけ返す。あの半年の霧を、二度とこの王宮に忍び込ませはしない。
ミレーヌ様とは、月に一度、王都の外れの離宮で顔を合わせる。舌足らずな甘え声はもう出てこない。演技を脱いだ素の声は年相応に軽やかで、最近は薬草学の初歩を学び始めたという。
「いつか、リディア様のお役に立てるように」
そう言って笑う顔に、もう震えの影はなかった。男爵家の借財は、事件の顛末を知った陛下の計らいで清算され、父君の療養も進んでいると聞く。
オーギュストも、彼女の教本を選ぶ手伝いをしているらしい。焼け落ちた工房は王宮の後ろ盾で建て直され、今度は誰にも脅されない、彼自身の名を掲げた工房になった。
父は領地に戻り、母の墓の周りに薬草の庭を作り始めたと文で知らせてきた。「あの子が好きだった花を、少しずつ増やしている」と、不器用な字で綴られた一文が、何度読んでも胸を温めた。
三年ものあいだ母のことを一言も口にしなかった父が、今は文の中で、母の名を幾度も書いてくる。押さえつけられていた沈黙がほどけて、ようやく普通に亡き妻を悼めるようになったのだと思うと、私はその頁を、しばらく閉じることができなかった。
ガストンの温室は変わらず守られ、老庭師は近ごろ弟子を一人取ったという。壁際の陰の株も、もう誰にも刈られることはない。
ダレン侯爵は、死ぬことを許されなかった。生きて償えという裁きの通り、辺境の毒物研究所で、二度と外へ出ることのない身のまま、これまで積み上げてきた毒の知識を、解毒の側に注ぐ日々を送っているという。
半年に一度届く報告書には、これまでに彼が中和法を導いた未知の毒が、既にいくつも記されていた。
穏やかな笑みは、もう誰の目にも触れることはない。だが、その舌ではない知恵だけは、確かに国のために働き続けている。
「浮かない顔だな」
書類の写しを検めていた私の背に、ヴィンセントの声がかかった。振り返ると、寝所の入り口に立った彼が、片眉を上げてこちらを見ている。
「ダレン侯爵のことを、考えていました」
「憎いか」
「憎くないと言えば、嘘になります」
私は筆を置いた。
「ですが、彼が生きて償う姿を、母は望んでいたと思うのです。毒は嘘をつきません。彼の知識まで無駄に殺すのは、母のやり方ではありません」
ヴィンセントは、しばらく黙って私を見ていた。それから、ふっと口の端を緩めた。
「相変わらず、良い舌だ」
初めて会ったあの夜、氷のように投げつけられた台詞だった。それを今度は、温かい声で告げられて、私は思わず笑ってしまった。十二年ものあいだ、この人は名も知らぬ子供の舌を、忘れずにいてくれたのだ。
「あなたは、いつまで経ってもそこですね」
私が呆れたように言うと、彼は片眉を上げただけで、悪びれもしなかった。
「悪いか」
窓辺の光が、傷の残る手のひらに落ちている。私はしばらくその手を見つめてから、首を振った。
「いいえ」
私は立ち上がり、彼の胸に軽く額を預けた。憎しみだけでは前に進めないと、この人と出会って初めて知った。
彼の腕が、そっと私の背に回った。窓の外で、初夏の風鈴が小さく鳴った。
その週の終わり、私たちは連れ立って、アッシュフォード領の小さな墓地を訪れた。
母の墓石には、父が植えたばかりの若い薬草が、風にそよいでいる。私は膝をつき、持ってきた白い花を供えた。
「母上」
声をかけると、隣にヴィンセントが静かに寄り添った。
「冤罪は晴れました。仇も、裁かれました。母上の探していたものも、私が受け継いで、答えにたどり着きました」
風が、墓石の周りの葉を揺らす。
「毒は嘘をつきません。嘘をつくのは、いつだって人間のほうです――母上の言葉を、私はこれからも忘れません。ですが今は、それだけではないと分かります。人の言葉にも、嘘のないものがある。私は、その人を見つけました」
隣でヴィンセントが小さく頷く気配がした。
「どうか、見ていてください。私はこれから、毒を見抜く舌としてだけでなく、毒からこの国を守る者として生きていきます」
夕暮れの風が、二人の間を静かに通り過ぎていく。振り返ると、ヴィンセントが手を差し出していた。私はその手を取り、傷の残る指を、ゆっくりと握り返した。
「良い墓参りだった」
彼の声は短かったが、その目は墓石にしばらく留まっていた。夕闇が、二人の影を長く伸ばしている。
「母上に、会わせたかったのです。あなたのことを」
彼は少しの間、黙って墓石を見つめていた。それから、静かに問うた。
「気に入っていただけたか」
私は、墓石に供えた白い花にもう一度目をやってから、頷いた。
「きっと。母は、良い舌には正直な人でしたから」
帰り道、遠い港町から来たという行商人とすれ違った。荷の中には、見たこともない香辛料や薬草の束が積まれていたという噂だけを、風が運んできた。海の向こうには、私の知らない毒も、まだたくさんあるのだろう。
千の毒を見分けてきたこの舌にも、まだ知らぬ毒がこの世には残っているのだろう。海の向こうにも、隣国にも。だが、それを恐れる理由はもうどこにもない。
隣に、共に立つ人がいる。
毒は嘘をつかない。そして今、私の隣にいる人の言葉にも、嘘は一つもなかった。




